明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。
こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられます。
人口の増加は特に工業都市において著しく、大正9(1920)年には全国の人口の3割以上が都市に居住しましたが、多くの人口を抱えることになった都市部では鉄筋コンクリート造りの銀行や会社、あるいは百貨店などの西洋建築物が次々と建てられました。
当時の人々の間ではトンカツ・コロッケ・カレーライスといった洋食が流行し、西洋風の応接間が設けられた文化住宅が建てられたほか、電灯や水道・ガスも本格的に普及して国民生活の様式は大きく変化しました。
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様々な商品を陳列して販売する百貨店が発達したのもこの頃であり、従来の呉服店に起源をもつもののほか、私鉄の経営する「ターミナルデパート」が現れはじめました。
都市が繁栄した一方で農村の近代化は遅れていましたが、大正時代の頃には近代的な技術の導入によって耕地面積が増加したほか、化学肥料の普及もあって農業は集約化され、米の総収量は江戸時代末期の約2倍にまで増えました。
大戦景気は我が国に大きな経済の繁栄をもたらしましたが、その後も国際交流の活発化もあって、大正から昭和初期にかけて我が国では独自の文化が生まれました。
文化の担(にな)い手が一般大衆だったことから、当時の文化は「大衆文化」と呼ばれており、教育の普及もあって活字文化や情報文化も発達しました。
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1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュースやラジオ劇、スポーツ中継の実況など様々な情報や娯楽を楽しめるようになりました。
ラジオのスポーツ中継で特に人気だったのは、大正4(1915)年に始まった全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)や大正14(1925)年に発足した東京六大学野球などでした。また昭和3(1928)年には大相撲のラジオ中継も始まりました。
この他、明治中期に我が国に伝わった映画は、当時は活動写真と呼ばれて急速に普及し、優れた国産映画がつくられました。なお、当初は無声の映像を弁士が説明する形式でしたが、昭和初期にはトーキーと呼ばれた有声映画の制作や上映が始まりました。
また、1877(明治10)年にアメリカのエジソンが発明した蓄音機が我が国に普及したことでレコードが大量に売れ、流行歌が全国に広まりました。
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それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造(よしのさくぞう)が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。
このうち、美濃部達吉は大正元(1912)年に「憲法講話」を刊行して、法人としての国家が統治権の主体であり、天皇は憲法に従って統治権を行使する国家の最高機関として存在するという「天皇機関説」を唱えました。
また、柳田国男は、農村に古くから伝わっている民間伝承や風習・祭礼などを通じて、我が国の民衆文化を明らかにする民俗学を確立しました。
この他、ロシア革命の影響は学問研究の分野にも及び、経済学では河上肇(かわかみはじめ)が大正5(1916)年に「貧乏物語」を著してマルクス経済学を紹介するなど、マルクス主義が知識人に大きな影響を与えました。
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また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。
ところで、この当時の教育の普及はめざましく、義務教育の就学率がほぼ100%となったほか、中等・高等教育機関も充実しました。例えば、中学校の数は大正4(1915)年には321校であったのが大正14(1925)年には500校を超え、また生徒数も大正9(1920)年の約17万人から昭和5(1930)年には約34万人と倍増しています。
なお、原敬(はらたかし)内閣は高等教育機関の充実を進め、旧制高等学校が大幅に増加したほか、大正7(1918)年には大学令を公布して、総合大学である官立の帝国大学以外にも単科大学や公立・私立の設置を認めました。なお、この大学令に基づいて大正11(1922)年に関西法律学校を前身とする「関西大学」が発足しています。
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