ところが、1914(大正3)年に第一次世界大戦が始まると、我が国を含む各国が流出を防ぐ目的で金の輸出入を禁止したため、金本位制は一時停止されました。大戦後に世界各国が相次いで金本位制に復帰しましたが、その中で我が国だけが関東大震災や金融恐慌(きょうこう)といった混乱が続いたために遅れていたのです。
昭和4(1929)年7月に成立した立憲民政党の浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣は、大蔵大臣に井上準之助(いのうえじゅんのすけ)を起用し、金の輸出入を解禁して(これを「金解禁」といいます)、列強と同じく金本位制に早期に復帰することを大きな目標としました。
金本位制では、貿易赤字が続くとその分だけ通貨(=金貨)が海外に流出して、国内の通貨量が減ると同時にモノの売り上げも落ち込むため、困った国内企業が経営合理化によってモノの値段を下げることで、結果として国内外で再び売り上げが伸びるようになるという経済上での大きな特徴がありました。
我が国が金本位制に復帰すれば世界における円の為替相場も安定するため、経営合理化によって輸出を拡大して国内産業を活性化させると同時に、企業の国際競争力を確保することで、不況が続く日本経済を立て直すことが可能になるであろうと浜口内閣は考えていたのです。
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金解禁の際に問題となったのが、円とドルとの交換比率でした。当時の為替相場が100円=44ドル前後(1ドル=2.300円前後)であった一方で、金の輸出入を禁止する前は「1ドル=2.005円」でした。もし現在の相場を基準とした新平価(平価とは「外貨と比べての価値」のこと)で金解禁を行えば円安となり、日本製品の輸出に有利となります。
しかし、浜口内閣は新平価での金解禁を主張した国内の反対の声を押し切るかたちで、旧平価である「金2分=1円=0.49875ドル(1ドル=2.005円)」での交換によって、昭和5(1930)年1月11日に金解禁を断行しました。
これでは円高となって輸出に不利となりますが、円の価値を下げて解禁に踏み切れば国としてのメンツが立たないのと、国内の企業をあえて逆境の中に放り出すことによって合理化と体質改善を行わせ、結果として国際競争力を強化させるという狙(ねら)いがあったとされています。
ところが、浜口内閣や井上蔵相によるこうした目論見(もくろみ)は完全に裏目となってしまったのです。
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だからこそ浜口内閣は金解禁を断行したのですが、当時はアメリカの大不況によって我が国の輸出額は激減していました。不況にあえぐ国が他国からモノを買う余裕などなかったのです。このため、売れなくなった生糸や繭(まゆ)の価格が大暴落し、養蚕(ようさん)農家が大きな打撃を受けました。
さらに我が国に深刻な影響をもたらしたのが「正貨(=金貨)の大量の海外流出」でした。世界恐慌の嵐が吹き荒れる中では各国の正貨の保有が死活問題となりますが、そんな折に我が国が金解禁をしたものですから、世界各国が日本からの金の輸入に殺到し、我が国の金の保有量があっという間に減少してしまったのです。
加えて、金解禁をめざしていた浜口内閣が緊縮財政を行っていたことが不況をさらに拡大させました。景気が悪化した際には、現代の「アベノミクス」のような積極的な経済政策が求められているにもかかわらず、その真逆を行ったことにより、全国各地で企業の倒産や操業短縮が相次いで多数の失業者があふれるようになり、結果として「昭和恐慌」と呼ばれた甚大な恐慌に陥(おちい)ってしまいました。
なお、政府は恐慌への対策として昭和6(1931)年に「重要産業統制法」を制定し、指定産業におけるカルテル(=寡占状態にある同一業種の企業が競争を避けて利益を確保するために価格や生産量・販路などについて結ぶ協定のこと)の結成を促進し、生産と価格の制限を設けようとしています。
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世界恐慌や金解禁などによって始まった昭和恐慌は、農村部にも深刻な影響をもたらしました。昭和5(1930)年はコメが大豊作となったことで米価が暴落して豊作飢饉(ききん)となり、その翌年である昭和6(1931)年には逆に大凶作となりました。
折からの恐慌で農家の兼業が望めなくなったうえに、都市の失業者の多くが帰農した際に大凶作となったことから、農村では甚大な危機となりました。農家の多くは翌年の種籾(たねもみ)まで食い尽くしたほか、欠食児童や婦女子による身売り(=親が給与を前借りして働きに出すこと)が続出しました。
金解禁を断行した浜口内閣への非難の声は、幣原外相の協調外交がもたらした軍縮に関する問題(詳しくは後述します)もあって日増しに高まり、浜口首相が昭和5(1930)年11月に東京駅で狙撃(そげき)されると、翌昭和6(1931)年4月に内閣が総辞職し、後継の第二次若槻礼次郎内閣も短命に終わりました。
その次の立憲政友会による犬養毅(いぬかいつよし)内閣が組閣直後の昭和6(1931)年12月に「金輸出再禁止」を行ったほか、大蔵大臣の高橋是清(たかはしこれきよ)による経済政策によって我が国の景気はようやく回復へと向かうのですが、それまでの昭和恐慌の爪痕(つめあと)は予想外に大きく、我が国の将来に重大な影響を与えることになるのです。
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