尚、古墳が盛んにつくられた3世紀後半から7世紀頃にかけての時代を特に古墳時代(こふんじだい)と呼び、古墳の分布・様式・副葬品(ふくそうひん)などから、前期(3世紀後半~4世紀中頃)・中期(4世紀末~5世紀)・後期(6世紀~7世紀)に分けられています。
3世紀後半の頃の古墳は前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)という独特の形をしており、木棺(もっかん)を竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)や、木棺の周りを粘土でつつんだ粘土槨(ねんどかく)におさめました。
古墳の墳丘上には埴輪(はにわ)が並べられました。埴輪は素焼(すやき)の焼き物で、前期には円筒埴輪(えんとうはにわ)や家形埴輪(いえがたはにわ)などが用いられました。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
ウチの近所には
「多摩川台古墳」があります。
古墳は都内では珍しく
東京に住んでいる者ですら
知らない人が多いです。
古墳の話楽しみにしています。
応援♪
海豚 あ、前方後円墳ーッ☆
名前が面白くってすぐ覚えちゃいました・・・。
ひまわり コメントありがとうございました。
興味深いお話ばっかりですね。
私は社会がいまいち点数とれないので
参考にさせてください!
さすらい様
黒田裕樹 「多摩川台古墳」のお話は確か先月にブログで記事にされていましたね。大和朝廷の支配が多摩地方にも及んでいた証拠になると思います。
詳しくはこれから先の講座で紹介しますね♪
海豚様
黒田裕樹 確かに「前方後円墳」という名前はインパクトがありますよね(笑)。
物事を理解するのに、名前を覚えるのはとてもよいことです。これを取っ掛かりにして、古墳時代を楽しく勉強しましょう!\(^o^)/
ひまわり様
黒田裕樹 こちらこそコメント有難うございます。
こんな講座でよければ、是非お役に立てて下さい(^_^)v
何か分かりにくいことがあれば、ご遠慮なくコメントを残して下さいね(^o^)丿
bunyan こんばんは~
古墳といえば私の地方にもあります。
たぶんご存じないかもしれませんが、船木山古墳といってかなり古いものです。
bunyan様
黒田裕樹 お久しぶりです! 温泉旅行お疲れ様でした。
残念ながら船木山古墳は存じ上げません。bunyan様のブログでいずれご紹介いただけたら有難いです。
こんばんは。
ことぶきのこめや うちの近所にも古墳あります。
枚方は遺跡も結構あるみたいですね。
前方後円墳とは、鍵穴のような形で写真が載っていますが、四角が前で、円が後ろなんですよね?
では、逆に写すのが正解なんでしょうか?
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 前方後円墳の名前は、江戸時代の学者である蒲生君平が「前半分が方形で、後半分が円である」古墳の形から名付けたのが由来となっています。
しかし、本当に方形部分が前なのかどうかは明らかではありませんし、円の部分を上にした方が「かぎ穴」みたいで見栄えが良いから、今のような見方になっているのではないでしょうか。
ちなみに、今の意見の後者(「かぎ穴」)は、私のオリジナルです(^^ゞ
3世紀後半といえば、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)が亡くなる前後の頃ですね。『魏志』倭人伝によれば、彼女は鬼道(きどう)、つまり呪術的な力で国を治めていたとされていますから、前期の古墳の特徴と話の辻褄(つじつま)が合います。
尚、3世紀後半につくられたとされる奈良県桜井市にある箸墓古墳(はしはかこふん)は、全長280mの大きな古墳であり、我が国最古級の前方後円墳ですが、卑弥呼の墓ではないかとする説もあります。




いつも有難うございます。
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ヒロキ 古墳とか懐かしいなー(*^_^*)
古墳文化の中期・後期のお話も聞きたいです!!!
小さい古墳は気が付かない?
