大正15(1926)年12月25日、かねてより病気療養中であられた大正天皇が47歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。深いお悲しみの中、摂政宮(せっしょうのみや)で皇太子の裕仁(ひろひと)親王が直ちに践祚(せんそ、皇位の継承のこと)されて第124代天皇(=昭和天皇)となられ、元号も「昭和」と改められました。
こうして始まった昭和時代でしたが、いきなり大きな試練を迎えることになってしまいました。大正12(1923)年に発生した関東大震災によって多額の民間手形が支払い不能となった際に、災害地を支払地とする手形を政府が信用保証して支払いを延長させました。
しかし、それらは問題の先延ばしに過ぎず、支払いの猶予(ゆうよ)が昭和2(1927)年で切れることから、政府はその整理に着手することになりました。なお、当時の内閣は病死した加藤高明(かとうたかあき)にかわって成立した、憲政会を与党とする第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣でした。
いわゆる「震災手形」を整理するため、新たに公債を発行しようと考えた第一次若槻内閣は、そのための法案を議会に提出しましたが、議会では銀行の放漫な貸し出しが今回の事態を招いたなどという非難の声が挙がり、なかなか前へ進みません。そうこうしているうちに、経営難に苦しむ中小銀行の資金繰(ぐ)りが限界に達しつつありました。
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次官は大蔵大臣の片岡直温(かたおかなおはる)に対応を相談しようとしましたが、議会で審議中のため面会できず、事情を書面に記して蔵相に言付(ことづ)けました。
一方、大蔵省からの助力が得られないと判断した東京渡辺銀行は改めて金策に走り、別の銀行の資金援助を受けて辛うじて決済を行い、その旨(むね)を大蔵省に伝えようとしましたが、担当の次官が不在ですぐには連絡できませんでした。
その頃、片岡蔵相は議会から厳しい追及を受けていましたが、そんな折に次官から書面で「東京渡辺銀行休業」の報告を受けた蔵相は、追及をかわしたい一心からつい口走ってしまいました。
「東京渡辺銀行がとうとう破綻(はたん)を致しました」。
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しかし、当日の決済を終えていた東京渡辺銀行は、現実には破綻していなかったのです。にもかかわらず、議会において「破綻した」と口走ったのは、片岡蔵相による「痛恨の失言」以外の何物でもありませんでした。
かくして、大蔵大臣に「破綻」を宣告された東京渡辺銀行に預金者が引き出しに詰めかけたことで、翌日には「本当に休業に追い込まれた」だけでなく、東京渡辺銀行の破綻を不安に思った人々が他の中小銀行にも預金引き出しに殺到するという「取り付け騒ぎ」を起こしたため、他の銀行も連鎖反応のように次々と休業を余儀(よぎ)なくされてしまいました。
これらの動きは、今日では「金融恐慌(きんゆうきょうこう)」と呼ばれています。政府は日本銀行による非常貸し出しでこの騒ぎを何とか沈めましたが、金融恐慌の流れは「別の大手銀行」の経営破綻によって、さらに拍車をかけることになってしまうのです。
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鈴木商店の倒産は、同社に巨額の金銭を貸し付けていた台湾銀行が資金繰りに苦しむようになるなど深刻な影響を与えましたが、他の中小銀行と違って台湾における紙幣発行権を持っていた特殊銀行である台湾銀行がもし休業の憂き目を見れば、治まりかけていた金融恐慌がさらに広がりを見せるようになるのは必至でした。
慌(あわ)てた政府は緊急勅令(ちょくれい)によって台湾銀行を救済しようと考え、枢密院(すうみついん)に働きかけましたが、これを第一次若槻内閣打倒の好機と見た立憲政友会が枢密院に働きかけて議案を否決させました。
議案を否決された第一次若槻内閣は総辞職し、また台湾銀行は休業に追い込まれ、その結果として金融恐慌が最高潮に達してしまったのです。
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田中内閣の大蔵大臣となった高橋是清(たかはしこれきよ)は、手形の決済や預金の払い戻しなどを一時的に猶予する支払猶予令(しはらいゆうよれい、別名を「モラトリアム」)を出すための緊急勅令を直ちに枢密院に諮問(しもん、意見を求めること)しました。
今度は枢密院も勅令を許可して3週間のモラトリアムが発せられると、高橋蔵相が日本銀行に巨額の特別融資を行わせたことで、金融恐慌はようやく収拾へ向かいました。
