長州藩は三条実美(さんじょうさねとみ)らの急進派の公家と結んで朝廷に働きかけ、将軍の上洛(じょうらく、京都に入ること)と攘夷の決行とを幕府に対して強く迫りました。
進退窮(きわ)まった幕府は、やむを得ず文久3年旧暦5月10日(1863年6月25日)を期して攘夷を実行する旨を諸藩に命じました。ただし、攘夷に対する幕府の認識は横浜港の閉鎖を諸外国に通告することであり、軍事行動を目的とはしていませんでした。
ところが「攘夷=軍事行動」と思い込んでいた長州藩は、旧暦5月10日の当日に藩内の下関海峡を通過していた外国船を砲撃して、本当に攘夷を実行してしまいました。これを「長州藩外国船砲撃事件」といいます。
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文久2(1862)年旧暦8月21日、幕府に文久の改革を実行させた島津久光は江戸を出て京都へ向かっていましたが、武蔵国橘樹郡生麦村(むさしのくにたちばなぐんなまむぎむら、現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、馬に乗ったイギリス人の一行が久光の行列の前に立ちはだかりました。
大名行列(久光は藩主ではありませんが、実質上の最高権力者で同じ扱いとなる)が通り掛かった際には、道を譲って土下座するなどの礼を尽くして見送るのが通例なのですが、そのことを知らないイギリス人の一行は、馬に乗ったまま立往生してしまいました。
イギリス人による「無礼」な行為に怒りが爆発した薩摩藩士は一行に襲いかかり、一人を殺害するなどの乱暴に及びました。これを「生麦事件」といいます。
自ら攘夷を実行した長州藩に対して、偶発的な事件から結果として攘夷を行った薩摩藩でしたが、両藩ともその後に外国から報復されることになるのです。
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文久3(1863)年旧暦8月18日、薩摩藩と藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職を務めていた会津藩の両藩は、同じく公武合体派の公家らとともに朝廷における実権を奪い、三条実美らの公家や長州藩の急進的尊攘派を京都から追放しました。これを「八月十八日の政変」といいます。
この動きに前後して、同じ文久3(1863)年に公家の中山忠光(なかやまただみつ)や土佐(とさ)藩士の吉村虎太郎(よしむらとらたろう)らが大和五条(やまとごじょう、現在の奈良県五條市)の代官所を襲った「天誅組(てんちゅうぐみ)の変」や、元福岡藩士の平野国臣(ひらのくにおみ)らが但馬生野(たじまいくの、現在の兵庫県朝来市生野町)の代官所を襲った「生野の変」、さらには翌元治(げんじ)元(1864)年に水戸藩士の武田耕雲斎(たけだこううんさい)や藤田小四郎(ふじたこしろう)らが尊王攘夷の目的を掲げて筑波山(つくばさん)で挙兵した「天狗党(てんぐとう)の乱」が起こりましたが、いずれも失敗に終わっています。
ところで、京都を追われた長州藩でしたが、諸藩の尊攘派の志士とともに密かに京都に舞い戻って勢力の回復を期していました。しかし、彼らの動きは幕府側の知るところとなり、やがて歴史に残る大事件が起きてしまいました。
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しかし、彼らの動きは京都守護職である松平容保が預かる新選組の知るところとなりました。新選組は武器の調達や諜報(ちょうほう)活動をしていた尊攘派志士の古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)を捕まえ、彼を厳しい拷問(ごうもん)にかけて自白させたと伝えられています。
クーデターの全容を知った新選組は会津藩や桑名(くわな)藩に連絡して共同で攘夷派の志士を探索しようと考えましたが、いくら待っても両藩の部隊が来なかったので、新選組局長の近藤勇(こんどういさみ)や副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)らは新選組のみの少人数で勝手に探索を開始しました。
一方、古高が新選組に捕えられたことを知った尊攘派の志士たちは、善後策を講じるために京都三条木屋町(きょうとさんじょうきやまち)の旅館である池田屋(いけだや)に集まっていましたが、彼らは池田屋が怪しいと突き止めた近藤勇らの一行が次第に近づいていることに気が付いていませんでした。
時は元治元(1864)年旧暦6月5日の午後10時頃、祇園祭(ぎおんまつり)の賑(にぎ)わいの余韻(よいん)が残る蒸し暑い夜に、祭の雰囲気に似つかわしくない激闘が始まろうとしていました。
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「御用改めである!」