オバrev 近くに、県内最大の前方後円墳が・・・といっても全長92mとかわいいもんですが・・・あります。
古墳の周りには、埴輪が並べられ、古墳を中心に公園になってます。
広大などの調査で412年頃作られたものだと確定できたそうです。
でもこのくらいの大きさだと、何とか古墳だ!って思うんですが、小さい古墳の場合は気が付かないことがよくあります(^^;)
ケンシロウ こんにちは。
おいら地方の最大前方後円墳は
断夫山古墳
です。
bunyan こんばんは~
古代史のロマンですねー
研究者の色々な仮説が入り混じって、卑弥呼の墓も諸説あるそうですが、黒田さんはどの説をとっていらっしゃるのでしょうか。
東海・関東にも巨大古墳が発見される可能性があるのかも知りたいですね。
ヒロキ様
黒田裕樹 古墳文化の中期・後期はこれから取り上げていきますからお楽しみに!
また、前・中・後期の文化のそれぞれの違いも分かりやすく文章にする予定です(^^♪
オバrev様
黒田裕樹 小さくても古墳は古墳ですからね(^^ゞ
ただ、古墳の大きさによって、現地を支配していた豪族の実力のおおよその見当がつくとよく言われています。
広島あたりに「鯉古墳」という名前の大きな古墳があればよいのですが(笑)。
ケンシロウ様
黒田裕樹 断夫山古墳といえば熱田神宮公園ですね。
日本武尊ゆかりの古墳だったと思います。
皆様の地元のそれぞれに、歴史をもつ古墳がたくさんありますよね。
bunyan様
黒田裕樹 現在は否定説が強いのですが、個人的には卑弥呼の墓だったほうが夢があるような気がします。卑弥呼が亡くなった直後なら、まだ邪馬台国があったのは確実ですし。
東海や関東に巨大古墳が見つかったら、大和朝廷を越えるだけの勢力があったということになりますから、それはそれで大発見になると思うのですが、どうでしょうかねぇ…。
ぴーち こんにちは!
度々ご訪問くださり、ありがとうございますm(_ _)m
歴史には、とても疎い私ですが、
黒田様の記事は、相手の目線にまで腰を落とした、とてもわかり易い解説ですね^^
お人柄が伺えます。
また、お邪魔させてくださいね^^
ランキング、応援させてください!
では、失礼致しました^^
こんにちは~
スズメちゃん 三角縁神獣鏡は黒塚古墳で発掘された頃、
たまたま寄った天理の柿の葉寿司店で
地元の人が撮った写真を見せていただきました。
スズメは明日香村によく行くので、
桜井の箸墓古墳にも行ってみようかな~?
古墳時代も中期に入った5世紀前半には、大阪府羽曳野市にある応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)や、大阪府堺市堺区にある仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)などの巨大な前方後円墳がつくられました。
尚、最近の教科書では応神天皇陵のことを「誉田御廟山古墳」(こんだごびょうやまこふん)、仁徳天皇陵のことを「大仙陵古墳」(だいせんりょうこふん)と記しています。
これらの古墳は、平野のなかに墳丘を盛り上げて、周囲に濠(ほり)をめぐらせた構造をしています。中でも仁徳天皇陵は、全長486メートルと世界最大級の大きさの陵墓(りょうぼ)として有名ですね。
では、なぜこの時期にこれだけの大きな古墳が作られたのでしょうか?




いつも有難うございます。
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スズメちゃん
以前、仁徳天皇陵の周りを歩きましたが・・・
途中で諦めました。
すっごく大きかったです。
難しい漢字
オバrev コンダゴビョウヤマ コフン?
日本史って難しい漢字が結構出てきた気がします。
特に人や制度の名前は難しいのが多かったような?
そうとうな労力が必用ですから、このころの大和朝廷の権力がそれだけ大きかったということですかね??
ヒロキ 仁徳天皇陵って鍵穴のような形してますよねー
かなり不思議な形してます(*^_^*)
でも仁徳天皇陵に仁徳天皇が埋葬されてるかは分かってないんでしたっけ??