ちなみに、日本銀行は特別融資のために急きょ大量の200円札を発行しましたが、余りに巨額であったために準備が間に合わず、裏面が白紙のままでした。なお、休業した台湾銀行についても議会で審議され、2億円の救済法案が成立して再建されています。
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恐慌を起こした政権の責任はともかくとして、金融政策は本来であれば一刻も早く実施しなければならないものです。しかし、現実には野党の立憲政友会が「政争の具」として枢密院に「待った」をかけさせたことで、政策の実現が遅れただけでなく、台湾銀行も休業に追い込まれてしまいました。
また、枢密院は第一次若槻内閣の失政の一つとして「幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外相による協調外交の失敗」を非難していますが、外交問題を国内の政争に利用するという姿勢にも疑問符を付けざるを得ないのではないでしょうか。
いずれにせよ、政争のためには「何でもあり」という当時の政党の手法が、後述する「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」の問題を引き起こし、我が国を苦境へと追い込むことになったのは間違いないでしょう。
もっとも、政権交代で高橋是清が大蔵大臣になったからこそ金融恐慌が早く収拾できたともいえますし、また第一次若槻内閣の幣原外相から田中義一内閣に代わったことで、それまでの協調外交の姿勢が改まった(詳しくはいずれ後述します)というメリットがあったのも事実ではあります。
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度重なる恐慌で銀行の休業や倒産が相次いだことや、政府が弱小銀行や不良銀行の整理に着手したことによって、いわゆる大銀行に多くの預金が集中することになりました。三井・三菱・安田・住友・第一のいわゆる五大銀行への預金は昭和4(1929)年には全体の35%にまで達しています。
これらの大銀行は財閥との結びつきが強く、金融恐慌でも大きな打撃を受けなかった財閥は経済界において大きな地位を占めることとなり、やがて独占資本を形成するようになりました。
なお、不況時における弱小銀行の整理や大銀行への統合は他の分野における企業の集中をもたらし、日本の紡績業が第一次世界大戦後にチャイナの紡績工場を次々と建設するなど(これらは「在華紡(ざいかぼう)」と呼ばれました)、産業資本の輸出も促進されるようになりました。
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昭和2(1927)年の中国大陸では、蒋介石(しょうかいせき)の国民革命軍による北伐(ほくばつ)が急激に進み、北京・天津(てんしん)方面から山東(さんとう)半島へと迫りつつありましたが、山東半島には数多くの日本人が居留していたほか、莫大(ばくだい)な投資を行っていましたため、先述した南京(ナンキン)事件や漢口(かんこう)事件といった悲劇を繰り返さないためにも、これらの人的あるいは物的な保護が政府の大きな課題となりました。
昭和2(1927)年5月、田中内閣はイギリスやアメリカ・フランス・イタリアといった諸外国に事前に連絡し、反対がないことを確認したうえで山東半島へ向けて出兵しました。これを「第一次山東出兵」といいます。
第一次山東出兵の後で、蒋介石が北方軍閥(ぐんばつ)に敗れて北伐を中止すると、山東半島における危機が去ったとみなした日本軍は同年9月までに撤兵しました。
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一方、田中内閣は昭和2(1927)年6月に東京で日中の外交官や軍人など関係者を招集して「東方会議」を開き、チャイナにおける我が国の権益を守るために積極的に防衛対策を行うことが決められました。
翌1928(昭和3)年に蒋介石が北伐を再開すると、田中内閣は同年4月に「第二次山東出兵」を行い、多数の日本人が居留していた済南(さいなん)を警備しました。5月になって蒋介石の国民革命軍が済南に入城すると、日章旗を損傷したり、排日ビラを貼付(ちょうふ)したりするなどの反日行為を行ったため、日本軍が抗議しました。
これに対し、蒋介石は「済南の治安は革命軍が責任を持って確保するので、城内の日本軍による警備を撤去してほしい」と申し入れしてきたので、蒋介石を信用した日本軍は、夜を徹して兵を引き揚げました。
しかし、このことが信じられないような虐殺(ぎゃくさつ)事件を招いてしまうのです。
