いわゆる「鎖国」の状態をズルズルと引き延ばしてきた江戸幕府の失政がペリーによる黒船来航という名の恫喝(どうかつ、人をおどして恐れさせること)外交をもたらし、その結果として我が国が無理やり開国させられたのみならず、一方的な不平等条約を結ばされるなど幕末期の大混乱を引き起こしたことは周知のとおりです。
しかし、そんな中でも懸命に働き続けた多くの人々によって我が国は支えられ、明治維新を経て我が国が世界の一等国にまで成長するという歴史の流れを導くことができました。
「ピンチはチャンス」ともいいますが、未曽有(みぞう)の混乱期であったからこそ我が国の歴史に名を刻んだ英雄がこの時期に数多く存在するのも事実であり、またその一方で地方の藩あるいは民間の立場から同じように偉大な功績を遺(のこ)した人物も存在します。
今回は、破綻(はたん)寸前だった藩(はん)の財政を立て直したのみならず、教育者として多くの優秀な人材を育成した山田方谷(やまだほうこく)と、稀代(きだい)の発明家「からくり儀右衛門(ぎえもん)」としてその名を知られ、我が国が世界に誇る大手電機メーカーの礎(いしずえ)となった田中久重(たなかひさしげ)という二人の人物の生涯を詳しく紹介したいと思います。
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令和元(2019)年10月に実施された消費税の税率アップや、新型コロナウィルス感染症の蔓延(まんえん)など様々な問題によって我が国の景気の悪化が懸念される昨今ですが、こんな時こそ、先人の智慧(ちえ)に学んで危機を乗り越え、財政再建を実現しなければいけません。
今から約160年前の幕末の頃に、10万両(現在の価値で約600億円)の借財を抱えていた藩の財政を見事に立て直し、逆に10万両の蓄財を成し遂(と)げたという驚くべき実績を持つ人物がいました。実は彼こそが山田方谷その人なのです。
備中松山(びっちゅうまつやま)藩の財政再建を任された方谷は、20世紀の経済学者として名高いケインズに先駆けて積極的な財政改革を行い、充分過ぎる結果を残したのみならず、彼が編成した西洋風の兵学は、幕末の雄である長州(ちょうしゅう)藩も参考にしたほどでした。
現代のアベノミクスなどにもつながるとされる、山田方谷の財政改革とその神髄(しんずい)とはどのようなものだったのでしょうか。
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そんな方谷を助けたのが学問でした。5歳の頃から朱子学や詩文を学んだ方谷は、わずか9歳の折に「将来は何になりたいか」と問われた際に、治国平天下(ちこくへいてんか)、すなわち「天下を治めるにはまず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである」と答えたと伝えられています。
文政(ぶんせい)12(1825)年、21歳になった方谷は当時の備中松山藩主であった板倉勝職(いたくらかつつね)から俸禄(ほうろく)を与えられて、京都や江戸へ出て学問に勤(いそ)しむ日々を過ごした後、やがては武士として取り立てられるようになり、父の悲願であった山田家再興を成し遂げました。
30歳になった天保(てんぽう)5(1834)年、方谷は江戸で随一の儒学者といわれた佐藤一斎(さとういっさい)の門下生となり、同門の佐久間象山(さくましょうざん)と競いながら陽明学を学びました。その後天保7(1836)年に故郷へ戻った方谷は、藩校の有終館(ゆうしゅうかん)の学頭(がくとう、校長のこと)に任じられ、自らも「牛麓舎(ぎゅうろくしゃ)」という私塾を開いて、藩士のみならず農民や女性にも学問を教えました。
そして嘉永(かえい)2(1849)年、45歳になった方谷は新藩主の板倉勝静(いたくらかつきよ)から藩の元締役(もとじめやく)と吟味役(ぎんみやく)に任じられ、藩政改革を断行することになるのです。
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藩の将来を憂慮した若き藩主の勝静(かつきよ)は、学問を究めた方谷にすべてを託し、農民出身でありながら「元締役」と「吟味役」の兼任という藩財政の最高責任者に抜擢(ばってき)したのです。
勝静(かつきよ)の熱意もあって、大抜擢に対する上級藩士の反発をよそに元締役と吟味役の兼任を引き受けた方谷でしたが、そんな彼の前に大きく立ちはだかったのが、天井知らずに積み上がった藩の負債でした。