確か宮内庁が禁止してるとかどうとかで・・・。
スズメちゃん様
黒田裕樹 長さだけで500m近くありますから、周囲を歩くだけでも大変ですよね。ジョギングにはちょうどいいかもしれませんが…。
オバrev様
黒田裕樹 確かに難しい漢字が多いです。特に古代は当て字などがある上に、読み方が現代とは全く異なりますからなおさらですよね。漢字の分かりにくさゆえに日本史を断念する生徒も多いんですよ。もったいないですよね。
確かにこれだけの古墳を作ろうと思えば相当な労力が必要であり、それが出来るということは為政者に相応の実力があったという証明でもあります。
でも、仁徳天皇の伝説の場合はそれだけではないんですよ。それは…明日の更新をお楽しみに(笑)。
ヒロキ様
黒田裕樹 仰るとおり、最近では仁徳天皇が埋葬されている説が否定される傾向にあります。教科書で「大仙陵古墳」と味気ない名前にされているのもそのせいです。
宮内庁が発掘を禁止しているのが否定説に拍車をかけていますね。残念なことです。
「かぎ穴の形」が前方後円墳の大きな特徴ですよ。
ことぶきのこめや 仁徳天皇陵が大仙古墳と呼ばれるからには、もはや天皇陵ではないというのが、ほぼ確定なんでしょうね。
せっかく世界最大級のお墓なんだから、誰が眠っているか明らかにして、世界に誇るべきだと思います。
ケンシロウ こんにちは。
古墳の大きさでも競っていたのですかね?
もし大きさを競っていたとしたら
後発が有利なわけですが
権力がなければ大きく作れないし。
何故大きな古墳を作ったのか
おいらには分かりません。
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 別のご訪問の方へのコメントにも書きましたが、学術調査は宮内庁の反対で出来ないのです。「天皇の墓」をあばく様な行為は問題があるのかもしれませんが…。
ただ、世界最大級の陵墓が我が国に自然な形で残されているという点に関しては、仰るように世界に誇るべき我が国の財産であると思います。
ケンシロウ様
黒田裕樹 巨大な古墳を作った理由としては、様々な考えがあります。
1.故人の遺徳をしのび、できるだけ立派な墓をたてる。
2.大きな墓を生前中に建てることにより、自分の力を誇示する。
秦の始皇帝の墓は2.の考えが強いようですが、我が国では主に1.の理由で建てられたのではないかと考えております。なぜかというと…明日の講座でお話します。
ある日、天皇が宮殿から人家(じんか)を眺(なが)められると、かまどから煙が立ち上っていないことに気が付かれました。食事時であれば、炊事のためにかまどに火をつけますから、煙が見られるのが普通のはずです。ということは、国民は食事も満足に出来ないほど貧しいのか、と嘆(なげ)かれた天皇は、3年間税を免除することを決意されました。
税が免除される間は、朝廷の収入がなくなるわけですから、天皇は倹約(けんやく)に励まれ、宮殿の屋根が傷(いた)んでもそのままにされていました。
やがて3年が経ち、改めて外を眺めると、人家のあちこちのかまどから煙が立ち上っていました。国民が食事を出来るようになって良かった、と天皇は満足げにその様子を見つめられました。
以上のようなエピソードから、仁徳天皇は仁愛(じんあい)に満ちた天皇として知られています。そんな偉大な支配者だったからこそ、人々は彼の崩御(ほうぎょ)を惜しんで、大きな天皇陵をつくったのかもしれませんね。




いつも有難うございます。
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ヒロキ 仁徳天皇ってそんなイイ人だったのですね(>_<)
国民の生活のためを思っているなんて、そうそういないですよね~。。
智里 黒田さん、いない間のクリックありがとうございます。
休みを思いっきり楽しんできました!!
明日から少しずつ旅のレポートしていきますね。
仁徳天皇の逸話は有名ですよね。
こんな優しい天皇がいっぱいいたら、時代は変わっていたかもしれませんよね。
海豚 仁徳天皇いい人だったんですね。
今、国語で修学旅行のために色々学んでるんですけど・・・
そこで知った、行基(お坊さん?)もいい人でした♪
ぴーち こんばんは!
仁徳天皇のお話、そんな素敵なエピソードが
あったなんて、全然知りませんでした!