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国民革命軍による非人道的な虐殺行為に激高した我が国は、直ちに「第三次山東出兵」を行って済南城を攻撃すると、革命軍は夜陰に乗じて城外に脱出し、日本軍が済南を占領しました。これら一連の流れは「済南事件」と呼ばれています。
当時の欧米列強は日本軍による軍事行為を正当防衛と認めましたが、済南で日本軍がチャイナの便衣兵(べんいへい、いわゆるゲリラのこと)を射殺した際、その中にチャイナの外交官も含まれていたことから、チャイナが「日本軍が無抵抗の外交官を虐殺した」と喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)したほか、国際連盟に提訴するなどして我が国を激しく非難しました。
ところで、我が国の歴史教科書には済南事件についての記述はあるものの、チャイナによる虐殺行為が一切書かれていないため、なぜ日本軍が国民革命軍を攻撃したのかという理由が分からなくなっています。
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北京へ迫る蒋介石の国民革命軍と満州を守る日本軍とに挟まれた張作霖は総退却を決断し、昭和3(1928)年6月に再起を期して北京から満州へと列車で移動しましたが、同月4日に奉天(ほうてん、現在の瀋陽=しんよう)郊外で列車ごと爆破されて死亡しました。
この「張作霖爆殺事件」は当時「満州某(ぼう)重大事件」と報じられ、国民には真相が知らされていませんでしたが、やがて事件の首謀者として関東軍の河本大作(こうもとだいさく)大佐が浮かび上がりました。
田中首相は、昭和天皇の思召(おぼしめ)しもあって事件の関係者の厳重処分を決断しましたが、閣僚や陸軍の反対を受けてしまい、結局事件をうやむやにしたうえで、翌昭和4(1929)年6月27日に調査結果を昭和天皇に上奏(じょうそう、天皇に意見や事情などを申し上げること)しました。
まだ28歳とお若かった昭和天皇のお顔の色がにわかに変わり、お怒りの声を発せられました。
「この前の約束と話が違うではないか!」
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そのためには、軍隊であっても当然規則を守らねばならないはずなのに、大きな事件を起こしたばかりか、その結果をうやむやにしようとする田中首相の報告を昭和天皇はお許しになられなかったのです。そして、そのお怒りがさらなるお言葉を生み出してしまいました。
「辞表を出してはどうか」。
昭和天皇から直接辞職を迫られた田中首相は大きなショックを受けて、5日後の7月2日に内閣を総辞職すると、それから3か月も経たない同年9月29日に死亡してしまいました。
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さて、後に田中義一の死去をお知りになった昭和天皇は、お心の中で「しまった」と思われました。なぜなら、陛下が行われたことは結果的に大日本帝国憲法(=明治憲法)で定められた立憲君主制に反することだったからです。
いくら曖昧(あいまい)な報告だったからとはいえ、昭和天皇が田中首相に直接辞職を迫られたことは「天皇による政治への介入」に他なりませんでした。これは「国王は君臨すれども統治せず」とする立憲君主制の原則を明らかに破ることなのです。
まして、ご自身の発せられた言葉が内閣を総辞職させたのみならず、首相を死に追いやったかもしれないという結果が、日頃から責任感のお強かった昭和天皇に大きな影響をもたらすことになりました。
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「今後、内閣が私に上奏することは、たとえ自分の考えと反対の意見であったとしても、裁可を与えることにしよう」。
昭和天皇にとっては立憲君主というご自身のお立場をお考えになってのご決断でしたが、時代は統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)に関する問題が深刻化しており(詳しくは後述します)、陛下のご決断は、結果として軍部の様々な行動を黙認されることにつながってしまいました。
これ以降、昭和天皇は内閣とは無関係にご自身で政治的な問題に決断されることが2回ありました。それは、昭和11(1936)年2月の「二・二六事件」と、昭和20(1945)年8月のいわゆる「終戦のご聖断」です。
なお、張作霖爆殺事件は関東軍の河本大作大佐が首謀者であったと長いあいだ考えられてきましたが、最近の研究ではソ連のコミンテルンによる謀略ではないかという説も出てきています。