長年の粉飾決算(ふんしょくけっさん、会社が不正な意図をもって経営成績および財政状態を実際より過大または過小に表示するように人為的操作を加えた決算のこと)もあって、当時の備中松山藩の累積(るいせき)赤字はおよそ10万両(現代の金額で約600億円)に達する巨額であり、また藩の石高(こくだか)は名目の5万石に対して実質は約19,000石の収穫しかなかったのです。これでは従来の農政を中心とした財政改革など出来ようはずがありません。
そこで、方谷は自らが説いた経済論たる「理財論」や政治論たる「擬対策(ぎたいさく)」に基づき、従来の米本位経済にこだわらない大胆な手法で藩政改革を成し遂げようと決意しました。
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同時に方谷は、商人たちに対して今後は一切借財をしない代わりに、返済期間を延ばした計画書を一人ひとりに手渡し、認められました。後の改革の成果を考えれば、計画書がよほどしっかりした内容だったことで商人たちの信頼を勝ち取ったからではないかと思われます。
また、方谷は大坂の蔵屋敷(くらやしき)を廃止して、代わりに米を藩内に保管して、相場を見て売却するようにしました。これによって蔵屋敷の経費の節減と同時に、有利な時期に米を売ることで多額の利益を得て、そこから借財の返済に充(あ)てたのです。
蔵屋敷の廃止によって、藩内に年貢米を貯蔵する必要がありましたが、方谷は藩内各所に米を蓄(たくわ)える蔵(くら)を設けました。これらの蔵は飢饉(ききん)の際に米を配給するための倉庫の役割を果たしたため、幕末の飢饉において備中松山藩では一人の餓死者(がししゃ)も出さなかったそうです。
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次に方谷は、農作業の負担を軽減するために良質な砂鉄を使った三本歯の「備中鍬(びっちゅうぐわ)」を新たに開発し、当時の我が国の人口の8割を占(し)めた農民に幅広い人気を集めたほか、建築に欠かせない鉄釘(てつくぎ)もよく売れました。方谷はこれらの人気商品を新たに購入した大きな船で直接江戸まで運ぶことで、経費を節減するとともに大量輸送を可能とし、さらなる売り上げ増につなげました。
また方谷は、農民の暮らしを向上させるために柿や煙草(たばこ)などを栽培(さいばい)したほか、柚餅子(ゆべし)などのブランド品を新たに生み出し、これらも藩の特産として全国で売り上げを伸ばしていきました。
なお、方谷はこれらの産業振興に関する業務を撫育方(ぶいくがた、撫育とは人をいつくしみ育てること)と名付けた組織にまとめ上げ、流通を一本化したことで効率化も図っています。
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しかし、財政難に苦しんでした備中松山藩では兌換のための準備金にまで手を付けていたどころか、新たに大量の藩札を発行したことですっかり信用を無くし、偽札まで出回る始末でした。
事態を憂慮した方谷は、3年間という期限を切って信用の無くなった旧藩札を回収し、すべて新しい藩札に切り替える決意をしました。
当時は産業復興が進んで藩の資金が充実しつつあったとはいえ、兌換のための準備金を調達するのは大変な苦労を伴いましたが、人間でいえば血液の循環(じゅんかん)にあたる紙幣の流通を円滑に進めることは、藩の再建に不可欠だったのです。
やがて期限の3年を迎えると、方谷は引き換えた大量の旧藩札を領内の河原に積み重ね、領民が見守る前で焼き捨てました。現代の観点からすればパフォーマンスとも思われかねない突飛な行動でしたが、方谷の姿勢に並々ならぬ覚悟を見た領民たちは新たに発行された藩札を信用して、やがて他国にまで流通するようになりました。
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次に、盗賊の取り締まりを厳しくしたり、賭博(とばく)を禁止したりすることで領内の治安を向上させたほか、領民が誰も投書することができる目安箱(めやすばこ)の設置を行いました。また、先述したように蔵屋敷の代わりに領内に40か所余りの貯倉を設けたことで、凶作の際の飢餓(きが)対策に大いに役立ちました。
その他、産業振興を名目に道路や河川の改修といった公共投資も積極的に行いました。交通の便が良くなったことが藩内における人々の行き来や物資輸送の円滑さを生み出し、さらなる経済効果をもたらしたのです。
「不況の際は積極的に公共投資を行うべし」。20世紀の経済学者であるケインズよりも80年以上も前に実践した方谷の優秀さには、ただただ驚くばかりです。