今の政治家に聞かせてあげたいお話ですね~。
高速料金1000円、定額給付金などとほんの僅かな甘い汁を吸わせておいて、後でたっぷり税金を引き上げる悪政はこのお話の後に改めて考えると許し難いものを感じます。
それでは、応援させてくださいね^^
さすらい こんばんは。
なるほど、いい話です。
現在の政治家に聞かせたいですね(笑)
応援♪
えば こんばんは!
この間から楽しく読ませてもらってます♪
今回の話には感動しました。
天皇って言ったら堅いイメージがあって
人物像もなかなか掴めないですけど
この仁徳天皇は名前どうりのお方ですね!
名前通り
オバrev 仁徳天皇って、名前の通り、仁と徳のある、素晴らしい天皇だったんですね。
えめる 世界史専攻だった私です。
こんなふうに、人物の人となりも教えてくれる先生にめぐり合えていたら、
きっと日本史も好きになっていたのになァと思います。
またお勉強させていただきにきますニャね。
ヒロキ様
黒田裕樹 歴代の天皇には、為政者としての理想的な姿が垣間見えます。だからこそ、2000年以上の長きにわたって、我が国には皇室が存在されていると思われます。
智里様
黒田裕樹 お帰りなさいませ!
ご旅行はいかがでしたでしょうか?
更新を楽しみにしております!
仰るとおり、125人もいらっしゃる天皇の中にはいろんな方がおられます。この時代にこのような天皇がおられたら…という考えもありますよね。
もちろん、逆に「もしこの時代にこのような天皇がいらっしゃらなかったら…」という話も成り立ちます。
これらのことから、当時の被葬者(ひそうしゃ)に政治的・軍事的支配者としての性格が強まったと考えられます。
また中期に入ると、巨大な前方後円墳は近畿中央部ばかりでなく、筑紫(つくし=福岡)、吉備(きび=岡山)、毛野(けの=群馬)、日向(ひゅうが=宮崎)などの全国各地でも見られるようになりました。これは、巨大な地方勢力が大和朝廷と深いかかわりをもち、朝廷の支配が全国各地に及んだことを間接的に証明するものと思われます。
さて、古墳中期の被葬者、すなわち大和朝廷の支配者である大王(おおきみ)を中心とする豪族(ごうぞく)の副葬品に武具や馬具が多いと書きましたが、実はこれを間接的に証明する「文面」が現代でも遺(のこ)されているのです。
それは何だと思いますか?
この謎を解くために、当時の東アジアの情勢を振り返ってみることにします。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは^^黒田さん。
古墳についての話題ですね!
文中の中に、群馬が毛野とありますが、
上野国という呼び方は、ずっと後の時代だったのでしょうか。
それと問題のお答は、皆目見当が付きません(汗
答えが待ち遠しいです^^
それでは、応援させてください!
ぴーち様
黒田裕樹 応援有難うございます!
古代に「毛野国」と呼ばれた地域が「上毛野国」と「下毛野国」に分かれた後、奈良時代に「上野国」「下野国」と名前が変わったんです。
群馬のことを「上毛」と呼んだり、JRに「両毛線」があったりするのもその名残です。
今日の問題については、1週間近くかけてじっくりと解答しますので、お楽しみに!
こみー こんばんは。
古墳ですか~。
このころの記憶は少し残ってたかな?だったので
結構理解できました(*^_^*)
この後、というか日本史自体があまり・・・なので、
参考&学習させて頂きます!
とてもわかりやすいですし(^-^)b
「文面」・・・ですか。
・・・サッパリですね(^_^;)
答えを楽しみにしています!
ヒロキ 馬具が出てきたっていうことは馬を用いた戦争をしていたってことでしょうかね。。
うーん、、、
高句麗好太王碑文・・・ですかね^^;
これしか浮かばなかったです。。
解答が待ち遠しいです!!^^;
こみー様
黒田裕樹 コメント&お褒めのお言葉、有難うございます!
「文面」…確かに分かりにくかったでしょうか?
