そんな思惑もあって、アメリカは我が国に対して当初は紳士的な対応を行いましたが、前回(第82回)のとおり天保(てんぽう)8(1837)年にモリソン号事件が起きるなど散々な目にあいました。
しかし、それでもアメリカは弘化(こうか)3(1846)年にアメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルを浦賀(うらが)に来航させ、我が国に対して平和的に通商を求めました。
もしここで幕府が通商を受けいれていれば、我が国の歴史は大きく好転していた可能性もあったでしょう。しかし、幕府は鎖国を理由にまたしてもアメリカの要求を拒絶してしまったのです。
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つまり、日本を開国させるためにはビッドルのように下手(したて)に出るのではなく、強気の姿勢で対応したほうが良いと判断したのです。こうしたアメリカの思惑によって、嘉永(かえい)6(1853)年旧暦6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが4隻(せき)の黒船を率いて浦賀に来航しました。
ペリーは黒船に多くの大砲を並べたうえで空砲を放つなどの威嚇(いかく)を加えながら、幕府に対して開国を求めるフィルモア大統領の国書の受理を迫りました。
アメリカの有無を言わさぬ態度に対して、抵抗をあきらめた幕府は国書を受け取らざるを得ず、回答を翌年に行うことを約束してペリーをようやく退去させました。しかし、幕府のこうした手段は苦しまぎれであるとともに結論の先送りに過ぎず、その後の対応に苦しむことになるのです。
なお、黒船来航当時の幕府の対応を皮肉った狂歌(きょうか)である「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰(じょうきせん) たった四杯で 夜も眠れず」が有名です。この歌は蒸気船と「宇治(うじ)の高級茶」を意味する「上喜撰」を掛けているほか、四杯の「杯」は船を数える単位でもあります。
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このため、老中の阿部正弘(あべまさひろ)は朝廷を始め諸藩(しょはん)に対して広く意見を求めましたが、これは絶対にやってはいけないことでした。
なぜなら、朝廷や諸藩の意見に耳を傾けるという行為が、幕府の政策に対して口出しすることを認めてしまったからです。事実、これ以降に幕府の威信が低下した一方で、諸藩の発言力が強化されたのみならず、朝廷の権威を高める流れにもつながってしまいました。
しかも、朝廷や諸藩から意見を求めたにもかかわらず、幕府が何の解決策も見いだせないまま時が流れていくうちに、ペリーが再び我が国に来航してきたのです。
なお、ペリーの最初の来航と同じ年の嘉永6(1853)年旧暦7月には、ロシアのプチャーチンも長崎に来航して、国境の画定と開国を要求しています。
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黒船による砲撃で我が国に危害が及ぶことを恐れた幕府は、結局ペリーの武威(ぶい)に屈して同年旧暦3月に「日米和親条約」を結びました。条約の主な内容としては、
1.アメリカ船が必要とする燃料や食糧を日本が提供すること
2.難破船を救助し、漂流民を保護すること
3.下田(しもだ)・箱館(はこだて、現在の函館)の2港を開き、領事の駐在を認めること
4.アメリカに一方的な最恵国待遇を認めること
以上が挙げられます。幕府はこの後、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結び、200年余り続いた鎖国体制から、我が国は何の準備もなく開国して、いきなり世界の荒波に揉(も)まれることになりました。
なお、最恵国待遇とは「日本が他国と条約を結んだ際に、アメリカが与えられたよりも有利な条件を他国に認めた場合、アメリカにも自動的にその条件が認められること」です。当時の幕府は外交知識に欠けていたため、アメリカの言われるままに一方的な最恵国待遇を認めてしまいました。
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幕府は前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)や越前藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)、薩摩(さつま)藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)、宇和島(うわじま)藩主の伊達宗城(だてむねなり)、あるいは幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)らの人材を積極的に登用しました。
