18世紀後半からイギリスで始まった産業革命は大規模な工業生産力や軍事力をもたらしましたが、その流れが他のヨーロッパ諸国やアメリカ大陸へと広がっていったことで、世界全体に大きな影響を与えました。
なぜなら、国外の市場や原料の確保を目指して欧米諸国が競って海外での植民地の獲得(かくとく)に乗り出したからです。欧米諸国による侵略の手はやがてアジアへと伸び、インドやビルマ(現在のミャンマー)はイギリスの、インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当)は大部分がフランスの植民地となりました。
19世紀の末までには、日本やチャイナの清国・朝鮮と東南アジアの緩衝(かんしょう)地帯として独立が続いたシャム(現在のタイ)を除いて、ほとんどの地域が欧米の植民地と化したとともに、侵略を免れた国々も欧米列強による圧迫に悩まされました。
そんな中で、まずは清国が欧米列強による「犠牲者」となってしまったのです。
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各国の政府が保証する紙幣(しへい)が流通する現代と異なって、当時は保有する金銀の量が国家の信用となっていました。つまり、国家にとって金銀は身体における血液と同じであり、血液が不足すれば身体に大きな影響を与えるように、国内の銀不足はイギリスにとって深刻な問題となりました。
しかし、清国に対して売るものがなければどうすることもできません。イギリスは悩んだ末に「ある手段」を思いつき、それを実行に移したことで巨額の利益を生み出すことに成功しました。
その「ある手段」こそが、当時イギリスが支配していたインドで生産された「アヘン」を清国へ輸出することだったのです。
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イギリスが持ち込んだインド産のアヘンはたちまち清国に広がり、あっという間にイギリスの茶の輸入量を上回ったことで輸出の不足分を銀で支払わざるを得なかったことから、逆に清国が国内の銀不足に悩まされるようになりました。
困った清国はアヘンの輸入を禁止しましたが、イギリス商人によるアヘンの密輸が相変らず続けられたので、業(ごう)を煮やした清国はイギリスに対してアヘン輸入の厳禁を宣言し、イギリス商人からアヘンを没収して大量に処分しました。
清国からすれば、自国の経済や国民の健康を守るためのやむを得ない処置だったのですが、イギリスは清国の行為を暴挙とみなし、これを口実にインドで編成した軍隊を送って1840年に清国と戦争を始めました。いわゆる「アヘン戦争」です。
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この条約によって清国はイギリスに対して多額の賠償金を支払ったのみならず、開港地を上海(シャンハイ)などの5港に増やして事実上の開国となり、香港(ホンコン)を割譲(かつじょう)したほか、付属の協定で領事裁判権を認めさせられるなど、清国にとって一方的に不利な内容でした。
アヘン戦争で清国が敗北したことは、それまで「東洋の大国」と思われていた清国が欧米の資本主義と武力によって屈服されられたことを意味しており、その後の東アジア全体の歴史に深刻な影響を与えることになりましたが、もちろん、それは我が国も例外ではありませんでした。
なお、南京条約によって奪われた香港がチャイナ(中華人民共和国)に返還されたのは、約150年後の1997年のことです。
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イギリス船が今の段階で我が国に来航した場合、もし打ち払うような行動に出てしまえば、我が国を攻撃する口実をイギリスに与えてしまうことになります。慌(あわ)てた幕府は南京条約が結ばれた天保13(1842)年に「天保の薪水(しんすい)給与令」を出しました。
これは、我が国を訪問した外国船に対して食糧や燃料を与え、速やかに退去してもらうというものでしたが、確かにこの法令によって外国との無意味な衝突は避けられたものの、そんな小手先な手段を採るよりも、我が国が自主的に開国すれば何の問題もないはずでした。
我が国と同じく厳しい制限貿易を行っていた清国は、アヘン戦争でイギリスに敗れたことで無理やり開国させられただけでなく、不平等な条約を強引に結ばされるなど散々な目にあっていました。我が国が清国と同じような運命とならないためには、かつて田沼意次が目指したように自主的に開国して積極的に外国と交易する必要があったはずなのです。
