慶長(けいちょう)8(1603)年、徳川家康(とくがわいえやす)は朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸に幕府を開きましたが、当時の家康は諸外国との貿易に積極的であったのみならず、オランダからの要請で日本人傭兵(ようへい)を「輸出」していました。
最近発見された資料によって、オランダが多くの日本人傭兵を輸入していたことが分かりました。傭兵となった「サムライ」たちは、当時イスパニア(=スペイン)が支配していたインドネシアのモルッカ諸島を攻略するなど大活躍し、いわゆる「オランダ領東インド」の植民地獲得に貢献したのです。
しかし、そんな傭兵たちは戦争に強かったと同時に気性が大変に荒く、現地の指揮官は彼らの扱いに細心の注意を払わなければなりませんでした。
なぜなら、戦国時代は「人を殺せば出世する」からであり、その流れは当時の一般庶民まで同じだったからです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
かくして、17世紀後半までの我が国では全国でいわゆる「戦国の遺風」が残っており、至るところで血なまぐさい事件が起こるという殺伐(さつばつ)とした雰囲気が我が国全体における道徳心の低下をもたらすという有様でした。
例えば、この当時は作業に使役させる目的で牛や馬が飼われていましたが、年老いたり病気になったりすると、動けるうちから追放して死なせることがよくありました。また、貧しさなどもあって生まれたばかりの赤ん坊を捨て子にすることが多かったり、人が旅先で病気になると旅籠(はたご)から追い出されたりすることも日常茶飯事でした。
しかし、史実においてこうした遺風を綺麗さっぱり一掃した政治家が現れました。先述した5代将軍の徳川綱吉です。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、彼が発布した「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」が当時の日本人の精神を根本から改め、以前の「日本人独自の道徳や思いやりの精神」を取り戻したのです。
生類憐みの令といっても、そういう名前の法令が出されたわけではなく、貞享(じょうきょう)2(1685)年に「鳥類を銃で撃ってはならない」というお触(ふ)れが出されて以来、約20年の間に少しずつ増えてゆき、最終的に135個の法令が出されたものを総称して名付けられたものです。また、その内容も多岐に渡っており、犬に関するものは33件と全体の約4分の1に過ぎません。
数多くの法令の中には「鳥類などを口にしてはいけない」という食卓での禁令など、次第にエスカレートしたものが多かったのは確かです。しかし、法令の底辺にあったのは「動物愛護」から「人命尊重」へとつながっていった、確固たる綱吉の意思でした。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
こうした伝染病を防止するためや、野犬化によって犬自身が被害を受ける前に保護しようという考えがあったからこそ、犬に関する様々な法令がつくられたのです。この他、生類憐みの令では病気になった牛馬をきちんと療養させることや捨て子の禁止、あるいは人が旅先で病気になっても旅籠で面倒をみることなども義務付けています。
確かに、人間よりも動物の方が大切であるかのような法令には行き過ぎた問題がありましたが、年月の経過とともに骨の髄にまで染み付いてしまった「戦国の遺風」をなくすためには、ある意味では「劇薬」ともいえるショック療法が必要でした。
江戸時代には落語の世界の「熊さん八っつあん」に代表されるような「助け合いの精神」があったと一般に知られていますが、初期はむしろ全く逆でした。しかし、綱吉の出した法令がそれを180度転換し、生命を大切にするとともに相手の立場を尊重するという道徳心をもたらし、現代にまで続いているのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
史実において、我が国は鎖国によって200年以上の平和を享受しましたが、こうした太平の世を完全に達成できたからこそ、綱吉が満を持して自身の政策を行うことが可能になったと言えるでしょう。
すなわち、もし我が国が鎖国をしなければ、後の綱吉の政策が実行されないかあるいは不十分なものとなり、日本人の「思いやり精神」が取り戻せなかった可能性もあります。例えば、我々が自宅の書斎の机の引き出しに短銃を隠し持っているのが当たり前になっているかもしれません。
また、長年の平和によって一般庶民の生活が豊かになったことから発展した元禄文化が存在しなければ、イギリスのように産業革命を成功させた後も、労働者と使用者との対立関係が激化して様々な社会運動が発生したり、あるいは苦しい生活を送る庶民の欲求を満たすという名目で共産主義が広まったりしたかもしれないのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。