この他、幕府は江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん、別名を江川坦庵=えがわたんあん)らの建議によって、国防を充実させる目的から江戸湾に砲台となる台場(だいば)を築いて、武家諸法度で規定された大船(たいせん)建造の禁を解きました。
また、武術訓練所である講武所(こうぶしょ)や、海軍の教育機関である長崎の海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)、蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)を改編した洋学研究教育機関である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)などを設けました。
老中の阿部正弘によるこれらの改革は「安政(あんせい)の改革」とも呼ばれています。なお、江戸湾の台場は幕府に敬意を払って「お台場」と呼ばれ、現代の地名にも残っています。
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幕府とロシアのプチャーチンとの間で「日露(にちろ)和親条約」が結ばれたのは安政元年旧暦12月21日(1855年2月7日)ですが、他国の同様の条約との大きな違いは「日露両国の国境の画定」でした。
すなわち、両国周辺の島について、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領としました。
この後、明治8(1875)年の樺太・千島交換条約で樺太はロシア領、千島列島全部は日本領と変更されましたが、日露和親条約という両国にとって史上初めての国際条約で択捉島・得撫島間を国境と定めたことが、択捉島・国後島(くなしりとう)・歯舞群島(はぼまいぐんとう)・色丹島(しこたんとう)のいわゆる「北方領土」が我が国固有の領土であると我が国が主張する大きな根拠となっているのです。
なお、日露和親条約が結ばれた日を新暦に直した2月7日は、我が国で「北方領土の日」と定められています。
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当時の老中であった堀田正睦(ほったまさよし)はアメリカとの通商に理解を示しましたが、幕府の独断で通商条約を結べば、開国に反対して外国を排斥(はいせき)しようとする攘夷派(じょういは)の激しい反発を招く可能性があることを警戒しました。
そこで、堀田は条約の締結に際して天皇の許可、すなわち勅許(ちょっきょ)を得ることで世論を納得させようと考えました。封建社会において、それまでは独断で何事も強行してきた幕府でしたが、この頃には朝廷の顔色をうかがわなければならないまでに権威が低下していたのです。
しかし、堀田の狙(ねら)いは裏目に出てしまいました。当時の孝明(こうめい)天皇をはじめとして、朝廷に攘夷派の意見が強く、容易に勅許が下りなかったのです。自分で仕掛けた足枷(あしかせ)により行きづまった幕府に対して、ハリスは当時の世界を揺(ゆ)るがした大きな出来事を利用して、追い打ちをかけるかのように通商を迫りました。
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アロー戦争で清国はまたしても敗北し、1858年にさらに不平等となる天津(てんしん)条約を結ばされましたが、ハリスはこの条約を口実として、以下のように幕府に対して通商条約を強く要求しました。
「清国に勝ったイギリスやフランスが、勢いに乗って日本を侵略する可能性が否定できないから、これを防ぐには、日本と友好的なアメリカと通商条約を先に結んで、彼らに戦争の口実を与えないようにする以外に方法はない」。
ハリスによる最後通牒(さいごつうちょう)ともいえる警告を受けて、当時の大老(たいろう)であった井伊直弼(いいなおすけ)は、勅許を得ないままアメリカと通商条約を結ぶことを決断しました。
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1.神奈川・長崎・新潟・兵庫を新たに開港し、江戸や大坂で市場を開くこと