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そこで方谷は、藩校の有終館を拡張したり、領内に「学問所(がくもんじょ)」や「教諭所(きょうゆじょ)」を設けたりしたほか、郷学(ごうがく、藩士の教育や庶民の教育のために各地に設けられた学校のこと)や私塾あるいは寺子屋を次々と設置したことで、教育の施設の充実ぶりは他藩をはるかにしのぐようになりました。
方谷は藩士以外の領民の教育に力を注いだだけでなく、特に成績優秀な者は農民や商人出身でも藩士へ取り立てたことで、子弟はすべて向学心に燃え、藩の教育水準が向上するとともに、方谷の財政改革への理解度も高まりました。
こうした思い切った教育改革も、方谷自身が農商の出身でありながら、元締役と吟味役を兼任するまでに出世したという経験が下地(したじ)にあったからに間違いありません。
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方谷は、自ら学んだ砲術をもとに大砲を鋳造して洋式兵術を導入したほか、嘉永5(1852)年には領内の庄屋の家の壮健な若者を選んで銃と剣を学ばせ、帯刀(たいとう)を許して「里正隊(りせいたい)」という農兵制を組織しました。
方谷は里正隊の教育や指導に力を注いだほか、領内の漁師や一般農民の中からも壮健な者を集めて西洋式の砲術や銃の訓練を行い、国境の防備の一部を担当させました。陽明学という実践に重きを置く学問を究めた方谷ならではの柔軟な発想が生み出した軍制改革といえるでしょう。
こうした方谷による藩を挙げた財政改革が実を結び、備中松山藩は改革の開始からわずか7年後の安政(あんせい)4(1857)年頃には10万両あった借財をすべて返済して、逆に10万両の蓄財を成し遂げたのみならず、実質2万石にも満たなかった藩の収入は20万石にも匹敵(ひってき)するといわれるようになり、領内の治安の良さや領民の安定した生活と教育の振興ぶりは他藩からの旅行者がうらやむほどとなりました。
方谷による藩政の改革は、歴史的にも稀(まれ)に見る素晴らしい成果を上げたのです。
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備中松山藩の改革成功の噂を耳にした越後長岡(えちごながおか)藩士の河井継之助(かわいつぎのすけ)は、本当かどうかを自分の目で確かめたくなって、安政6(1859)年に方谷を訪ねました。当初は農商出身の方谷を「山田」と呼び捨てにしていた継之助でしたが、方谷による言行一致の見事な振る舞いや、彼が進めた藩政改革の成果を見て「山田先生」とすぐに態度を改め、深く心酔するようになりました。
方谷から多くを学んだ継之助は、帰藩後に越後長岡藩の藩政改革を断行して多くの成果を収めましたが、後に北越戦争において官軍と戦った際に負傷し、明治元(1868)年に42歳で亡くなりました。
臨終の際、継之助は「もし備中松山に行くことがあれば、河井は生涯先生の教えを守ったと方谷先生に伝えてもらいたい」と言い残したそうです。
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里正隊を中心とする見事な訓練ぶりに感嘆した久坂は、単なる財政改革の成功だけではなく、教育面や軍事面など身分制度にとらわれない様々な改革によって優秀な人材を輩出しているところに、軍政の神髄が存在することを理解しました。
後に久坂は元治(げんじ)元(1864)年の禁門の変において負傷して自刃(じじん)しますが、生前の久坂から方谷の話を聞いていたとされる高杉晋作(たかすぎしんさく)によって「奇兵隊(きへいたい)」が組織され、幕末における長州藩を軍事面から支えましたが、方谷による里正隊は奇兵隊よりもおよそ10年近くも早く結成されていたことになります。
これらのように、方谷による藩政改革の成果は全国的な評判を呼び、他藩の改革にも多大な影響を与えましたが、それは同時に備中松山藩自体にも数奇な運命をもたらすことになりました。
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勝静(かつきよ)がこれらのような出世街道を歩んだ理由としては、元々の血筋が松平定信の孫であったからという可能性もありますが、やはり方谷による藩政改革の成功によって藩財政が豊かになったことや、それに伴って勝静(かつきよ)自身の評判も高まったことが考えられます。