単なる「文書」だけではなくて、ある建造物の…おっと、ここから先は明日以降の講座で発表します…と書こうと思ったら、私と同じ名前の方が…(^^ゞ
ヒロキ様
黒田裕樹 貴殿は重要なヒントを二つも提供されておられます。
さすがですね(^o^)丿
詳しくは明日以降をお楽しみに(^^♪
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大陸の混乱状態によって、周辺の諸民族に対する中国の影響力が弱まると、それを待っていたかのように東アジアの諸地域は次々と国家形成へと進んでいきました。
朝鮮半島では、現在の中国東北部からおこった高句麗(こうくり)が南下して、313年に中国の植民地であった楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼしました。
一方、南部では馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)の3つの地方に分かれ、それぞれ小国の連合が形成されていましたが、4世紀の半ば頃には馬韓から百済(くだら)が、辰韓から新羅(しらぎ)がそれぞれおこりました。
こうして、朝鮮半島には北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅の三国が成立したのです。尚、弁韓と呼ばれた朝鮮半島南部の地域は国家統一がなされず、小国分立の状態が続きました。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
現在の中国本土でもヨーロッパのように
国がたくさんできていても
おかしくなかったですよね。
複数の民族と地域がありますが
ヨーロッパのようにならなかった歴史は
この頃からそんな土壌が
繰り返されてきたからでしょうかね。
仰るように日本が島国でなかったら。。。
と思うと、やはり歴史は面白いですね。
今日もありがとうございます。
応援♪
歴史の流れ
オバrev なるほど~、中国が南北朝時代になって朝鮮半島が手薄になったところで、高句麗、百済、新羅の三国成立になるんですね。
となるとこのころの朝鮮の資料に日本のことが書かれているわけですね。
日本と朝鮮半島は結構交流がありましたからね。
歴史はお互いに影響し合って、流れができていくんですね。
中国はこの後、隋が統一していくんでしたっけ?
えめる なんだか懐かしいですね。
百済、新羅とか、とりあえず名前だけは覚えています。
名前だけニャ。
あの頃はよかった……(遠い日を思い出しています)
ヒロキ この頃の朝鮮半島ってけっこう複雑ですよね^^;
弁韓って、伽耶ことでしたっけ??
ケンシロウ こんにちは。
今の日本が好きなおいらは
やはり島国で良かったと考えさせられます。
↑2回目の講義が決まったようですね。
頑張って下さいね。
報道ギャング ちょうど、歴史の授業で勉強してるところです
テストも近いんでそろそろ復習でも始めようかなー、とか思ったりw
漢字の読み方が独特で手こずってますw
ぴーち こんばんは!
高句麗、百済、新羅・・・
そういえば、息子の勉強を馬鹿みたいに
お付き合いしている時に、
私の方が、勉強に夢中になり、中学程度の歴史
ですが、息子よりも、私の方が得意になって
しまった事がありましたっけ^^;
それでは、応援させてくださいね^^
また、お邪魔します。
さすらい様
黒田裕樹 中国史の話になってしまいますが、紀元前221年に秦の始皇帝が大陸を統一しなければ、中国大陸は今のヨーロッパみたいに異なる言語や文字、文化を持ついくつかの国に分裂したままであっただろうといわれています。
もしそうなら朝鮮半島ももっと早くに独立できていたでしょうし、島国である我が国もどのような影響を受けていたのか…考えると興味が尽きませんね。
応援有難うございます♪
オバrev様
黒田裕樹 はい、朝鮮半島のある「文面」に我が国に関することが書かれています。
明日あたりには登場すると思いますよ(^^ゞ
歴史は一国だけがつくるものではありませんからね。人間が一人で生きていけないようなものでしょうか。
隋の統一はまだまだ先の話です。ここでは当分の間、南北朝時代が続きますよ。
一方、北方の高句麗(こうくり)も、半島南部の鉄資源や先進技術を求めて南下策を進めていました。こうして、高句麗と大和朝廷とは交戦状態となりました。
現代の中国と北朝鮮との国境付近には、6mの高さを持つ、見上げるように大きな碑(ひ)が残されています。それは高句麗の好太王碑(こうたいおうひ)です。実在した高句麗の好太王の戦績を称(たた)えた碑文(ひぶん)には、4世紀末から5世紀初めにかけての高句麗と大和朝廷との激しい戦闘の記録がつづられています。
高句麗と大和朝廷との戦いは一進一退(いっしんいったい)が続きましたが、結局大和朝廷は高句麗を滅ぼすことができませんでした。高句麗を倒せなかった一番の原因は、高句麗にはあって、大和朝廷にはないものがあったからです。
それは何だと思いますか?