(※実際には神奈川の代わりに横浜が、兵庫の代わりに神戸が開港しました。なお、横浜の開港後に下田が閉鎖されています)
2.通商は自由貿易とすること
3.外交官の江戸駐在や日本国内の旅行を認めること
4.開港場に居留地を設けるが、一般外国人の国内旅行を禁止すること
ここまではまだ良かったのですが、問題だったのは以下の2つでした。
5.アメリカに対して領事裁判権を認めること
6.関税はあらかじめ両国で協議すること(=協定関税制)
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例えば、アメリカと日本のうち、アメリカのみが領事裁判権を認められた場合、アメリカの国民が日本で罪を犯しても、アメリカの領事が自国の法によって裁判を行いました。
しかしその一方で、日本の国民がアメリカで罪を犯せば、アメリカの法で裁かれてしまうため、日本にとってきわめて不利となったのです。
領事裁判権の問題も大きな不平等でしたが、これよりもっと深刻だったのは6.でした。協定関税といえば聞こえが良いですが、実際には我が国に関税自主権が認められなかったのです(=関税自主権の欠如)。
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例えば、国内において100円で販売されている商品に対し、外国の同じ商品が60円で買える場合、関税を30円に設定して合計90円での販売となれば、十分対抗できることになります。
このためには関税自主権が必要となるのですが、日米修好通商条約によって我が国には認められませんでした。このため、外国の安い商品が低い関税で輸入されることで、国内の産業が大きな打撃を受けるとともに、関税による収入が見込めないことで、我が国は二重の苦しみを味わうことになってしまったのです。
なお、日米修好通商条約の批准書(ひじゅんしょ、条約に対する国家の確認・同意を示す文書のこと)を交換するため、幕府は安政7(1860)年に外国奉行をアメリカに派遣しましたが、その際に勝海舟(かつかいしゅう)や福沢諭吉(ふくざわゆきち)らが乗船した幕府の軍艦の咸臨丸(かんりんまる)が、使節に同行して太平洋横断に成功しています。
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ここで注目すべきことは、我が国が長年貿易を行ってきたオランダとも不平等条約を結ばされたという現実でした。オランダの立場からすれば「他国が不平等な条約を結んでいるのに、自分の国だけが平等というわけにはいかない」という思いは当然ではありますが、幕府が以前にオランダ国王からの開国勧告に従っていれば、少なくともこんな事態にはならなかったはずなのです。
これらはすべて、鎖国にこだわり国際的な常識や外交知識を持たなかったことで、相手の言われるままに不平等条約を結ばされた幕府によるとてつもなく大きな失政のツケでした。ちなみに、領事裁判権が撤廃(てっぱい)されるのは明治27(1894)年、関税自主権の回復に至っては明治44(1911)年まで待たなければならなくなります。
さて、かくして開国した我が国は他国との貿易を開始したのですが、開国に向けての準備を何一つ行わなかったことで様々な問題が発生し、庶民(しょみん)の生活を大きく圧迫することになってしまいました。
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我が国の最大の貿易港は江戸に近い横浜であり、また貿易の主な相手国はイギリスでした。我が国を開国させたアメリカは、南北戦争などの問題を抱えており、貿易どころではなかったからです。
貿易は大幅な輸出超過となり、輸出品の中心となった生糸の生産量が追いつかず、国内で品不足となったことで物価を押し上げた一方で、外国製の安価な綿織物の大量輸入は、農村における綿作(めんさく)や綿織物業を圧迫することになりました。
幕府は物価高を口実に貿易を規制するため、万延(まんえん)元(1860)年に雑穀(ざっこく)・水油(みずあぶら)・蝋(ろう)・呉服(ごふく)・生糸の5品を必ず江戸の問屋(といや)を経由して輸出するように命じた「五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)」を出しましたが、地方で輸出向けの商品を取り扱っていた在郷(ざいごう)商人や商取引の自由を主張する外国の反対で不成功に終わりました。
これらのことは、もし開国あるいは貿易に向けて何年も前から入念な準備を行っていれば、そもそも発生しない問題でした。事態が起きてから対策を練るという、いわゆる後手に回ったことで対応に苦悩していた幕府をさらに困らせたのが「我が国と外国との金銀の比価の違い」でした。