しかし時は幕末の動乱期であり、やがて大政奉還(たいせいほうかん)が行われて戊辰(ぼしん)戦争が始まると、老中首座である勝静(かつきよ)を藩主とする備中松山藩はいわゆる「朝敵(ちょうてき)」となり、朝廷から備中松山藩の征討を任じられた備前岡山藩など近隣の藩の大軍が押し寄せてくるという騒ぎになりました。
このとき、藩主勝静(かつきよ)は旧幕府軍側の立場で参戦して不在であり、重臣たちは抗戦か降伏かをめぐって激しい議論が続きましたが、最後には方谷が独断で降伏を決めました。
「戦争になって一番困るのが藩民である以上、彼らの生命を救うのが我が天命である」。場合によっては自身の切腹も辞さないという決死の覚悟でした。
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「親殺しや主君殺しを意味する『大逆無道』を加えるとは何事か。我が藩は一度たりとも朝廷に刃(やいば)を向けたことがない以上、この四文字は自らの命に代えても受けいれられない」。
方谷による命がけの抗議に対して官軍も折れ、最終的に「軽挙暴動(けいきょぼうどう)」に変更することで備中松山藩は無血開城しました。また方谷は、旧幕府軍に随行していた藩主の勝静(かつきよ)を強引に東京へ連れ戻して新政府へ自首させたことで、5万石を2万石に削られこそしたものの、明治2(1869)年には藩の再興が認められました。
藩主が老中首座という重職にありながら備中松山藩の処分が他藩に比べて軽かった背景には、方谷が組織した里正隊が本格的な軍隊であったことによる抑止力や、方谷が地元の農民から「生き神様」と慕(した)われていたこと、そして何よりも方谷の財政家としての類稀(たぐいまれ)な手腕を惜しんだからではないかと考えられています。
なお、方谷は慶応(けいおう)3(1867)年に行われた大政奉還において上奏文(じょうそうぶん、なお「上奏」とは天皇に意見や事情などを申し上げること)の草案を作成したという説もあります。
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しかし、江戸幕府の老中首座だった藩主の板倉勝静(かつきよ)に長年仕え、同時に彼を支え続けてきた方谷は、年齢のこともあって新政府への出仕を断りました。
その後の方谷は備中へ戻って私塾を開いたほか、我が国最古の庶民(しょみん)のための学校であった閑谷(しずたに)学校を再興するなど弟子の育成に力を尽くしましたが、明治10(1877)年に73歳でこの世を去りました。
方谷が亡くなってから約50年経った昭和3(1928)年、方谷ゆかりの地に国鉄(現在のJR)伯備線が開通した際に、地元民の熱意によって先述のとおり「方谷駅」がつくられたほか、21世紀の平成18(2006)年には、それ以前の昭和52(1977)年に岡山県出身の天文学者が新たに発見した小惑星に対して「山田方谷」と名づけることが認められました。
藩のためだけでなく、名もない多くの領民のために心血を注いだ山田方谷の生き様は、時代を超えた今もなお多くの人々に慕われ続けているのです。
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また、いかに財政が豊かになろうとも、藩を守るためには軍制の改革が欠かせません。方谷が壮健な者を選(え)りすぐって里正隊という独自の軍隊をつくり上げたことは、戊辰戦争の際の大きな「抑止力」として備中松山藩を救う結果となりました。
これらの例を見ても分かるように、経済政策の成功のカギは単なる金融政策や財政政策だけでなく、将来を見据(みす)えた「教育」や「防衛」こそが握っているといえるでしょう。
10万両の借財を短期間ですべて返済したばかりか、逆に10万両の蓄財を達成し、実質2万石に満たなかった藩を20万石の実力があると周囲に認めさせるほどの改革を成し遂げた山田方谷。
我が国が本当の意味で「強い国家と豊かな生活を取り戻す」ためにも、私たちは今こそ山田方谷の精神に学ぶべきではないでしょうか。
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敗戦からの復興を実現させた原動力は電機や自動車などの技術面が主流であり、我が国はかねてより「技術立国」とも呼ばれていますが、こうした科学技術の発展は名もない人々による「ものづくり」の精神によって支えられているということを皆さんはご存知でしょうか。
我が国における「ものづくり」の精神の歴史は今に始まったわけではありません。島国という資源などが限られた環境で、日本人は昔から創意工夫を重ねて生活を少しずつ向上させていきました。