※教科書によっては、任那のことを加羅(から)、あるいは加耶(かや)と書いているのもあり、同様に好太王のことを広開土王(こうかいどおう)と書いているのもありますが、この講座では上記の呼称(こしょう)で統一します。




いつも有難うございます。
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ヒロキ 高校ではただ単に大和朝廷が負けたっていったナ^^;
朝鮮半島で戦争していたから、大和朝廷は海を渡っていたわけですね。。
・・・ということは、
前回のお話にも書かせていただいた「馬」を用いていたか否かですかね??
管理人のみ閲覧できます
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ヒロキ様
黒田裕樹 教科書にはただ単に結果しか書かれていない場合が多いですからね。実際にはかなりの接戦だったんですよ。それこそ「高句麗にあって大和朝廷にないもの」がなかったら、大和朝廷が勝っていたかもしれません。
それは何か?
ヒロキ様のお考えが当たっているかどうか、明日の更新をお楽しみに!
こんばんは!
ことぶきのこめや 高句麗にあって、朝廷にないもの。。なんでしょう?
これまでにないない視点で書かれていて、非常に興味深いです!
さすらい こんばんは。
6mの高さの高句麗好太王碑!?
素晴らしい!
見てみたいです。
北朝鮮が管理しているんですか?
もう少し注目してもらいたいですね。
応援♪
栗原、やりましたね!
ぴーち こんばんは!
今日も何やら、出題形式の記事ですね^^
何でしょう・・・?
冒頭の鉄資源や先進技術に
関係することでしょうかね?
明日がまた、楽しみです^^
それでは、応援させてください!
大相撲も、近頃は色々と叩かれていますが、
取組自体は、大変見ていて面白いですよね!
アメフトよりも、あのぶつかったときの衝撃が
強いらしいですものね。迫力あります^^
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 歴史の普通の教科書や参考書は「答えが書いてある問題集」のようなものですから、単純な暗記でしかないんですよね。
私の講座では、ご覧になる皆様が少しでも歴史に興味を持って下さるように書いているつもりですので、ことぶきのこめや様のお言葉は本当に励みになります。
有難うございます!\(^o^)/
さすらい様
黒田裕樹 好太王碑はギリギリで中国領にあるんですよ。
ですから中国が管理しています。石碑なので、風化を防ぐために大きな屋根が取り付けられていますよ。
火曜日は散々な目にあいましたから、昨日くらいはお返しさせていただかないと…。いずれにせよホッとしました(^o^)丿
いつも応援、有難うございます。
ぴーち様
黒田裕樹 私のブログでは、出題形式の記事が結構ありますよ(笑)。
皆様に少しでも歴史に興味をお持ちいただくための工夫でもあります。
ぴーち様のブログにも書かせていただきましたが、実は私は大の相撲ファンでもあります(笑)。
真剣勝負の取組は、見ているとやはり迫力が違いますね。
次回以降もお待ちしております!
戦略の差
オバrev 歴史的結果には原因があり過程があります。
そこまで分かれば歴史って面白いですよね。
高句麗との差ですか。
南北朝時代を生き抜いた経験の差で、戦略的に高句麗の方が上だった?・・・そう、まるで今の日本と同じかも。個々の技術はすばらしいのに、国家的な戦略ができてない・・・カープも同じかorz
皆さんは、他人と争って負けたらどう思いますか?
悔しいですよね。負けた原因が、自分が持っていない道具や技術の差だと分かったらどうしますか?
自分も身に付けようとは思いませんか?
大和朝廷も当然騎馬技術を積極的に学ぼうとしました。実は、この当時から戦乱を逃れるために海外(主に朝鮮半島)から数多くの帰化人(きかじん)が海を渡って我が国にやって来ており、彼らから様々な技術や文化を学んだのです。
ところで、以前にこの講座で古墳時代の中期の副葬品には武具や馬具が多くなる、と書いているのを覚えていますか?
