我が国の最大の貿易港は江戸に近い横浜であり、また貿易の主な相手国はイギリスでした。我が国を開国させたアメリカは、南北戦争などの問題を抱えており、貿易どころではなかったからです。
貿易は大幅な輸出超過となり、輸出品の中心となった生糸の生産量が追いつかず、国内で品不足となったことで物価を押し上げた一方で、外国製の安価な綿織物の大量輸入は、農村における綿作(めんさく)や綿織物業を圧迫することになりました。
幕府は物価高を口実に貿易を規制するため、万延(まんえん)元(1860)年に雑穀(ざっこく)・水油(みずあぶら)・蝋(ろう)・呉服(ごふく)・生糸の5品を必ず江戸の問屋(といや)を経由して輸出するように命じた「五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)」を出しましたが、地方で輸出向けの商品を取り扱っていた在郷(ざいごう)商人や商取引の自由を主張する外国の反対で不成功に終わりました。
これらのことは、もし開国あるいは貿易に向けて何年も前から入念な準備を行っていれば、そもそも発生しない問題でした。事態が起きてから対策を練るという、いわゆる後手に回ったことで対応に苦悩していた幕府をさらに困らせたのが「我が国と外国との金銀の比価の違い」でした。
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しかし、幕府は自身の信用で一分銀4枚を小判1両と交換させていました。つまり実際の価値を度外視した「名目貨幣(めいもくかへい)」として一分銀を使用していたのですが、こうした「価格」と「価値」との違いが外国には理解されず、また幕府の外交技術や経済観念の乏(とぼ)しさもあり、アメリカ総領事のハリスが主張した「銀の価値による交換」が強引に行われることになってしまいました。
すなわち、メキシコドル4枚を日本で一分銀12枚という「価値」を基準に交換し、それを日本国内において金3両で両替すると、小判を海外に持ち帰ってメキシコドル12枚という「海外の金銀相場」で交換したのです。
日本を経由するだけで手持ちの資産が3倍になるという、錬金術師(れんきんじゅつし)顔負けのカラクリによって、銀貨を日本に持ち込んで小判を安く手に入れる外国人が続出し、その結果として我が国の金貨が大量に海外に流出してしまいました。その被害は10万両以上(現在の価値で約10~40億円)ともいわれています。
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貨幣の価値が下がれば物価が上昇するのは当たり前です。しかも、好景気時に貨幣における金の含有量(がんゆうりょう)を下げて文化を向上させたかつての「元禄(げんろく)小判」とは違って、貿易による値上がりで景気が悪化していた時期に貨幣を改鋳したことから、物価がますます上昇して悪質なインフレーションとなり、庶民の暮らしは大きな打撃を受けるようになってしまいました。
貿易開始に伴う庶民の生活の困窮(こんきゅう)ぶりに拍車をかけたのが、相次ぐ天災の発生や疫病(えきびょう)の流行でした。日米和親条約が結ばれた嘉永7(1854)年から安政年間(1850年代後半)にかけて、我が国では大地震が連発しました。これらの地震は「安政の大地震」と呼ばれています。
特に、安政2年旧暦10月2日(1855年11月11日)夜に発生したマグニチュード6.9~7.4と推定される「安政江戸地震」では約1万人が犠牲になったとされ、水戸藩の学者であった藤田東湖(ふじたとうこ)が倒壊した自宅の下敷きとなって圧死しました。
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なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。
こうした流れを受けて、庶民の怒りは外国に対する反感となり、貿易を行っていた商人や我が国に在留(ざいりゅう)する外国人が襲(おそ)われるようになりました。例えば、万延元年旧暦12月(1861年1月)にはハリスの通訳でオランダ人のヒュースケンが江戸で暗殺されています。こうした外国人に対する襲撃(しゅうげき)は、そのまま攘夷運動の激化につながりました。
また、世相(せそう)の不安が農村では百姓一揆(いっき)の、都市では打ちこわしの多発を招き、これらに対応しきれない幕府の権威はますます下がっていきました。
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