寛永(かんえい)16(1639)年、幕府はポルトガル船の来航を禁止して、キリスト教(=カトリック)を信仰する国との国交を断絶しました。さらに2年後の寛永18(1641)年には肥前(ひぜん、ここでは現在の長崎県)の平戸(ひらど)のオランダ商館を長崎の出島(でじま)に移し、オランダ人と日本人との自由な交流も禁止するなど、長崎奉行の厳しい監視が続けられました。
この結果、我が国と貿易などの交渉を行ったのは、同じキリスト教でもプロテスタントを信仰し、我が国でキリスト教の布教をしないと約束したオランダと、同じ東アジアでキリスト教とは無関係のチャイナ・朝鮮・琉球(りゅうきゅう)のみとなり、厳しい統制下による制限貿易の様子が国を閉ざしたように見えることから、後に「鎖国(さこく)」と呼ばれるようになりました。
その後、我が国は国内で大きな争いが起きず、平和な状態が約200年も続きましたが、諸外国との交流を積極的に行わなかったことが、世界各国での技術などの様々な発展から取り残される結果をもたらしました。
そして、嘉永(かえい)6(1853)年旧暦6月にアメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが4隻(せき)の黒船を率いて相模(さがみ、現在の神奈川県の大部分)の浦賀(うらが)に来航したのをきっかけとして、我が国は諸外国の言われるままに開国せざるを得ず、その後の大混乱のうちに江戸幕府が倒れ、明治新政府のもとで近代国家への道のりを歩むことになりました。
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我が国が史実において鎖国の状態に入った17世紀半ば頃の世界は、東インド会社を設立してアジアに進出したオランダがヨーロッパの貿易や金融の中心として栄えていました。当時の江戸幕府がオランダとの貿易を中止しなかったのも、歴史の流れからすればある意味当然のことだったのです。
その後、18世紀後半にイギリスで産業革命が始まり、技術の向上や資本主義の発展などがみられるようになりますが、これらは我が国でも史実(明治時代)より前に実現した可能性もあります。
そして何よりも、鎖国に入った段階では現代の超大国であるアメリカ合衆国が誕生していない、ということに注目しなければなりません。アメリカが成長する前に我が国が世界の覇権(はけん)を握っていれば、明治維新も日清・日露戦争も、ひいては大東亜戦争(太平洋戦争)も必要なかったでしょう。
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一例として、江戸時代初期には様々な治山(ちさん)・治水や都市整備などの事業が行われましたが、その際に精密な測量が必要だったことや、あるいは商業取引の際に重要だったことから和算(わさん)が発達しましたが、関孝和(せきたかかず)は筆算代数式(ひっさんだいすうしき)とその計算法や円周率の計算などで、いずれも当時のヨーロッパの研究水準と遜色(そんしょく)ない優れた業績を残しています。
また、元禄小判の発行で貨幣(かへい)の価値が下がったことに対して「金の価値を落とした偽物を市中に出回らせることで不正な利益を上げているのはケシカラン」という批判が幕閣の中で起きた際に、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)の荻原重秀(おぎわらしげひで)が「幕府が一両と認めるのであれば、たとえ瓦礫(がれき)であろうと一両の価値に変わりはない」と反論しました。
瓦礫を「紙切れ」に換えれば、重秀の考えは私たちが普段から使用している紙幣と全く同じことになります。「お金の信用はその材質ではなく、裏打ちとなっているのは政府の信用である」という思想が20世紀の経済学者であるイギリスのケインズによって世界中に広まりましたが、それより200年以上も早く実践(じっせん)していた重秀の先見性に対して、私たちはただただ脱帽するばかりですね。
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さらに19世紀に入ると、一部の地主や商人などが作業場を設け、農業から離れた賃労働者である奉公人を集めて手工業(しゅこうぎょう)として生産を行う「マニュファクチュア(工場制手工業)」に進化して、1830年代までには大坂や尾張(おわり、現在の愛知県西部)の綿織物業や北関東の絹織物業などで見られるようになりました。
マニュファクチュアのような商品生産やそれに伴う賃金労働は資本主義の源流であることから、我が国が鎖国をせずに世界の技術革新(=イノベーション)などによる変化に対応できていれば、独自に産業革命が起きていた可能性が高いのです。
もし我が国が東アジアで19世紀当初までに確固たる国づくりを完成させていれば、史実における帝国主義(=政治や経済、軍事などの面で他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策のこと)も全く違った様相を呈(てい)したことでしょう。
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しかし、歴史には「光と影」があり、鎖国をしたことによる「デメリット」ばかり注目すれば、一方的な歴史観に陥(おちい)りかねないのみならず、いわゆる「自虐(じぎゃく)史観」を否定する資格もありません。
また、江戸幕府が「鎖国をした」のではなく、それこそ「鎖国をせざるを得なかった」という事情がなかったかどうかも考察する必要があるでしょう。
結論から先に申し上げれば、私自身としては「鎖国の状態に入るのは当時としては『必然』だった。しかし、鎖国をやめて開国に転換する『タイミング』を見誤った」と考えております。
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