政治や戦いなどで名前が知られている歴史上の人物に比べると、「ものづくり」を極めた技術者や発明家などに関する知名度は今一つのようですが、そんな彼らの生涯をたどっていくことで、私たちは新たな面から歴史の流れをつかむことが可能になるのです。
ここからは、江戸後期から明治初期にかけて活躍した発明家である田中久重の人生を振り返りながら、彼がもたらした我が国の発展に欠かせない大きな歴史の流れを見極めたいと思います。
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べっこう細工師は、タイマイ(ウミガメの一種)の甲羅(こうら)を利用した工芸品や装飾品を作成するのを生業(なりわい)としており、非常に精緻(せいち、極めて詳しく細かいこと)な金属細工を必要としていました。
儀右衛門は、幼い頃から父や職人による高度な技巧を見て育つとともに、血のつながりもあったためか生まれつき手先が大変器用でした。9歳の頃、儀右衛門は通っていた寺子屋にお手製の硯箱(すずりばこ)を持参し、開けてみるよう仲間に声をかけましたが、誰も開けることが出来ませんでした。
実は硯箱には巧妙な細工がしてあり、仕掛けを知っている儀右衛門だけが開けることが出来たのです。普段から自分の硯箱を仲間に勝手に開けられていたことで思いついたからくりだったのですが、こうした工夫が簡単にできるあたりが、儀右衛門の豊かな将来性を感じさせるエピソードでもありますね。
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その女性とは、同じ久留米に住んでした井上伝(いのうえでん)であり、彼女は久留米絣(くるめがすり)の創始者でしたが、絣に絵を入れることがどうしても出来ず、儀右衛門に依頼したのでした。
儀右衛門は伝の期待に応えて、絣に絵模様(えもよう)を織り込むための織機(しょっき)を完成させ、久留米絣の技術をさらに向上させることに成功しました。この時、儀右衛門はわずかに15歳です。
発明家として自信を深めた儀右衛門は、愛読していた「機巧図彙(からくりずい)」という様々なからくりの仕掛けを図解した本の影響も受けて、寝る間も惜しんで創作に明け暮れる毎日を送っていました。
そんな儀右衛門に対して、父の弥右衛門はべっこう細工の家業を継いでくれるように願っていましたが、創作意欲に燃えていた儀右衛門は、やがて「日本一のからくり師」を目指して自分で生計を立てる決意をしました。
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やがて成人した久重は「からくり興行師」として、大坂や京都あるいは江戸などを行脚(あんぎゃ)しては次々と新作のからくり人形を人々に紹介し、その名が全国に知られるようになったのです。
久重が作ったからくり人形は多数存在しますが、なかでも有名なものとしては、人形が持つ台の上に盃(さかずき)を置くと動き出し、盃を取ると止まるという「童子盃台(どうじはいだい)」や、人形が矢立てから矢を取り、弓につがえて的を射るという高度な動作を繰り返す「弓曳童子(ゆみひきどうじ)」などがあります。
このうち、弓曳童子は4本の矢のうち1本だけをわざと射損じるという高度な演出を加えており、こうした久重の洗練されたセンスが、興行師として彼を大成功に導いたのでしょう。
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天保8(1837)年には大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱が起きて、一家が焼け出されてしまうという不幸を経験しましたが、それにめげることなく、久重は同じ年に「無尽灯(むじんとう)」を発明しました。
無尽灯は、菜種油(なたねあぶら)に空気の圧力を加え、管(くだ)をつたって灯心(とうしん)に昇らせるように工夫したものであり、長時間にわたって安定した灯火(ともしび)を供給することが可能になり、商売や生活水準の向上に大きな貢献をしました。
その他にも、久重は仕掛け花火の工夫をしたり、約10メートルの高さまで水を噴き上げたとされる消火用ポンプの「雲竜水(うんりゅうすい)」などを発明したりするなど、「からくり儀右衛門」の名に恥じない活躍を続けました。
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