当時の兵力は、旧幕府軍の約15,000名に対して新政府軍は約5,000名しかおらず、旧幕府軍は有利な戦いが出来ると思い込んでいました。しかし、いざ蓋(ふた)を開けてみれば新政府軍の圧勝に終わったのです。
新政府軍が勝利した大きな理由の一つとしては、旧幕府軍と比べて最新鋭の鉄砲などの火器が充実していたことが挙げられます。戦いはもはや兵力の多寡(たか、多いか少ないかの量のこと)ではなく、いかに優れた火器を多く使用できるか、という点が重視されていました。
さらにもう一つの大きな理由は、新政府軍が明治天皇から下賜(かし、高貴の人が身分の低い人に物を与えること)された「錦の御旗(みはた)」でした。戦場に錦の御旗が掲げられたということは、新政府軍が官軍となった一方で、旧幕府軍が賊軍、つまり「朝敵(ちょうてき)」になったことを意味していました。
そして、この厳然たる事実にもっとも敏感に反応したのが前将軍の徳川慶喜だったのです。
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戦いに勝利した新政府軍は慶喜を正式に朝敵とみなし、征討軍を江戸へと向かわせました。この中には赤報隊(せきほうたい)を結成し、年貢(ねんぐ)を半減すると公約して農民の支持を得ようとしたものの、新政府から偽官軍として処刑された相楽総三(さがらそうぞう)もいました。
江戸城に戻った慶喜は、幕臣の小栗忠順(おぐりただまさ)による徹底抗戦の意見を退け、フランス公使のロッシュの援助も断り、江戸城を出て上野の寛永寺(かんえいじ)で謹慎しました。
いかに鳥羽・伏見の戦いで敗れたとはいえ、旧幕府を支持する兵力はまだ多く、今後の展開次第では軍事的勝利も十分考えられたはずなのに、なぜ慶喜は朝廷に対して恭順(きょうじゅん、命令につつしんで従う態度をとること)の姿勢をとり続けたのでしょうか。
その背景には、慶喜に隠された「血の秘密」があったのです。
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ところが、前回(第82回)も紹介したとおり、幕末を迎える頃までに水戸学は「主君としてふさわしいのは幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室であり、また諸外国からのいわゆる外圧に対しては、これを排除すべきである」とする尊王攘夷の考えが中心となっていました。
要するに、徳川家でありながら皇室を重視する学問を慶喜自身が幼い頃から身に付けていたことによって、慶喜は将軍家でありながら同時に皇室も尊敬しており、だからこそ慶喜にとって自らが朝敵となることは、たとえ将軍という武家の棟梁(とうりょう)の地位を投げ出してでも絶対に許されないことだったのです。
こうした慶喜の姿勢が一般的に「弱腰」と見なされることが多いですが、逆から見れば、慶喜が朝廷と争わずに謹慎したからこそ、徳川家が滅ぼされることもなければ諸外国の介入を招くこともなく、また後述するように江戸の町を戦火にさらすことを防げたことを私たちはもっと知るべきではないでしょうか。
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江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、同年旧暦3月9日に東征大総督府参謀(とうせいだいそうとくふさんぼう)の西郷隆盛と会見させました。
山岡は勝の手紙を西郷へ渡して朝廷に取り計らうよう依頼しましたが、西郷は山岡に対して複数の条件を突き付けました。西郷の条件は江戸城の引き渡しや旧幕府軍の武装解除などであり、山岡はそれらの要求を大筋で受けいれたものの、一つだけは断固として拒否しました。
その要求とは「徳川慶喜の身柄(みがら)を備前藩に預けること」でした。勝と同じく旧幕臣の山岡鉄舟にとって、自らの主君が流罪(るざい)になってしまうことだけは、他の旧幕臣をなだめるためにも絶対に受けいれられなかったのです。
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「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」
山岡の決死の意見に対し、さすがの西郷も言葉が詰まりました。やがて山岡の論理をもっともだと思った西郷は折れ、慶喜の件を自分に一任することで話し合いは決着しました。
山岡は翌旧暦3月10日に江戸に戻って勝に結果を報告すると、西郷も13日に江戸の薩摩藩の屋敷に入りましたが、征討軍の江戸城進撃の予定日は15日に迫っており、予断を許さない中で西郷隆盛と勝海舟との会見が行われたのです。
