勝静(かつきよ)がこれらのような出世街道を歩んだ理由としては、元々の血筋が松平定信の孫であったからという可能性もありますが、やはり方谷による藩政改革の成功によって藩財政が豊かになったことや、それに伴って勝静(かつきよ)自身の評判も高まったことが考えられます。
しかし時は幕末の動乱期であり、やがて大政奉還(たいせいほうかん)が行われて戊辰(ぼしん)戦争が始まると、老中首座である勝静(かつきよ)を藩主とする備中松山藩はいわゆる「朝敵(ちょうてき)」となり、朝廷から備中松山藩の征討を任じられた備前岡山藩など近隣の藩の大軍が押し寄せてくるという騒ぎになりました。
このとき、藩主勝静(かつきよ)は旧幕府軍側の立場で参戦して不在であり、重臣たちは抗戦か降伏かをめぐって激しい議論が続きましたが、最後には方谷が独断で降伏を決めました。
「戦争になって一番困るのが藩民である以上、彼らの生命を救うのが我が天命である」。場合によっては自身の切腹も辞さないという決死の覚悟でした。
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「親殺しや主君殺しを意味する『大逆無道』を加えるとは何事か。我が藩は一度たりとも朝廷に刃(やいば)を向けたことがない以上、この四文字は自らの命に代えても受けいれられない」。
方谷による命がけの抗議に対して官軍も折れ、最終的に「軽挙暴動(けいきょぼうどう)」に変更することで備中松山藩は無血開城しました。また方谷は、旧幕府軍に随行していた藩主の勝静(かつきよ)を強引に東京へ連れ戻して新政府へ自首させたことで、5万石を2万石に削られこそしたものの、明治2(1869)年には藩の再興が認められました。
藩主が老中首座という重職にありながら備中松山藩の処分が他藩に比べて軽かった背景には、方谷が組織した里正隊が本格的な軍隊であったことによる抑止力や、方谷が地元の農民から「生き神様」と慕(した)われていたこと、そして何よりも方谷の財政家としての類稀(たぐいまれ)な手腕を惜しんだからではないかと考えられています。
なお、方谷は慶応(けいおう)3(1867)年に行われた大政奉還において上奏文(じょうそうぶん、なお「上奏」とは天皇に意見や事情などを申し上げること)の草案を作成したという説もあります。
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しかし、江戸幕府の老中首座だった藩主の板倉勝静(かつきよ)に長年仕え、同時に彼を支え続けてきた方谷は、年齢のこともあって新政府への出仕を断りました。
その後の方谷は備中へ戻って私塾を開いたほか、我が国最古の庶民(しょみん)のための学校であった閑谷(しずたに)学校を再興するなど弟子の育成に力を尽くしましたが、明治10(1877)年に73歳でこの世を去りました。
方谷が亡くなってから約50年経った昭和3(1928)年、方谷ゆかりの地に国鉄(現在のJR)伯備線が開通した際に、地元民の熱意によって先述のとおり「方谷駅」がつくられたほか、21世紀の平成18(2006)年には、それ以前の昭和52(1977)年に岡山県出身の天文学者が新たに発見した小惑星に対して「山田方谷」と名づけることが認められました。
藩のためだけでなく、名もない多くの領民のために心血を注いだ山田方谷の生き様は、時代を超えた今もなお多くの人々に慕われ続けているのです。
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また、いかに財政が豊かになろうとも、藩を守るためには軍制の改革が欠かせません。方谷が壮健な者を選(え)りすぐって里正隊という独自の軍隊をつくり上げたことは、戊辰戦争の際の大きな「抑止力」として備中松山藩を救う結果となりました。
これらの例を見ても分かるように、経済政策の成功のカギは単なる金融政策や財政政策だけでなく、将来を見据(みす)えた「教育」や「防衛」こそが握っているといえるでしょう。
10万両の借財を短期間ですべて返済したばかりか、逆に10万両の蓄財を達成し、実質2万石に満たなかった藩を20万石の実力があると周囲に認めさせるほどの改革を成し遂げた山田方谷。
我が国が本当の意味で「強い国家と豊かな生活を取り戻す」ためにも、私たちは今こそ山田方谷の精神に学ぶべきではないでしょうか。
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