藩の将来を憂慮した若き藩主の勝静(かつきよ)は、学問を究めた方谷にすべてを託し、農民出身でありながら「元締役」と「吟味役」の兼任という藩財政の最高責任者に抜擢(ばってき)したのです。
勝静(かつきよ)の熱意もあって、大抜擢に対する上級藩士の反発をよそに元締役と吟味役の兼任を引き受けた方谷でしたが、そんな彼の前に大きく立ちはだかったのが、天井知らずに積み上がった藩の負債でした。
長年の粉飾決算(ふんしょくけっさん、会社が不正な意図をもって経営成績および財政状態を実際より過大または過小に表示するように人為的操作を加えた決算のこと)もあって、当時の備中松山藩の累積(るいせき)赤字はおよそ10万両(現代の金額で約600億円)に達する巨額であり、また藩の石高(こくだか)は名目の5万石に対して実質は約19,000石の収穫しかなかったのです。これでは従来の農政を中心とした財政改革など出来ようはずがありません。
そこで、方谷は自らが説いた経済論たる「理財論」や政治論たる「擬対策(ぎたいさく)」に基づき、従来の米本位経済にこだわらない大胆な手法で藩政改革を成し遂げようと決意しました。
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同時に方谷は、商人たちに対して今後は一切借財をしない代わりに、返済期間を延ばした計画書を一人ひとりに手渡し、認められました。後の改革の成果を考えれば、計画書がよほどしっかりした内容だったことで商人たちの信頼を勝ち取ったからではないかと思われます。
また、方谷は大坂の蔵屋敷(くらやしき)を廃止して、代わりに米を藩内に保管して、相場を見て売却するようにしました。これによって蔵屋敷の経費の節減と同時に、有利な時期に米を売ることで多額の利益を得て、そこから借財の返済に充(あ)てたのです。
蔵屋敷の廃止によって、藩内に年貢米を貯蔵する必要がありましたが、方谷は藩内各所に米を蓄(たくわ)える蔵(くら)を設けました。これらの蔵は飢饉(ききん)の際に米を配給するための倉庫の役割を果たしたため、幕末の飢饉において備中松山藩では一人の餓死者(がししゃ)も出さなかったそうです。
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次に方谷は、農作業の負担を軽減するために良質な砂鉄を使った三本歯の「備中鍬(びっちゅうぐわ)」を新たに開発し、当時の我が国の人口の8割を占(し)めた農民に幅広い人気を集めたほか、建築に欠かせない鉄釘(てつくぎ)もよく売れました。方谷はこれらの人気商品を新たに購入した大きな船で直接江戸まで運ぶことで、経費を節減するとともに大量輸送を可能とし、さらなる売り上げ増につなげました。
また方谷は、農民の暮らしを向上させるために柿や煙草(たばこ)などを栽培(さいばい)したほか、柚餅子(ゆべし)などのブランド品を新たに生み出し、これらも藩の特産として全国で売り上げを伸ばしていきました。
なお、方谷はこれらの産業振興に関する業務を撫育方(ぶいくがた、撫育とは人をいつくしみ育てること)と名付けた組織にまとめ上げ、流通を一本化したことで効率化も図っています。
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しかし、財政難に苦しんでした備中松山藩では兌換のための準備金にまで手を付けていたどころか、新たに大量の藩札を発行したことですっかり信用を無くし、偽札まで出回る始末でした。
事態を憂慮した方谷は、3年間という期限を切って信用の無くなった旧藩札を回収し、すべて新しい藩札に切り替える決意をしました。
当時は産業復興が進んで藩の資金が充実しつつあったとはいえ、兌換のための準備金を調達するのは大変な苦労を伴いましたが、人間でいえば血液の循環(じゅんかん)にあたる紙幣の流通を円滑に進めることは、藩の再建に不可欠だったのです。
やがて期限の3年を迎えると、方谷は引き換えた大量の旧藩札を領内の河原に積み重ね、領民が見守る前で焼き捨てました。現代の観点からすればパフォーマンスとも思われかねない突飛な行動でしたが、方谷の姿勢に並々ならぬ覚悟を見た領民たちは新たに発行された藩札を信用して、やがて他国にまで流通するようになりました。
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次に、盗賊の取り締まりを厳しくしたり、賭博(とばく)を禁止したりすることで領内の治安を向上させたほか、領民が誰も投書することができる目安箱(めやすばこ)の設置を行いました。また、先述したように蔵屋敷の代わりに領内に40か所余りの貯倉を設けたことで、凶作の際の飢餓(きが)対策に大いに役立ちました。
