公武合体の象徴として、安藤は将軍徳川家茂の夫人に孝明天皇の妹君の和宮(かずのみや)を迎えることに成功しましたが、これは将軍が天皇の義理の弟になることを意味しており、かえって逆効果になってしまいました。
なぜなら、この図式は長幼(ちょうよう)の序(年長者と年少者の間にある一定の秩序のこと)から見て「弟たる幕府は兄の朝廷に従わなければならない」ことにつながってしまうからです。事実、この後幕府は朝廷から攘夷の実行を約束され、その対応に苦労することになりました。
また、家茂と和宮とのいわゆる政略結婚は尊王攘夷の強い反発をもたらし、安藤は文久2(1862)年旧暦1月に江戸城の坂下(さかした)門外で水戸藩の脱藩浪士らに襲われ負傷し、その後に老中を退きました。この事件を「坂下門外の変」といいます。
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文久2(1862)年、島津久光は朝廷の勅使(ちょくし、天皇の使者のこと)とともに江戸へ向かい、幕政の改革を要求しました。この意向を受け、幕府は徳川慶喜(一橋慶喜)を将軍後見職(しょうぐんこうけいしょく)に、松平慶永を政事総裁職(せいじそうさいしょく)に、会津(あいづ)藩主の松平容保(まつだいらかたもり)を新設の京都守護職(きょうとしゅごしょく)に任じました。
この他、幕府は同時に参勤交代を三年に一回に縮小したり、大名の妻の帰国を認めたり、西洋式の軍制を採用したりしました。これらの改革は当時の年号から「文久の改革」と呼ばれています。
さて、これらの改革の中で特に不思議なのは京都守護職です。なぜなら、そもそも京都には京都所司代(きょうとしょしだい)という別の役職が存在していたからです。それなのに、なぜわざわざ京都守護職を設けなければならなかったのでしょうか。
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だからこそ新たに京都守護職が必要となり、また京都守護職の保護を受けた、本来ならば下級武士や浪人などの集団に過ぎない新選組(しんせんぐみ)が京都において活躍する原因にもなったのです。幕府による平和ボケが意外なところにまで影響を及ぼしていたということになりますね。
ちなみに、松平容保が京都守護職に選ばれた理由は、会津藩の始祖(しそ)である保科正之(ほしなまさゆき)が残した「会津藩は将軍家を守護すべき存在である」という家訓(かくん、守るべきものとしてその家に伝わるいましめや教えのこと)があったからだとされています。容保が京都守護職を引き受けたことによって、会津藩は幕府と運命をともにすると同時に大きな悲劇を経験することになりました。
なお、文久の改革における政事総裁職は「政治」ではなく「政事(=政治上の事務のこと)」ですので注意が必要です。
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