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1929(昭和4)年10月、ニューヨークのウォール街において株価が大暴落したことをきっかけにアメリカで恐慌が起きると、その影響がヨーロッパなどにも飛び火して「世界恐慌(または世界大恐慌)」となりましたが、大恐慌を乗り切るためには国内産業を保護するしかないと考えたアメリカは、翌1930(昭和5)年に「ホーリー・スムート法」を成立させ、アメリカに輸出される多数の品目に対して途方もなく高い関税をかけました。
突然のアメリカの仕打ちに激怒した他国が報復としてアメリカ製品に対する関税を引き上げたことで、アメリカの貿易量は半分以下となり、恐慌が長期化しました。景気を回復させようとしたアメリカの政策が、かえって不況を増長させるという最悪の結果となったのです。
ホーリー・スムート法によって、それまでの自由貿易から一気にブロック経済に入ったアメリカに対し、イギリスも1932(昭和7)年にカナダやオーストラリア・ニュージーランド・インドなどの英連邦諸国を集めてオタワ会議を開き、英連邦やイギリスとの間でアメリカと同じように排他的な「ブロック経済」の体制を構築しました。
世界恐慌によって各国がブロック経済へと移行するようになった一方で、絶体絶命の危機を迎える国も現れました。それはドイツと我が日本です。
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なぜなら、アメリカは広大な領土とそこに眠る資源を持っており、またイギリスも世界各地に植民地を持っていたことから、両国とも自給自足による国家の運営が可能だったからです。その他にもフランスやオランダ、あるいはソ連といった国々も、同じく自給自足によってブロック経済を乗り切ろうとしました。
しかし、第一次世界大戦によってすべての植民地を失ったドイツにとって、ブロック経済による貿易の抑止は死活問題でした。ブロック経済によって多くの失業者が町にあふれるという危機を迎えたドイツでしたが、そんなときに救世主が現れました。
彼こそが、ナチス(=国家社会主義ドイツ労働者党)を率いて1933(昭和8)年に政権を握ったヒトラーでした。ヒトラーは賠償金の支払いの破棄を宣言したほか、新たな体制の構築によって自給自足が可能な国家の建設をめざし、やがては他国との戦争を模索(もさく)するようになるのです。
なお、同じように経済的に苦しんでいたイタリアでは、1922(大正11)年に政権を得ていたファシスト党のムッソリーニが、領土の獲得をめざして1935(昭和10)年にエチオピアへ侵入しています。
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当時の世界全体が「自国の経済安定のためには他国を顧(かえり)みる余裕はない」という流れだったこともあり、やがて日本国内から「アメリカやイギリスを見習って、我が国だけの自給自足圏(けん)をつくる以外に生き残る術(すべ)はない」という声が挙がるのは、むしろ当然だともいえました。
こうした考えが、当時我が国が権益を持っていた満州(現在の中国東北部)を自給自足の、すなわち我が国が他国からの干渉を受けずに統治するという発想に至り、ドイツと共に第二次世界大戦への遠因の一つとなるのですが、そもそもアメリカやイギリスなどがブロック経済を行わなければ、日独両国がここまで追いつめられることがなかったのも事実でした。
いずれにせよ、英米を中心とするブロック経済体制は、共産主義という全く異なる経済体制であったために大きな影響を受けなかったソ連も含めて世界の構図を大きく変えましたが、そんな中での当時の我が国による内政や外交の動きが、世界全体にさらなる影響をもたらすようになるのです。
なお、平成27(2015)年8月14日に安倍晋三(あべしんぞう)首相(当時)が「戦後70年における談話(=安倍談話)」を閣議決定のうえ発表しましたが、その中間あたりで「植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」と述べる一方で、終盤では「経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます」と表明しました。20世紀に二つの世界大戦を生み出した「植民地支配」や「ブロック経済」など、世界史レベルの事実も取り入れるといった談話のロジックの巧(たく)みさには、ただただ敬服するばかりです。
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経済の自助作用から政府主導での経済立て直しへと政策を大きく転換した点では、むしろ社会主義的な色彩の濃いものと言えるかもしれません。なお、ニューディール政策によってアメリカは大規模な公共事業を起こし、国民の雇用と賃金を確保することで不況を乗り切ろうとしました。
