しかし、長年の太平の世が我が国に「平和ボケ」をもたらし、他国の発展ぶりから取り残されたことで、ペリーによる黒船来航を契機に我が国が大混乱となったのもまた事実です。だとすれば、いつ政策を「開国」に転換すればよかったのでしょうか。
実は、史実においても我が国が自主的に開国する機会が何度かありました。その中でも最大のチャンスだったのが、田沼意次(たぬまおきつぐ)が政治の実権を握っていた18世紀の後半でした。
仙台藩の医者であった工藤平助(くどうへいすけ)は、北方に位置するロシアが南下を目指しており、将来我が国にとって災いとなる恐れがあること、また南下を防ぐ対策の一つとして蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の開発を行うべきであるという「赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)」を著しました。
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また、アイヌの自立を目指した意次は農作業を教えようとまで計画しました。これは、アイヌの生活を安定化させると藩の財政を支えるサケや毛皮などをとって来なくなるからという、松前藩の身勝手な理由で農民化を禁止していたのとは全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国への大きな一歩となったはずだったのですが、翌天明6(1786)年に意次が失脚すると、彼に代わって政治の実権を握った松平定信(まつだいらさだのぶ)によって、意次の政策が中止されてしまったのです。
もし意次があと数年政治の実権を握っていればと惜しまれるところですが、私は史実よりももっと早く、安永(あんえい)9(1780)年に意次が蝦夷地の調査を開始していれば、恐らく我が国は自主的に開国をなし得ていたと考えています。
なぜなら、安永9(1780)年は昨年の令和2(2020)年と同じ「庚子(かのえね)」の年だからです。
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十干十二支において、令和2(2020)年は「庚子」でした。この年は「これまでとは異なる斬新な思考で、人との縁(えにし)を大切にする年」です。
「子」は「種子」に通じ、将来に備えて新たな種まきをする意味ですが、それに「庚」が加わると「これまでとは異なる」、すなわち「これまでの関係をリセットして新規まき直しをする」意味となります。
要するに「庚子」の年は「これまでとは全く異なる動きが発生する中で将来に備える」ことが何よりも重要であり、実際に令和2(2020)年は新型コロナウィルス感染症によって世界中が大混乱になりました。
この混乱は今年、すなわち令和3(2021)年も続いておりますが、実は十干十二支からもその傾向が明らかになっています。なぜなら、令和3(2021)年は「辛丑(かのとうし)」だからです。
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一方、「丑」は「紐」に通じ、血縁や地縁あるいは利害関係など社会を形づくる結びつきを「紐帯(ちゅうたい)」と表現しますから、「辛丑」は「人との縁を大切にして辛い時期を乗り越える」という意味になります。
コロナ禍(か)の今だからこそ、これまでとは異なる新たな絆(きずな)を構築し、信頼できる仲間とともに辛い時期を共に乗り越えていけるようになれれば、これまでの「ピンチ」を「チャンス」に変えることが可能になると考えられます。
では、過去における「庚子(これまでとは異なる斬新な思考で、人との縁を大切にする)」→「辛丑(辛い時に耐えて新たな人生観を築き、人との縁を大切に育てる)」の流れはどうだったのでしょうか。最近の十干十二支の60年ごとに振り返ってみましょう。
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一方、世界では1960年に長らく西欧諸国の植民地であったアフリカ大陸の多数の地域が独立を達成して「アフリカの年」と呼ばれました。しかし、かつて欧米列強らが植民地としてアフリカを分割した際に、元々住んでいた民族のテリトリーを無視して、まるで地図に線を引くかのように強制的に決定したことで、それまで何の関係のなかった地域や民族が勝手な思惑で統合されてしまいました。
第二次世界大戦後にアフリカの国家が次々と独立した際に、当時の植民地の線引きがそのまま国境線となってしまったために、独立後も各地で民族が相次いで対立し、紛争が絶えない大きな要因となっているのが現状です。つまり、可能だったかどうかは別にして「これまでの関係をリセット」せずにそのままの形で独立の「種子をまいた」ことが、後々まで尾を引いていることになります。
また、1960年の選挙でJ・F・ケネディ氏がアメリカ大統領に就任しましたが、まもなく世界はキューバ危機を迎えているのも注目に値します。
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しかし、このドサクサに紛(まぎ)れてロシアが満州(現在の中国東北部)を占領し、我が国の安全保障に重大な危機が生じるようになります。
さらにその前は天保(てんぽう)11(1840)年~天保12(1841)年でした。天保11(1840)年といえば、チャイナ(清国)とイギリスとの間で「アヘン戦争」が起きたことで有名です。
戦争自体は天保13(1842)年まで続きましたが、清国が敗れたことで列強の侵略がアジアにまで迫り、我が国も重大な政治的決断を迫られるようになりました。
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なお、清国がアヘン戦争に敗北した天保13(1842)年に我が国は「天保の薪水(しんすい)給与令」を出しました。これは、我が国を訪問した外国船に対して食糧や燃料を与え、速やかに退去してもらうというものでしたが、確かにこの法令によって外国との無意味な衝突は避けられたものの、そんな小手先な手段を採るよりも、我が国が自主的に開国すれば何の問題もないはずでした。
この頃までに幕府は鎖国が「祖法(そほう、先祖の代から守るべきしきたりのこと)」であると固く信じていましたが、間違った認識を言い続けることで自身をも騙(だま)して判断を誤る(今も行われているかもしれませんが)という自家撞着(じかどうちゃく、同じ人の言動や文章が前後で食い違っていること)が我が国最大の危機と幕府崩壊への序章になったのです。
言うまでもないことですが、いわゆる「鎖国」を行ったのは徳川家康ではなく、よって幕府の「祖法」ではありません。
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一方、当時の我が国では先述のとおり田沼意次による政治が行われていました。もし「庚子」→「辛丑」の時期、すなわち田沼政治が安定していた頃に我が国が開国にこぎつけていればどうなっていたでしょうか。
重商主義の政策を行ってきた意次であれば、恐らくは後の史実とは比べ物にならないほどスムーズに開国ができたのではないかと考えられます。また、この直後に「天明の大飢饉(だいききん)」が発生しますが、外国との門戸を広く開放していれば、あるいは食糧の緊急輸入も可能になっていたかもしれず、大量の餓死者(がししゃ)を出さずに済んだかもしれません。
加えて、当時はアメリカの独立が確定したばかりでしたから、その後の世界の歴史は様変わりしたことでしょう。時機を失することの影響の大きさがうかがえます。
なお、史実において意次の息子で若年寄(わかどしより)の田沼意知(たぬまおきとも)が天明4(1784)年に事件によって殺害されていますが、開国が軌道に乗って意知の周囲の環境が好転していれば、彼が長生きして意次の政策を引き継ぐことによって、我が国は全く違った歴史を歩んだ可能性が高いのです。
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