そんな中、高杉は元治元年旧暦12月(1865年1月)に奇兵隊(きへいたい)を率いて下関で挙兵しました。これを「功山寺(こうざんじ)挙兵」といいます。兵を挙げた当時、高杉の兵力は伊藤俊輔(いとうしゅんすけ、後の伊藤博文=いとうひろぶみ)の力士隊と合わせても100人に満たないものでしたが、挙兵後に続々と助勢が集結し、ついに藩内の保守派を一掃することに成功しました。
高杉や桂らが政治の実権を握ったことで、長州藩における藩論は討幕へと一気に転換することになりました。高杉によるわずかな人数による挙兵が長州藩の、ひいては我が国の歴史を大きく変えたことになるのですが、実はそれ以前に高杉によって我が国の領土が他国によって占領される危機が回避されていたという歴史を皆さんはご存知でしょうか。
話は文久3(1863)年にさかのぼります。
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藩の家老と偽(いつわ)って交渉に臨んだ高杉に対し、イギリスは関門海峡の入り口にあって、軍事的にも重要な彦島(ひこしま)の租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りることだが、事実上の占領を意味する)を要求しました。
並の交渉相手なら、外国の脅威に屈して彦島の租借に応じていたことでしょう。しかし、高杉はイギリスの要求を断固として拒否し、粘り強い交渉の末、ついに撤回させることに成功したのです。
なぜ高杉はイギリスの要求を拒否できたのでしょうか。これには、高杉が上海へ留学した際の苦い経験が背景にありました。
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また、当時は香港(ホンコン)をイギリスが租借しており、完全にイギリスの植民地と化していました。そんな風景を見た高杉は、列強に領土を奪われればどうなるかということを、身をもって体験していたのです。
だからこそ、高杉は絶対にイギリスの要求を受けいれようとしませんでした。もし高杉の功績がなかったら、彦島が清国における香港のような存在になったばかりでなく、これをきっかけに我が国の植民地化が進んだ可能性も十分に考えられます。
高杉によるまさに命懸けの行動のおかげで、現在の私たちが存在しているといっても過言ではないでしょう。なお、高杉はその後も討幕に向けて活躍しましたが病に倒れ、幕府の崩壊(ほうかい)を見ることなく慶応3(1867)年旧暦4月に29歳の若さで死去しました。
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一方、幕府は長州藩に対して先の第一次長州征討における戦後処理として領地の削減などを求めましたが、それまでの保守派から討幕へと転換した長州藩が応じなかったので、幕府は再び長州藩を討伐することを宣言しました。
しかし、薩英戦争によってイギリスの影響を受けていた薩摩藩が藩論をそれまでの公武合体から討幕へと転換しており、幕府の命令に容易に従おうとしなかっただけでなく、それまで敵対関係であった長州藩と密かに結ぼうとまで考えるようになっていました。
そんな薩摩藩で政治の実権を握っていたのが、西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)らでした。
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一方、西郷の親友であった大久保は久光に取り入り、側近として重用されましたが、決して久光の保守的な考えに賛同したわけではありませんでした。いずれ時代が西郷を必要とするようになると先を読み、あえて猫をかぶっていたのです。
やがて大久保の読みは当たり、生麦事件から薩英戦争という歴史の流れの中で、このような非常事態に対応できる人物は彼しかいないということで、西郷は再び歴史の表舞台に登場するようになりました。
かくして西郷や大久保らによって薩摩藩は討幕へと向かっていったのですが、同じ考えを持つ長州藩と同盟を結ぶことは、当初は絶対に考えられないことでした。
なぜなら、幕末における歴史の流れにおいて、両藩は敵味方に分かれて激しく争っていたからです。
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やがて文久3(1863)年の八月十八日の政変や、元治元(1864)年の禁門の変(または「蛤御門の変」)などにおいて両藩は激しく戦い、多くの犠牲者を出していました。そんなこともあり、両藩はいつしか不倶戴天(ふぐたいてん、ともにこの世に生きられない、あるいは生かしてはおけないと思うほど恨みや怒りの深いこと)の仇敵(きゅうてき)同士となっていたのです。
