幕府が成立した17世紀前半の世界では、キリスト教(=カトリック)を信仰したヨーロッパ諸国による世界各地の植民地化が進んでおり、我が国とて例外ではありませんでした。
設立初期の江戸幕府は平和的な海外貿易に積極的でした。しかし、時が流れるにつれて幕府は次第に貿易を厳しく統制するようになりましたが、その理由は主に2つありました。
理由の第1はカトリックの問題でした。幕府は始めのうちはカトリックを黙認していましたが、一神教(いっしんきょう)であるキリスト教の性質から仏教や儒教(じゅきょう)との対立が深刻化しており、キリシタンと呼ばれた信者たちが団結して幕府に反抗する可能性もありました。
しかし、何よりも問題視されたのは、カトリックによる布教が豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代から続いていた「我が国侵略の野望」と結びついていたことでした。また同じキリスト教でもプロテスタントを信仰していたイギリスやオランダが、自国の貿易の利益を守るためにカトリックに潜(ひそ)む領土的野心を幕府に警告していたのも大きく影響しました。
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外国から「輸入する」ということは、その商品が我が国では手に入らなかったり、手に入ったとしても非常に高価だったりするのが普通です。と言うことは、輸入によって仕入れた商品は、相手がどんなに高価でも手に入れようとしたり、あるいは安く大量に手に入れたりしても、結果的に大儲けにつながるというわけです。もちろん「輸出」の場合も理論的には同じです。
当時の貿易は、幕府だけではなく西国の大名も行っていました。大名が「おいしい」貿易を行って、その利益で強大な経済力と軍事力を持つことによって、幕府に反逆するようになることを恐れたのです。
こうした事情もあって、幕府は次第に制限貿易へと転換するようになるのですが、いわゆる「鎖国」の状態にまで極端な政策を強行するようになった背景には、カトリックがもたらした我が国における「大規模な反乱」がありました。
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その後、有馬氏が日向(ひゅうが、現在の宮崎県)の延岡(のべおか)に領地替えとなり、幕府直轄の天領を経て、松倉(まつくら)氏が新たに支配しました。
藩主となった松倉勝家(まつくらかついえ)は、幕府に認められたいという意思があったのかキリシタンへの厳しい弾圧を開始し、同時に農民への過酷(かこく)な年貢の取り立てを行いました。キリシタンから改宗しない者が雲仙岳(うんぜんだけ)の火口に放り込まれたり、年貢を納められない農民が蓑(みの)で縛(しば)り上げられ、生きたまま火を付けられるという「蓑踊り」と呼ばれた拷問(ごうもん)を加えられたりしました。
また、同じくキリシタン大名だった小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原の戦いで処刑された後に、唐津(からつ)藩が領有していた肥後(ひご、現在の熊本県)の天草(あまくさ)においても、藩主の寺沢堅高(てらざわかたたか)による農民への圧政とキリシタンに対する弾圧が続いており、島原や天草のキリシタンや農民たちは、日々追いつめられていきました。
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これに対し、幕府は板倉重昌(いたくらしげまさ)を島原へ派遣しましたが上手くいかず、板倉は翌寛永15(1638)年の旧暦元日に総攻撃をかけた後に討死しました。幕府は老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)を新たに派遣して、12万以上の軍勢で陸と海から原城を取り囲みました。
信綱は、オランダに頼んで大砲を原城めがけて砲撃しましたが、外国人の助けを借りることへの批判が高まり、すぐに中止されました。しかし、原城に立てこもった一揆勢にとっては、頼りにしていたキリスト教(=カトリック)のポルトガルからの救援が来ないどころか、プロテスタントのオランダが攻撃を仕掛けてきたことで心理的に大きな影響を与えたのではないかと考えられています。
さて、先の総攻撃で板倉など4,000人以上の死傷者を出した幕府側は、一揆勢に対して兵糧攻めの作戦に出ました。長引く戦いで兵糧や弾薬が尽きた一揆勢は、次第に苦しくなりました。
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しかし、信綱の動きを察した肥前藩の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が抜け駆(が)けをしたために、一日総攻撃が早まっただけでなく、指揮系統が乱れたことで幕府軍は混乱し、死者1,000人以上、負傷者を合わせれば1万人を超える被害を出してしまいました。
一方の一揆勢も壊滅(かいめつ)状態となって、天草四郎が討ち取られるなど、ほとんどが殺害されました。こうして島原の乱はようやく鎮圧されましたが、幕府が受けたダメージはかなり大きなものがありました。
なお、乱後に松倉勝家は領地を没収されただけでなく、大名としては異例の斬首刑に処せられ、寺沢堅高は唐津藩の領地のうち天草領を没収されると、ショックを受けたのか後に自害して、寺沢家は御家断絶になりました。また、抜け駆けした鍋島勝茂も罰を受けています。
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なぜなら、幕府を頂点とするいわゆる「幕藩体制」が武力で他藩などを支配することで成り立っていたからです。島原の乱が数か月も鎮圧できなかったことは、幕府のプライドを大いに傷つけたのみならず、他の藩に「自分たちも幕府に反逆できるかもしれない」という流れを生み出しかねない深刻な事態でした。
しかも、島原の乱の中心となったのはキリシタンの勢力ですから、もしこのままキリシタンを野放しにしたことで第二・第三の「島原の乱」が起きてしまえば、それこそ幕府の威信は文字どおり地に堕(お)ちてしまいます。
だからこそ、幕府は二度と自分に逆らう勢力を誕生させないために、史実のとおりカトリックを禁教にするとともに信仰する諸国と国交を断絶し、同じキリスト教でもプロテスタントであり、我が国での布教をしないと約束したオランダや、同じアジアの国同士であるチャイナの清国(しんこく)や朝鮮など限られた国との間でしか貿易を行わないようにしたと考えられるのです。
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