明智光秀は清和源氏(せいわげんじ)の流れをくむ土岐氏(ときし)の分家である明智氏の一族であるとされていますが、生年ははっきりせず、若い頃は諸国を流浪(るろう)して生活していたと伝えられています。
やがて越前国(えちぜんのくに、現在の福井県東北部)の大名であった朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕えて、後に第15代室町幕府将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)が朝倉氏を頼ると、光秀は義昭の側近であった細川藤孝(ほそかわふじたか)と親しくなりました。この二人が厚い友情で結ばれていたことは、後の大きなポイントになりますので記憶しておいて下さい。
義昭が上洛(じょうらく、京都へ向かうこと)を希望しても義景が越前を動かなかったため、義昭は織田信長を頼るようになりました。信長は美濃国(みののくに、現在の岐阜県南部)を統一した後に上洛し、義昭を将軍に立てることに成功しましたが、この頃までに光秀は信長の家臣になったと考えられています。
光秀には和歌や茶の湯をよくするという教養人の一面がありました。このため信長は光秀に朝廷との交渉を任せるなど次第に重用し、1571年の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の焼討ちなどでも戦功を挙げた光秀に対し、近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)の一部を彼に与え、坂本城(さかもとじょう)を築かせて京都や比叡山の抑えとしました。
信長の多くの家臣団の中で、浪人から新規に取り立てられてわずか数年しか経っていないにもかかわらず、光秀は早くも一城の主になったのです。しかも同じように浪人から採用された秀吉よりも出世が早かった(秀吉が同じ立場になるのは2年後です)わけですから、信長の光秀に対する厚遇ぶりと、光秀の信長に対する感謝の思いがよく分かります。
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その後も光秀は各地を転戦して武功を挙げ、前述の丹波国も領地に加えました。地図を見れば分かりますが、丹波国は京都のある山城国(やましろのくに、現在の京都府南部)の真上にあります。つまり、信長は全国統一に向けて戦略上重要な位置にある国を、光秀に一任しているのです。
また、信長は自分の家臣をいくつかの軍団に分け、それぞれに地方の攻略を命じていましたが(例えば羽柴秀吉は中国地方を担当)、光秀は「遊軍」(ゆうぐん、待機している軍勢のこと)として常に自分の手元においていました。
一見すると手持ち無沙汰(ぶさた)のように見えますが、有事の際には各武将の援護のために真っ先に駆けつけるわけですから、攻撃力も防御力も同時に備えていなければなりません。そのような難しい軍団を、信長は光秀を信頼して任せていたのです。
ここまで振り返ってみると、光秀が自分をそこまで信頼してくれている信長をどうして裏切ったのか、ますます理解できなくなりますよね。後世の人間が苦しまぎれに怨恨説を「つくりあげた」背景も、分からなくはありません。
しかし、人間というものはいくら物量や恩で満足していても、気持ちの中で何がしかの不信感を持ってしまうことがよくあります。それは光秀とて例外ではなく、信長の見せた行動の中から「このままでは信長様についていけない」と思わせる「何か」が芽生えた可能性が高いのです。
では光秀に不信感を与えた信長の行動とは何だったのでしょうか?
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