しかし、幕府を倒そうと思えば、薩長両藩が手を携(たずさ)えて協力したほうが、それぞれ独自の動きをするよりも効率が良いに決まっています。ただ、歴史的な経緯とそれぞれが持つプライドが、両藩の和解を阻(はば)んでいました。
ところが、歴史の神様はそんな両藩を結びつけるべく別の人物を用意していたのです。彼らの斡旋(あっせん、間に入って両者をうまく取り持つこと)によって、薩摩藩と長州藩は同盟を結ぶことが出来ました。
その人物こそが、土佐藩出身の坂本龍馬(さかもとりょうま)や中岡慎太郎(なかおかしんたろう)でした。
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しかし同盟をあきらめなかった龍馬や中岡は、討幕のために最新鋭の武器が欲しい長州藩と、琉球(りゅうきゅう)を通じての密貿易が得意な薩摩藩という経済的な立場から結びつけることで、薩長両藩の和解を進めました。
こうした努力が実って、慶応2(1866)年旧暦1月に薩長両藩はついに軍事同盟の密約を結びました。これを「薩長同盟(あるいは「薩長連合」)」といいます。
一度は激しく戦った薩長両藩が軍事同盟を結ぶまでに関係を修復させたのは、間違いなく龍馬や中岡の大きな功績であり、また両藩が経済的な結びつきから和解につながったという事実は、土佐の商家出身であり、現在の株式会社の原型ともいえる「亀山社中(かめやましゃちゅう)」を組織していた龍馬ならではの発想といえるのではないでしょうか。
なお、龍馬の亀山社中は慶応3(1867)年に「海援隊(かいえんたい)」と名を改めています。
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第二次長州征討は幕府に不利な戦況となり、大坂城へ出陣していた14代将軍の徳川家茂が同年旧暦7月に21歳の若さで急死すると、それを口実に戦闘を中止しました。
第二次長州征伐の失敗は、武力で他藩を支配することで成り立っていた幕藩体制の崩壊を意味しており、幕府の威信は文字どおり地に堕(お)ちましたが、そんな幕府に追い打ちをかけるように、同年末に大きな不幸が起きてしまいました。
慶応2年旧暦12月(1867年1月)に孝明天皇が36歳の若さで崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されたのです。孝明天皇は攘夷のお考えが強かったものの、討幕を好まれずに公武合体のお立場であっただけに、幕府にとっては大きな痛手となりました。
なお、孝明天皇の第二皇子の明治天皇が16歳で122代天皇として即位されたほか、幕府の15代将軍として御三卿(ごさんきょう)の一橋家で水戸藩出身の徳川慶喜が就任しています。
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全国の農村や都市部で世直し一揆や打ちこわしが頻発(ひんぱつ)したほか、後に教派神道(きょうはしんとう)と呼ばれた備前(びぜん)の黒住教(くろずみきょう)や大和(やまと)の天理教(てんりきょう)、備中(びっちゅう)の金光教(こんこうきょう)などが急激に広まり、伊勢神宮への御蔭参(おかげまい)りも爆発的に流行しました。
庶民による巨大なエネルギーは、慶応3(1867)年の秋から冬頃の東海道や近畿地方にかけて熱狂的な「ええじゃないか」という集団行動をもたらし、討幕運動にも大きな影響を与えるようになりました。
一方、幕府は積極的に西洋文化を受けいれるようになり、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)で様々な洋学が教えられたほか、医学分野では種痘所(しゅとうしょ)が設けられました。また、幕府や薩長などの諸藩から多くの留学生が派遣されました。西周(にしあまね)や津田真道(つだまみち)、福沢諭吉や森有礼(もりありのり)、あるいは伊藤博文(いとうひろぶみ)や井上馨(いのうえかおる)らが有名です。
なお、開国によって外国人の宣教師や新聞記者が来日したことで、彼らを通じて西洋文化が直接広まったほか、浮世絵(うきよえ)をはじめとする我が国の文化が1867年に開かれたパリ万国博覧会で紹介されるなど、文化の交流も盛んとなりました。
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