その理由として、当時の被葬者(ひそうしゃ)に政治的・軍事的支配者としての性格が強まったと考えられるのも事実ですが、もうひとつの原因として、「高句麗に勝てなかった悔しさからの出発」という側面もあるのです。
※教科書によっては、帰化人のことを渡来人(とらいじん)と書いているのもありますが、この講座では上記の呼称(こしょう)で統一します。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
なるほど、日本の騎馬軍団の始まりですか。
向こうは騎馬民族ですからその技術は凄いんでしょう。
内モンゴルに旅行した時、草原で乗馬しました。
ご存知かもしれませんが
2時間1500円くらいで広大な草原を好きに乗れ
日本とは全然違う容易さを堪能しました。
当たり前にある馬の生活を肌で感じましたよ。
歴史や文化の違いですね。
では応援♪
こんにちは
ことぶきのこめや なるほど~。
ここで古墳の副葬品につながるわけですね!
馬というのは、ある意味時代を動かす生き物ですね。
すっきりしました!
さすらい様
黒田裕樹 そうなんですよね。
時速数十?で走る騎馬軍団には、人海戦術もかないません。
でも、負けた悔しさもあって、歴史や文化の差を少しでも縮めようと乗馬技術を身につけようとした先人の努力も素晴らしいと思います。
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 すっきりして下さって何よりです。
私の講座では口癖のようになってしまいましたが(笑)、「歴史はつながっている」からこその結論なんですよね。
騎馬技術が、文字どおり我が国の発展への大きな原動力になったんです。
ぴーち こんばんは!
なるほど、「騎馬軍団」の所有の有無だったのですね^^
確かに、古墳時代の埴輪の中には、馬の形のものが出土したということは、何となく学んだ記憶があります。
現在でも日本の馬に対する研究は、世界的にみて
遅れをとっているように思いますが・・どうでしょうね^^
それでは、応援させてくださいね^^
また、お邪魔します!
ヒロキ キャーーーーーーーーー\(^o^)/
やはり馬が勝敗を左右していたんですね(*^_^*)
なるほど、帰化人が騎馬技術を伝えていたんですね!
大和朝廷側が招いたいたのかと思ってました^^;
ぴーち様
黒田裕樹 そうなんです。古墳時代中期には馬の形をした埴輪が多く出土していますが、今回の件がからんでいるのは間違いありません。
我が国の場合、急激な近代化もあって、古来からの「とねっこ」よりも、早く走ることができるサラブレッドをどんどん進化させましたから、何らかの影響が出ているかもしれませんね。
また是非お越し下さいね(^^♪
ヒロキ様
黒田裕樹 はい、正解です!\(^o^)/
馬が我が国に大きな試練を与えたんですね。そんな我が国の凄いところは、海外からの帰化人を大切に保護して「敵から学ぶ」姿勢を持っていたことでしょうね。
bunyan こんばんは~
馬といえば日本の古来からの馬は小型ですよね。
高句麗には大型の馬が生息していたんでしょうか?
もし大型だったら、たとえ日本が騎馬軍団を持っていたとしても太刀打ちできなかったかも。
最近、戦国時代に武田騎馬軍団はなかったという研究結果もあるそうなんだけど、日本の馬が大型化したのは江戸後期だという話もありますが、本当のところはどうなんでしょう。
bunyan様
黒田裕樹 我が国の馬に関する文化が広がったと考えられるのがちょうどこの時期なんですよ。馬もそれまではいなかったか、非常に数が少なかったと考えられています。
武田氏の騎馬軍団に関しては、全員が騎馬状態ではなかったのと、当時は馬が小さかった(大型化は明治以降に西洋馬と交配されるようになってからと考えられます)ので存在が疑問視されていますが、長篠の戦いでの馬防柵の存在により、警戒の対象にはなっていたと思います。
第14代の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が崩御(ほうぎょ)された後、妃(きさき)であった神功皇后(じんぐうこうごう)が、身ごもっておられるにもかかわらず朝鮮半島へ出兵し、新羅を初めとして百済、高句麗をも降伏させたという伝説が残っているのです。
おそらく神功皇后の頃には我が国は朝鮮半島への足がかりをつかんでいたのでしょう。そして5世紀に入ると、ようやく中国の歴史書から我が国に関する記載が復活します。
尚、神功皇后が帰国後に出産されたのが後の第15代の応神天皇(おうじんてんのう)であり、応神天皇の子が第16代の仁徳天皇(にんとくてんのう)です。大和朝廷が朝鮮半島に足がかりを得るだけの大きな勢力を持っていたからこそ、この当時に世界最大級の前方後円墳をつくることができたのでしょう。




いつも有難うございます。
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さすらい こんばんは。
懐妊しながらも出兵ですか。
凄い!
