敗戦からの復興を実現させた原動力は電機や自動車などの技術面が主流であり、我が国はかねてより「技術立国」とも呼ばれていますが、こうした科学技術の発展は名もない人々による「ものづくり」の精神によって支えられているということを皆さんはご存知でしょうか。
我が国における「ものづくり」の精神の歴史は今に始まったわけではありません。島国という資源などが限られた環境で、日本人は昔から創意工夫を重ねて生活を少しずつ向上させていきました。
政治や戦いなどで名前が知られている歴史上の人物に比べると、「ものづくり」を極めた技術者や発明家などに関する知名度は今一つのようですが、そんな彼らの生涯をたどっていくことで、私たちは新たな面から歴史の流れをつかむことが可能になるのです。
ここからは、江戸後期から明治初期にかけて活躍した発明家である田中久重の人生を振り返りながら、彼がもたらした我が国の発展に欠かせない大きな歴史の流れを見極めたいと思います。
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べっこう細工師は、タイマイ(ウミガメの一種)の甲羅(こうら)を利用した工芸品や装飾品を作成するのを生業(なりわい)としており、非常に精緻(せいち、極めて詳しく細かいこと)な金属細工を必要としていました。
儀右衛門は、幼い頃から父や職人による高度な技巧を見て育つとともに、血のつながりもあったためか生まれつき手先が大変器用でした。9歳の頃、儀右衛門は通っていた寺子屋にお手製の硯箱(すずりばこ)を持参し、開けてみるよう仲間に声をかけましたが、誰も開けることが出来ませんでした。
実は硯箱には巧妙な細工がしてあり、仕掛けを知っている儀右衛門だけが開けることが出来たのです。普段から自分の硯箱を仲間に勝手に開けられていたことで思いついたからくりだったのですが、こうした工夫が簡単にできるあたりが、儀右衛門の豊かな将来性を感じさせるエピソードでもありますね。
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その女性とは、同じ久留米に住んでした井上伝(いのうえでん)であり、彼女は久留米絣(くるめがすり)の創始者でしたが、絣に絵を入れることがどうしても出来ず、儀右衛門に依頼したのでした。
儀右衛門は伝の期待に応えて、絣に絵模様(えもよう)を織り込むための織機(しょっき)を完成させ、久留米絣の技術をさらに向上させることに成功しました。この時、儀右衛門はわずかに15歳です。
発明家として自信を深めた儀右衛門は、愛読していた「機巧図彙(からくりずい)」という様々なからくりの仕掛けを図解した本の影響も受けて、寝る間も惜しんで創作に明け暮れる毎日を送っていました。
そんな儀右衛門に対して、父の弥右衛門はべっこう細工の家業を継いでくれるように願っていましたが、創作意欲に燃えていた儀右衛門は、やがて「日本一のからくり師」を目指して自分で生計を立てる決意をしました。
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やがて成人した久重は「からくり興行師」として、大坂や京都あるいは江戸などを行脚(あんぎゃ)しては次々と新作のからくり人形を人々に紹介し、その名が全国に知られるようになったのです。
久重が作ったからくり人形は多数存在しますが、なかでも有名なものとしては、人形が持つ台の上に盃(さかずき)を置くと動き出し、盃を取ると止まるという「童子盃台(どうじはいだい)」や、人形が矢立てから矢を取り、弓につがえて的を射るという高度な動作を繰り返す「弓曳童子(ゆみひきどうじ)」などがあります。
このうち、弓曳童子は4本の矢のうち1本だけをわざと射損じるという高度な演出を加えており、こうした久重の洗練されたセンスが、興行師として彼を大成功に導いたのでしょう。
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天保8(1837)年には大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱が起きて、一家が焼け出されてしまうという不幸を経験しましたが、それにめげることなく、久重は同じ年に「無尽灯(むじんとう)」を発明しました。
無尽灯は、菜種油(なたねあぶら)に空気の圧力を加え、管(くだ)をつたって灯心(とうしん)に昇らせるように工夫したものであり、長時間にわたって安定した灯火(ともしび)を供給することが可能になり、商売や生活水準の向上に大きな貢献をしました。
その他にも、久重は仕掛け花火の工夫をしたり、約10メートルの高さまで水を噴き上げたとされる消火用ポンプの「雲竜水(うんりゅうすい)」などを発明したりするなど、「からくり儀右衛門」の名に恥じない活躍を続けました。
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新たな知識を自分のものとした久重は、日の出と日の入りの間をそれぞれ6等分するという、季節によって時間の長さが上下する我が国独特の不定時法(ふていじほう)に合わせた和時計(わどけい)である「須弥山儀(しゅみせんぎ)」を嘉永3(1850)年に製作しました。
さらに翌嘉永4(1851)年には、からくり時計の最高傑作となる「万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」を完成させました。
通称を「万年時計」として知られるこの時計は21世紀の平成16(2004)年に復元され、翌平成17(2005)年の「愛・地球博」にレプリカが展示される予定でしたが、あまりに精巧な技術を使用していたため解析に時間がかかり、博覧会の開催までに完全な復元が間に合わなかったそうです。
万年時計によって久重がさらに名を挙げたこの頃、嘉永6(1853)年にアメリカのペリーが黒船で来航して世は幕末となり、西洋に負けない技術力が必要となっていました。そんな時代に合わせるかのように、久重の人生にも新たな進展が見られるようになっていくのです。
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