大戦景気による産業の大きな発展は我が国における労働者の大幅な増加をもたらしましたが、それは同時に、賃金引き上げなどを要求する労働運動や労働争議の多発をも招くことになりました。
こうした流れを受けて、大正元(1912)年に鈴木文治(すずきぶんじ)らを中心に結成された「友愛会(ゆうあいかい)」は当初の労資協調の立場から全国的な労働組合組織として急速に発展し、大正8(1919)年には「大日本労働総同盟友愛会」と改称し、翌大正9(1920)年には我が国初のメーデーが実行されました。
さらに、大正10(1921)年には「日本労働総同盟」と改称し、階級闘争主義をめざす全国最大級の労働組合に発展しましたが、大正14(1925)年には議会主義の右派と共産主義の左派とに分裂し、左派は「日本労働組合評議会」を結成しました。
なお、農村では小作料の減免を求めて小作争議が頻発(ひんぱつ)し、大正11(1922)年には賀川豊彦(かがわとよひこ)や杉山元治郎(すぎやまもとじろう)らを中心として、小作人組合の全国組織たる「日本農民組合」が結成されています。
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民衆の政治参加や普通選挙制・政党内閣制の実現を説いた民本主義は、いわゆる大正デモクラシーの先駆(さきが)けとなり、吉野が大正7(1918)年に「黎明会(れいめいかい)」を結成して自らの考えを広めると、知識人層を中心に大きな影響を与えました。
吉野の教えを受けた東大の学生たちは「東大新人会」などを結成し、労働運動への参加を通じて次第に共産主義的な傾向を持つようになりました。
こうした革新的な雰囲気(ふんいき)は、大逆事件以来の「冬の時代」を余儀(よぎ)なくされていた社会主義者たちの活発な行動をもたらし、大正9(1920)年には様々な立場の社会主義者が結集して「日本社会主義同盟」がつくられましたが、翌年には禁止されました。
社会主義の研究も制限されるようになり、大正9(1920)年には東京帝国大学助教授の森戸辰男(もりとたつお)による「クロポトキンの社会思想の研究」という論文が危険思想の扱いを受けて、休職処分となっています。
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しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成後にコミンテルンから示されたいわゆる「22年テーゼ」に「君主制の廃止」が求められていたことから、党内における議論すらまとまらない状態となりました。
その後、政府が過激な社会主義運動の取り締まりを強めて翌大正12(1923)年に一斉検挙を行ったことなどもあり、日本共産党はいったん解散状態となりました。
一方、普通選挙法の成立後の大正15(1926)年には労働者や小作人などいわゆる無産階級の意見を代表する無産政党である「労働農民党」が合法的に組織され、労働者の政治的主張が議会にも反映されるようになりました。
しかし、労働農民党は結成後まもなく共産党系の左派を中心とする内部対立によって分裂し、中間派が「日本労農党」を、右派が「社会民衆党」をそれぞれ結成しています。
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青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(いちかわふさえ)らが「新婦人協会」を結成し、当時は認められていなかった婦人参政権の要求など女性の地位を高める運動を進めました。
同じ大正9(1920)年には、山川菊枝(やまかわきくえ)や伊藤野枝(いとうのえ)らによって「赤瀾会(せきらんかい)」が結成され、こちらは社会主義の立場から女性運動を展開しました。その後、大正10(1921)年に治安警察法第5条が改正され、婦人も政治演説会に参加できるようになりましたが、政党への加入は認められませんでした。
一方、被差別部落の人々からも自主的な社会的差別の撤廃をめざして部落解放運動が進められ、大正11(1922)年には西光万吉(さいこうまんきち)らが中心となって「全国水平社」が結成されました。
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