そんな中、慶応2(1866)年旧暦1月に同盟を結んだ薩摩・長州の両藩は、公家の岩倉具視(いわくらともみ)らと結んで武力による討幕を目指していましたが、実は、薩長側がどれだけ優位に展開していようが「いきなり幕府を倒す」ことは不可能でした。
なぜなら、幕府が成立した背景に天皇が深くかかわっておられるからであり、この事実をしっかり理解できなければ、本来は楽しく学べるはずの歴史が、苦痛でしかない「単なる知識の暗記」で終わってしまうのです。
そもそも「幕府」という言葉には、チャイナにおける「王に代わって指揮を取る将軍の出先における臨時の基地」という意味がありました。この場合、チャイナの皇帝は将軍に戦争をさせやすいように、戦地における徴税権や徴兵権を将軍に与えていました。
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朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、頼朝は政治の実権を朝廷から、すなわち「天皇に委任される」ことになりました。もちろん、この流れは室町幕府も江戸幕府も同じです。
要するに、江戸幕府は「天皇のお墨付き」をもらっていたも同然であり、いかに武力で勝ろうとも、そんな幕府をいきなり討つことは天皇に弓を向けるも同然の行為であり、絶対にできなかったのです。
ところが「不可能を可能にする」手段が一つだけありました。それは、天皇ご自身から「幕府を倒すように」という命令をいただくことです。慶応3(1867)年旧暦10月14日、朝廷は薩長両藩に対して「討幕の密勅(みっちょく、秘密に作成された天皇からの命令書のこと)」を下しました。
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しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。
いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、国内で大きな内乱が起きるということは、事後の混乱と諸外国の介入などによって、我が国が存亡の危機を迎える可能性も十分考えられることだったのです。
また、武力による討幕は、徳川家そのものの滅亡も意味していましたから、曲がりなりにも長年にわたって政治を行ってきた徳川家を滅ぼすことに対しては、やはり大きな抵抗を感じる藩も少なからず存在しており、その中心となったのが土佐藩でした。
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このままでは武力討幕が避けられず、徳川家の存続すら危ういことを察した慶喜は山内の策を受けいれ、討幕の密勅と同じ日の慶応3(1867)年旧暦10月14日に、朝廷に対して「大政奉還(たいせいほうかん)」を申し出ました。
朝廷が慶喜からの申し出を受け、大政奉還を受理したことで、徳川家康(とくがわいえやす)以来260年余り続いた江戸幕府がついに終焉(しゅうえん)を迎えることになったのです。
ところで、皆さんはなぜ幕府が「大政奉還」という形式で政権を朝廷に返上したかご存知でしょうか。実は、これに関しても、慶喜が就任していた「征夷大将軍」という地位が大きく関係しているのです。
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だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの討幕の密勅がその根拠を失うという流れをも成立させてしまいました。
さらには徳川家がほぼ無傷で生き残ったことで、来るべき新政権の中心的存在として、そのまま政治の実権を握り続けるという可能性をも秘めるようになったのです。
しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がないと憤(いきどお)った薩長両藩や公家の岩倉具視らの討幕派は、慶応3年旧暦12月9日(1868年1月3日)に武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを「王政復古の大号令」といいます。
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天皇お自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、かつて徳川家に大政奉還を許した反省があったからなのか、討幕派は大号令の直後に官職の大改革を実行しました。
すなわち、それまで1000年以上続いた摂政や関白を廃止し、新たに総裁・議定(ぎじょう)・参与の「三職」を創設したのです。
総裁には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任し、議定には公家の中山忠能(なかやまただやす)や前土佐藩主の山内容堂らが、参与には岩倉具視(のち議定に異動)や、雄藩の代表として薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の木戸孝允、土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らが任命されました。
しかし、新たに創設された三職に徳川慶喜の名はありませんでした。これによって徳川家が新政権への参加の道を断たれたのみならず、討幕派が中心となった新政府はさらなる追い討ちを同日のうちに徳川家にかけたのです。
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慶喜の内大臣の地位と幕領を没収しなければ、徳川家に巻き返しの可能性を持たせてしまうと判断した新政府は、王政復古の大号令が発せられた旧暦12月9日の夜に、明治天皇ご臨席のもとで「小御所(こごしょ)会議」を開きました。
旧幕府側の前土佐藩主の山内容堂らは、この会議に前将軍の徳川慶喜が出席できないことを抗議しましたが、岩倉具視らが受けいれないなど話し合いは紛糾(ふんきゅう、意見や主張などが対立してもつれること)し、やがて休憩に入りました。
休憩の際に、岩倉が外で警備をしていた西郷隆盛に意見を求めると、西郷は「短刀一本あれば用は足りる」と答えたそうです。すなわち、相手と差し違えるだけの覚悟をもてば道は開けると岩倉を勇気づけたのでした。
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しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所会議の内容が骨抜きにされ、慶喜の実権が温存されようとしました。
このため、西郷隆盛が最後の手段とばかりに、江戸の商家を薩摩藩という身分を隠さずに片っ端(ぱし)から襲って旧幕府を挑発した結果、薩摩藩江戸屋敷が旧幕府兵によって焼き討ちされたことで、慶喜の名誉が回復する前に戊辰(ぼしん)戦争を起こさせることに成功しました。
西郷による「なりふり構わぬ策士ぶり」が歴史を大きく動かしたことになりますね。
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