近藤らは正面から斬り込み、尊攘派の志士らとの間で大乱闘が繰り広げられました。途中で沖田が病(やまい)を発して戦線を離脱するなど近藤らは苦戦しましたが、別働隊の土方らが到着すると形勢は一気に逆転しました。
最後には会津藩や桑名藩の部隊が到着して志士らは壊滅状態となり、宮部鼎蔵(みやべていぞう)ら多数が戦死した一方で、新選組の名は天下に轟(とどろ)きました。この激闘を「池田屋事件」といいます。
なお、長州藩士のうち桂小五郎(かつらこごろう、後の木戸孝允=きどたかよし)も池田屋にいましたが、到着が早かったために一旦外出した後で新選組が襲ったため、難を逃れています。
池田屋事件によって尊攘派の逸材の多くが失われたことで後の明治維新が1年遅れたとも、逆に尊攘派の反発を強めたことで維新が早まったとも言われています。
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ところで、この事件は「禁門(きんもん)の変」と呼ばれていますが、そもそも天皇がおわします御所は「みだりにその裡(うち)に出入りすることを禁ずる」場所であったことから「禁裡(きんり)」と呼ばれ、後に天皇がお住まいの建物の「内裏(だいり)」から「禁裏(きんり)」と称されました。ちなみに事件名の由来となった「禁門」とは「禁裏に入る門」のことであり、後には御所そのものを意味するようになりました。
また、この事件の別名は「蛤御門(はまぐりごもん)の変」と呼ばれていますが、事件で最も激戦地となったのが蛤御門であり、門の梁(はり)には今も弾痕(だんこん)が残っています。なお「蛤御門」は俗称であり(正式名称は「新在家(しんざいけ)御門」)、御所の火災の際に滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて名付けられたとされています。
翌元治元(1864)年旧暦8月、禁門の変によって朝敵(ちょうてき)とされた長州藩に対して、幕府が諸藩を動員して討伐の軍を起こしました。これを「第一次長州征討(または「長州征伐」)」といいます。
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国内外から同時に攻め込まれ、まさにボロボロの状態になった長州藩では保守派の勢力が強くなり、藩内の尊攘派を弾圧して幕府に対し恭順(きょうじゅん、命令につつしんで従う態度をとること)の意を示しました。このため、幕府の征討軍は戦わずして長州から引き揚げています。
攘夷に対する欧米列強の報復を受けた形になった長州藩でしたが、実は薩摩藩も同じような報復を1年前に受けていました。
文久2(1862)年に起きた生麦事件の報復として、翌文久3(1863)年旧暦7月にイギリスの軍艦が鹿児島湾を攻撃したのです。この戦いは「薩英戦争」と呼ばれています。
四国艦隊下関砲撃事件や薩英戦争によって列強の実力を思い知らされた長州・薩摩の両藩は武力による攘夷が不可能であることを悟(さと)り、外国から学びながら力を蓄(たくわ)える道を選択しました。いつの世も、人間は実際に経験しないと本質が理解できないのが宿命なのかもしれませんね。
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慶応(けいおう)元(1865)年旧暦9月、列強は兵庫沖に軍艦を進め、未だに達成していなかった兵庫の開港と安政の五か国条約の勅許を強く要求しました。これを「兵庫開港要求事件」といいます。
列強の圧力に屈した朝廷がついに条約の勅許を与えると、勢いを得た列強は返す刀で翌慶応2(1866)年に幕府と交渉して「改税約書」を結ばせることに成功しました。これは安政の五か国条約で定めた平均20%の輸入税を一律5%に引き下げるものであり、結果として諸外国に有利となった一方で、我が国にとっては安い輸入品が大量に出回ることで国内の産業や経済に大きな打撃を受けました。
なお、当時の首都である京都御所に近い兵庫の開港は朝廷の反対が強く、慶応3(1867)年になってようやく勅許が与えられています。
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イギリスの駐日公使のパークスは次第に幕府政治に不信感を持つようになり、攘夷から開明政策へと転じるようになった薩摩藩や長州藩が、幕府を倒して天皇中心の雄藩連合政権を実現することに期待を寄せていました。
一方、フランスの駐日公使であるロッシュは、イギリスに対抗する意味もあって幕府支持の立場を続けました。
しかし、我が国の両派は外国からの支援は喜んで受けたものの、身に余る過剰な肩入れは断りました。幕府を、あるいは討幕派を倒す際に外国の力を頼り過ぎると、事後に外国からの法外な干渉を受ける可能性があることが分かっていたからです。
こうした諸外国との絶妙なバランス感覚が、幕府が倒れた後も我が国が西欧諸国の植民地になることなく明治維新を迎えることができた大きな要因となりました。
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