しかし、それは無理な話でした。なぜなら、当時の幕府は鎖国が「祖法(そほう、先祖の代から守るべきしきたりのこと)」であると固く信じていたからです。
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このため、幕府はカトリックを禁教にするとともに信仰する諸国と国交を断絶し、同じキリスト教でもプロテスタントであり、我が国での布教をしないと約束したオランダや、同じアジアの国同士である清国や朝鮮など、限られた国との間でしか貿易を行いませんでした。
つまり、江戸幕府はカトリックを我が国に広めさせないとともに、貿易の利益を幕府で独占するために極端な「制限貿易」を行ったのです。
制限貿易にはこうした事情があったうえに、カトリックの信仰国との国交断絶という強硬な手段が可能だったのは、戦国時代の終結からまだ時間が経っておらず、全国で数十万の武士やそれと数を同じくする大量の鉄砲が存在していたという、当時の世界で最強レベルの強大な武力があったからこそでした。
しかし、我が国で平和が長年続くうちに制限貿易の意味が履(は)き違えられて、諸外国との交渉を一切行わないという「鎖国」が「祖法」であるという考えがいつの間にか常識と化してしまっていたのです。
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西洋諸国の中で唯一我が国と貿易を行っていたオランダが開国を勧告するということは、自国の貿易の独占を失うことにもつながっていました。にもかかわらず開国を勧告した理由としては、仮に我が国が自主的に開国を行った後も、オランダとの縁(えにし)を忘れずに貿易上の友好な関係を続けてほしいという思惑があったのかもしれません。
オランダによる勧告の内容として注目すべきことは、開国を勧める理由として「蒸気船」が開発されたことを挙げていることでした。蒸気船は1807年にアメリカのフルトンが発明しましたが、このことが世界の歴史を、特に我が国の運命を大きく変えてしまったのです。
その理由は我が国が「海で囲まれている島国」だからですが、なぜだかお分かりでしょうか。
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大量の船を作ろうと思えば莫大(ばくだい)な資本が必要ですし、それだけの大きなエネルギーを使ってまでして我が国を攻めようにも、失敗した場合のリスクの大きさを考えれば二の足を踏んでしまうのが当然というものでした。
かくして、我が国は元寇(げんこう)などの一部の例外を除いて外国からの侵略を受けることがなく、特に江戸時代の初期に「鎖国」となってからは、平和な状態が続いたことで、いつしか我が国における防衛力も低下していきました。
実は、蒸気船の発明はこうした「天然の防壁」を簡単に打ち破るものだったのです。なぜでしょうか。
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もし海上から大砲や鉄砲などで対岸の陸地へ向かって発砲することができるようになれば、海で囲まれている我が国にとっては、日本列島のどこからでも狙(ねら)われるということにならないでしょうか。つまり、蒸気船の発明によって、我が国は「天然の防壁」どころか「どこからでも狙われる大変危険な国」になってしまったのです。
オランダも蒸気船の脅威(きょうい)が分かっていたからこそ、別の思惑があるとは考えられるものの、我が国に対して親切にも開国を勧告してきたのですが、そんなオランダに対して、老中の阿部正弘(あべまさひろ)は世界情勢の認識の乏(とぼ)しさもあって勧告を無視してしまいました。
「鎖国は幕府の祖法であって変えることはできない」。間違った認識を言い続けることで、自身をも騙(だま)し、判断を誤る(今も行われているかもしれませんが)。こうした自家撞着(じかどうちゃく、同じ人の言動や文章が前後で食い違っていること)が、我が国最大の危機と幕府崩壊への序章になったのです。
なお、言うまでもないことですが、いわゆる「鎖国」を行ったのは徳川家康(とくがわいえやす)ではなく、よって幕府の「祖法」ではありません。
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