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この後旧暦4月に江戸城は争うことなく開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避できたほか、江戸を焼け野原から防いだことは、指揮系統が寸断されて諸外国の介入を招くこともなく、また後の首都移転などの大きな効果をもたらすことになりました。
江戸城の無血開城の立役者は西郷や勝海舟であると一般的には言われていますが、その西郷と事前に命懸けで交渉を行った山岡鉄舟の功績も見逃せません。現実に、西郷は山岡に対して以下のような賛辞を贈っています。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人物でなければ天下の偉業は成し遂げられないものだ」。
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戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵力を持っており、簡単には決着しないと思われましたが、新政府軍が肥前(ひぜん)藩の所有するアームストロング砲などの最新兵器を活用したことで戦いは1日で終わり、彰義隊は壊滅しました。
鳥羽・伏見の戦いと同様に最新兵器の能力の高さを思い知らされる戦争となりましたが、敗れた彰義隊の残存兵力は東北地方などへ落ちのび、戦いはさらに続くことになりました。
なお、上野から少し離れた現在の東京都港区浜松町で慶應義塾(けいおうぎじゅく)を開いていた福沢諭吉は、遠くから聞こえてくる戦争の轟音(ごうおん)が響くなかでも平然と自ら講義を続けていたというエピソードが残っています。
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なぜなら、会津藩主の松平容保(かたもり)が、京都守護職として討幕派と何度も衝突していたからです。なかでも長州藩は、会津藩が預かっていた新選組による池田屋事件などで多くの藩士を殺されていましたから、その恨みは深いものがありました。
会津藩は会津若松城に籠城(ろうじょう)して抵抗を続けましたが、先述した肥前藩のアームストロング砲による激しい砲撃もあり、明治元(1868)年旧暦9月22日に降伏しました。この戦いを「会津戦争」といいます。
会津戦争には、平均年齢が16~17歳の男子で編成され、壮絶な自刃を遂げた「白虎隊(びゃっこたい)」などの悲劇のエピソードが多く残されていますが、かつては孝明天皇から朝廷への忠節に対するお褒(ほ)めのお言葉を賜(たまわ)った会津藩が、いかに時代が変わったとはいえ、戊辰戦争において新政府軍に「錦の御旗」を向けられ、朝敵として戦わなければならなかったとは何という運命の巡り合わせでしょうか。
なお、会津戦争を経て、旧幕府軍の残存兵力は仙台から蝦夷地(えぞち、現在の北海道)の箱館(現在の函館)へと移動し、新政府軍との最終決戦が行われることになりました。
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榎本武揚(えのもとたかあき)らの旧幕府海軍は、会津戦争が続いていた明治元(1868)年旧暦8月に江戸を脱出し、仙台で新選組の土方歳三(ひじかたとしぞう)ら旧幕府軍の残存兵を収容した後に蝦夷地へと向かうと、年末までに蝦夷地を平定して箱館の五稜郭(ごりょうかく)を拠点とする「蝦夷共和国」を樹立しました。
しかし、新政府は蝦夷共和国を認めず、雪解けを待って翌明治2(1869)年に攻め込みました。これを「箱館戦争」といいます。榎本らは陸海それぞれで戦いましたが敗れ、同年旧暦5月に土方は戦死し、榎本は新政府軍に降伏しました。
こうして鳥羽・伏見の戦いから約1年半にわたって続けられた戦いは新政府による国内統一というかたちで終止符を打ちました。これらの戦いを総称して「戊辰戦争」といいます。箱館戦争で降伏した榎本は投獄されましたが生命は助けられ、出獄後は新政府に登用されて、その後長く活躍しました。
ところで、幕末から戊辰戦争の終結までに多くの尊い生命が犠牲となったことに心を痛められた明治天皇は、その御霊(みたま)を慰めるため、明治2(1869)年に「東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)」を創建されました。
東京招魂社はその後明治12(1879)年に「靖国(やすくに)神社」と改称され、国難に際して祖国に殉じた尊い英霊(えいれい)をお祀(まつ)りする神社として現在に至っています。
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