その他、産業振興を名目に道路や河川の改修といった公共投資も積極的に行いました。交通の便が良くなったことが藩内における人々の行き来や物資輸送の円滑さを生み出し、さらなる経済効果をもたらしたのです。
「不況の際は積極的に公共投資を行うべし」。20世紀の経済学者であるケインズよりも80年以上も前に実践した方谷の優秀さには、ただただ驚くばかりです。
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そこで方谷は、藩校の有終館を拡張したり、領内に「学問所(がくもんじょ)」や「教諭所(きょうゆじょ)」を設けたりしたほか、郷学(ごうがく、藩士の教育や庶民の教育のために各地に設けられた学校のこと)や私塾あるいは寺子屋を次々と設置したことで、教育の施設の充実ぶりは他藩をはるかにしのぐようになりました。
方谷は藩士以外の領民の教育に力を注いだだけでなく、特に成績優秀な者は農民や商人出身でも藩士へ取り立てたことで、子弟はすべて向学心に燃え、藩の教育水準が向上するとともに、方谷の財政改革への理解度も高まりました。
こうした思い切った教育改革も、方谷自身が農商の出身でありながら、元締役と吟味役を兼任するまでに出世したという経験が下地(したじ)にあったからに間違いありません。
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方谷は、自ら学んだ砲術をもとに大砲を鋳造して洋式兵術を導入したほか、嘉永5(1852)年には領内の庄屋の家の壮健な若者を選んで銃と剣を学ばせ、帯刀(たいとう)を許して「里正隊(りせいたい)」という農兵制を組織しました。
方谷は里正隊の教育や指導に力を注いだほか、領内の漁師や一般農民の中からも壮健な者を集めて西洋式の砲術や銃の訓練を行い、国境の防備の一部を担当させました。陽明学という実践に重きを置く学問を究めた方谷ならではの柔軟な発想が生み出した軍制改革といえるでしょう。
こうした方谷による藩を挙げた財政改革が実を結び、備中松山藩は改革の開始からわずか7年後の安政(あんせい)4(1857)年頃には10万両あった借財をすべて返済して、逆に10万両の蓄財を成し遂げたのみならず、実質2万石にも満たなかった藩の収入は20万石にも匹敵(ひってき)するといわれるようになり、領内の治安の良さや領民の安定した生活と教育の振興ぶりは他藩からの旅行者がうらやむほどとなりました。
方谷による藩政の改革は、歴史的にも稀(まれ)に見る素晴らしい成果を上げたのです。
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備中松山藩の改革成功の噂を耳にした越後長岡(えちごながおか)藩士の河井継之助(かわいつぎのすけ)は、本当かどうかを自分の目で確かめたくなって、安政6(1859)年に方谷を訪ねました。当初は農商出身の方谷を「山田」と呼び捨てにしていた継之助でしたが、方谷による言行一致の見事な振る舞いや、彼が進めた藩政改革の成果を見て「山田先生」とすぐに態度を改め、深く心酔するようになりました。
方谷から多くを学んだ継之助は、帰藩後に越後長岡藩の藩政改革を断行して多くの成果を収めましたが、後に北越戦争において官軍と戦った際に負傷し、明治元(1868)年に42歳で亡くなりました。
臨終の際、継之助は「もし備中松山に行くことがあれば、河井は生涯先生の教えを守ったと方谷先生に伝えてもらいたい」と言い残したそうです。
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里正隊を中心とする見事な訓練ぶりに感嘆した久坂は、単なる財政改革の成功だけではなく、教育面や軍事面など身分制度にとらわれない様々な改革によって優秀な人材を輩出しているところに、軍政の神髄が存在することを理解しました。
後に久坂は元治(げんじ)元(1864)年の禁門の変において負傷して自刃(じじん)しますが、生前の久坂から方谷の話を聞いていたとされる高杉晋作(たかすぎしんさく)によって「奇兵隊(きへいたい)」が組織され、幕末における長州藩を軍事面から支えましたが、方谷による里正隊は奇兵隊よりもおよそ10年近くも早く結成されていたことになります。
これらのように、方谷による藩政改革の成果は全国的な評判を呼び、他藩の改革にも多大な影響を与えましたが、それは同時に備中松山藩自体にも数奇な運命をもたらすことになりました。
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