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しかし、幕府は自身の信用で一分銀4枚を小判1両と交換させていました。つまり実際の価値を度外視した「名目貨幣(めいもくかへい)」として一分銀を使用していたのですが、こうした「価格」と「価値」との違いが外国には理解されず、また幕府の外交技術や経済観念の乏(とぼ)しさもあり、アメリカ総領事のハリスが主張した「銀の価値による交換」が強引に行われることになってしまいました。
すなわち、メキシコドル4枚を日本で一分銀12枚という「価値」を基準に交換し、それを日本国内において金3両で両替すると、小判を海外に持ち帰ってメキシコドル12枚という「海外の金銀相場」で交換したのです。
日本を経由するだけで手持ちの資産が3倍になるという、錬金術師(れんきんじゅつし)顔負けのカラクリによって、銀貨を日本に持ち込んで小判を安く手に入れる外国人が続出し、その結果として我が国の金貨が大量に海外に流出してしまいました。その被害は10万両以上(現在の価値で約10~40億円)ともいわれています。
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貨幣の価値が下がれば物価が上昇するのは当たり前です。しかも、好景気時に貨幣における金の含有量(がんゆうりょう)を下げて文化を向上させたかつての「元禄(げんろく)小判」とは違って、貿易による値上がりで景気が悪化していた時期に貨幣を改鋳したことから、物価がますます上昇して悪質なインフレーションとなり、庶民の暮らしは大きな打撃を受けるようになってしまいました。
貿易開始に伴う庶民の生活の困窮(こんきゅう)ぶりに拍車をかけたのが、相次ぐ天災の発生や疫病(えきびょう)の流行でした。日米和親条約が結ばれた嘉永7(1854)年から安政年間(1850年代後半)にかけて、我が国では大地震が連発しました。これらの地震は「安政の大地震」と呼ばれています。
特に、安政2年旧暦10月2日(1855年11月11日)夜に発生したマグニチュード6.9~7.4と推定される「安政江戸地震」では約1万人が犠牲になったとされ、水戸藩の学者であった藤田東湖(ふじたとうこ)が倒壊した自宅の下敷きとなって圧死しました。
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なお、コレラの被害はその後も続き、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には江戸で約7万人が死亡したほか、明治初期にも何度も流行して多数の犠牲者が出ています。
こうした流れを受けて、庶民の怒りは外国に対する反感となり、貿易を行っていた商人や我が国に在留(ざいりゅう)する外国人が襲(おそ)われるようになりました。例えば、万延元年旧暦12月(1861年1月)にはハリスの通訳でオランダ人のヒュースケンが江戸で暗殺されています。こうした外国人に対する襲撃(しゅうげき)は、そのまま攘夷運動の激化につながりました。
また、世相(せそう)の不安が農村では百姓一揆(いっき)の、都市では打ちこわしの多発を招き、これらに対応しきれない幕府の権威はますます下がっていきました。
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薩摩藩主の島津斉彬や越前藩主の松平慶永らの有力な大名は、ペリーの来航以来混乱が続く幕府政治に対応できる賢明な将軍を擁立(ようりつ)すべきであると考えて、前水戸藩主の徳川斉昭の実子で御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の養子となった徳川慶喜(とくがわよしのぶ、または「一橋慶喜」)を推していました。
一方、彦根藩主の井伊直弼などの譜代(ふだい)大名らは、将軍家定と血統が近いものの、まだ幼かった紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推していました。慶喜を推す一派を「一橋派」、慶福を推す一派を「南紀(なんき)派」といいます。
一橋派と南紀派とが対立を続けていた安政5(1858)年に将軍家定が重態となると、南紀派の譜代大名らの後押しもあって井伊直弼が大老に就任しました。直弼は先述のとおり旧暦6月に勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)が下りないまま日米修好通商条約の締結を決断し、同月には次期将軍候補として徳川慶福を決定するなど、強権的な政治を行いました。