もっとも、アメリカが本格的に不況を脱出する要因となったのは、我が国と大東亜戦争に突入したことによって第二次世界大戦へ参戦したことで、戦争特需が生まれたことが挙げられ、ニューディール政策にどれだけの影響があったかどうかは意見が分かれています。
なお、アメリカで12年ぶりの民主党政権となったことで、フランクリン=ルーズベルトがそれまでの共和党政権が拒否してきたソ連の国家承認を就任早々行うなど、容共政権(=共産党に理解を示す政権のこと)の性格を持っていましたが、この事実は今後の歴史を振り返る際に重要な意味を有することになります。
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ところが、1914(大正3)年に第一次世界大戦が始まると、我が国を含む各国が流出を防ぐ目的で金の輸出入を禁止したため、金本位制は一時停止されました。大戦後に世界各国が相次いで金本位制に復帰しましたが、その中で我が国だけが関東大震災や金融恐慌(きょうこう)といった混乱が続いたために遅れていたのです。
昭和4(1929)年7月に成立した立憲民政党の浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣は、大蔵大臣に井上準之助(いのうえじゅんのすけ)を起用し、金の輸出入を解禁して(これを「金解禁」といいます)、列強と同じく金本位制に早期に復帰することを大きな目標としました。
金本位制では、貿易赤字が続くとその分だけ通貨(=金貨)が海外に流出して、国内の通貨量が減ると同時にモノの売り上げも落ち込むため、困った国内企業が経営合理化によってモノの値段を下げることで、結果として国内外で再び売り上げが伸びるようになるという経済上での大きな特徴がありました。
我が国が金本位制に復帰すれば世界における円の為替相場も安定するため、経営合理化によって輸出を拡大して国内産業を活性化させると同時に、企業の国際競争力を確保することで、不況が続く日本経済を立て直すことが可能になるであろうと浜口内閣は考えていたのです。
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金解禁の際に問題となったのが、円とドルとの交換比率でした。当時の為替相場が100円=44ドル前後(1ドル=2.300円前後)であった一方で、金の輸出入を禁止する前は「1ドル=2.005円」でした。もし現在の相場を基準とした新平価(平価とは「外貨と比べての価値」のこと)で金解禁を行えば円安となり、日本製品の輸出に有利となります。
しかし、浜口内閣は新平価での金解禁を主張した国内の反対の声を押し切るかたちで、旧平価である「金2分=1円=0.49875ドル(1ドル=2.005円)」での交換によって、昭和5(1930)年1月11日に金解禁を断行しました。
これでは円高となって輸出に不利となりますが、円の価値を下げて解禁に踏み切れば国としてのメンツが立たないのと、国内の企業をあえて逆境の中に放り出すことによって合理化と体質改善を行わせ、結果として国際競争力を強化させるという狙(ねら)いがあったとされています。
ところが、浜口内閣や井上蔵相によるこうした目論見(もくろみ)は完全に裏目となってしまったのです。
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だからこそ浜口内閣は金解禁を断行したのですが、当時はアメリカの大不況によって我が国の輸出額は激減していました。不況にあえぐ国が他国からモノを買う余裕などなかったのです。このため、売れなくなった生糸や繭(まゆ)の価格が大暴落し、養蚕(ようさん)農家が大きな打撃を受けました。
さらに我が国に深刻な影響をもたらしたのが「正貨(=金貨)の大量の海外流出」でした。世界恐慌の嵐が吹き荒れる中では各国の正貨の保有が死活問題となりますが、そんな折に我が国が金解禁をしたものですから、世界各国が日本からの金の輸入に殺到し、我が国の金の保有量があっという間に減少してしまったのです。
加えて、金解禁をめざしていた浜口内閣が緊縮財政を行っていたことが不況をさらに拡大させました。景気が悪化した際には、現代の「アベノミクス」のような積極的な経済政策が求められているにもかかわらず、その真逆を行ったことにより、全国各地で企業の倒産や操業短縮が相次いで多数の失業者があふれるようになり、結果として「昭和恐慌」と呼ばれた甚大な恐慌に陥(おちい)ってしまいました。
なお、政府は恐慌への対策として昭和6(1931)年に「重要産業統制法」を制定し、指定産業におけるカルテル(=寡占状態にある同一業種の企業が競争を避けて利益を確保するために価格や生産量・販路などについて結ぶ協定のこと)の結成を促進し、生産と価格の制限を設けようとしています。
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