なお、慶福は名を「徳川家茂(とくがわいえもち)」と改め、家定の死を受けて同じ安政5(1858)年に13歳で14代将軍に就任しています。
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特に前水戸藩主の徳川斉昭や当時の水戸藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)、尾張(おわり)藩主の徳川慶勝(とくがわよしかつ)、越前藩主の松平慶永らは、江戸城への登城日でもなかったのに「押しかけ登城」を行い、直弼を激しく問いつめました。
しかし、直弼には直弼の言い分がありました。彼は開国という国家の存亡にかかわる重要な問題に対し、それまでの幕府の為政者たちが無責任に先送りしてきたツケを一気に払わされただけという立場でもあったのです。
加えて、条約反対派あるいは攘夷派が「外国人など我が国から追い出せばよい」と口先では威勢のいいことを言いながら、もし我が国が侵略されたらどうするのか、という問題に対しては口をつぐんで答えようともしないという有様も直弼を苛立(いらだ)たせていました。
反対派や攘夷派の余りもの無責任さに怒りが爆発した直弼は、幕府大老という自分の立場を活用して彼らに対する大粛清(だいしゅくせい)を行う決意を固めました。安政5(1858)年から6(1859)年にかけてのこれらの弾圧は「安政の大獄(たいごく)」と呼ばれています。
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特に橋本左内や吉田松陰らは若くして刑死するなど、安政の大獄によって攘夷派を中心とした多くの人材が失われるとともに、直弼による問答無用ともいうべき強権的な処置は結果として多くの人間の恨みを買ってしまいました。
安政7年旧暦3月3日(1860年3月24日)、春にしては珍しい大雪の日の朝に、江戸城近くの桜田門へと差し掛かった直弼の行列に対して水戸藩を脱藩した大勢の浪士らが襲いかかり、直弼を暗殺しました。この事件を「桜田門外の変」といいます。
最高権力者である大老が江戸城外で襲われ、しかも殺されるという大失態を演じてしまった幕府の威信がますます低下するとともに、自分の意見と対立する人間への「血の粛清(しゅくせい)」が半ば常識化してしまいました。
事実、この後明治維新を経て政情が安定するまでに、武力による実力行使を伴った血なまぐさい事件が日本国中で続発することになるのです。
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公武合体の象徴として、安藤は将軍徳川家茂の夫人に孝明天皇の妹君の和宮(かずのみや)を迎えることに成功しましたが、これは将軍が天皇の義理の弟になることを意味しており、かえって逆効果になってしまいました。
なぜなら、この図式は長幼(ちょうよう)の序(年長者と年少者の間にある一定の秩序のこと)から見て「弟たる幕府は兄の朝廷に従わなければならない」ことにつながってしまうからです。事実、この後幕府は朝廷から攘夷の実行を約束され、その対応に苦労することになりました。
また、家茂と和宮とのいわゆる政略結婚は尊王攘夷の強い反発をもたらし、安藤は文久2(1862)年旧暦1月に江戸城の坂下(さかした)門外で水戸藩の脱藩浪士らに襲われ負傷し、その後に老中を退きました。この事件を「坂下門外の変」といいます。
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文久2(1862)年、島津久光は朝廷の勅使(ちょくし、天皇の使者のこと)とともに江戸へ向かい、幕政の改革を要求しました。この意向を受け、幕府は徳川慶喜(一橋慶喜)を将軍後見職(しょうぐんこうけいしょく)に、松平慶永を政事総裁職(せいじそうさいしょく)に、会津(あいづ)藩主の松平容保(まつだいらかたもり)を新設の京都守護職(きょうとしゅごしょく)に任じました。
この他、幕府は同時に参勤交代を三年に一回に縮小したり、大名の妻の帰国を認めたり、西洋式の軍制を採用したりしました。これらの改革は当時の年号から「文久の改革」と呼ばれています。
さて、これらの改革の中で特に不思議なのは京都守護職です。なぜなら、そもそも京都には京都所司代(きょうとしょしだい)という別の役職が存在していたからです。それなのに、なぜわざわざ京都守護職を設けなければならなかったのでしょうか。
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