気合い入ってましたね。
勉強になりました。
応援♪
ケンシロウ こんにちは。
身重でありながら新羅・百済・高句麗を
降伏させなければならなかったのだろうか?
このタイミングしかなかったってことだろうな。
こんばんは
ことぶきのこめや ちょっと質問ですが、黒田先生は、大仙古墳は仁徳天皇の陵だとお考えですか?
それとも、仁徳天皇の時代に世界最大級の前方後円墳を作ることができたくらい、朝廷に力があったという意味ですか?
さすらい様
黒田裕樹 神功皇后の伝説は、女性も天皇たる夫が急死し、自らは妊娠中というハンデをものともせずに戦ったという、男女の性差のない世界を見事に表現していると考えられますね。
確かに物凄い気合ですね(^^ゞ
ケンシロウ様
黒田裕樹 日本書紀によれば、神功皇后が朝鮮半島に進撃された際には大荒れの天気で、逆にそれが幸いして常識破りの短い時間で半島に上陸できたそうです。
この伝説が、ちょうど良いタイミングで朝廷が半島へ攻め込んだことを間接的に証明していると思われますね。
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 学術的には否定説が有力視されつつありますが、私としては仁徳天皇陵という伝説には信憑性が高いと判断しております。
なぜなら、この時期は朝鮮半島へ攻め込むことができるくらい朝廷の力が強かったので、巨大な天皇陵をつくることができるだけの経済力があったと思われることと、以前に書いたように、仁徳天皇の仁愛に基づく伝説が、民衆をして進んで天皇陵を造営せしめたと考えられるからです。
ぴーち おはようございます!
神功皇后はお腹に子供が居たからこそ
大胆な行動が出来たのではないかしら・・。
既にお腹の中に一人、味方を付けて
居る訳ですしね^^
女性は身ごもると、途端に趣向や性格が
一時的に変わる人もいますがね!
凸
ヒロキ 神功皇后の伝説すごいですね(*^_^*)
確か150年間くらい中国史書から倭国の話が無いんですよね(>_<)
いったい何があったのか、ものすごく気になりますね!!
ぴーち様
黒田裕樹 なるほど、身ごもった女性は一時的に趣向や性格が変わることもあるんですか。その視点からだと、神功皇后の伝説にもうなづける要素が増えますね。
男性にはなかなか気づけない見方をご指摘下さって有難うございます!
ヒロキ様
黒田裕樹 仰ることはごもっともですが、実は「いったい何があったのか」は、今回の伝説のように、ちゃんと「古事記」や「日本書紀」に記録されているんですよ。
神功皇后の伝説は、ご指摘の「150年間くらい中国史書から我が国の話がない」時期の出来事です。
それだけに、皇后の伝説を「でっち上げ」だとする乱暴な学説が存在するのもまた事実なのです(´・ω・`)
外国の史書は信頼するのに、なぜ我が国の史書が軽視されるんでしょうか…。
『宋書』倭国伝(そうじょわこくでん)などによれば、倭王の讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が相次いで南朝の宋や斉(せい)に使者を遣(つか)わし、朝鮮半島南部への軍事指揮権(ぐんじしきけん)を認めてもらおうとしています。
つまり、我が国には中国皇帝の権威によって、朝鮮半島における政治的立場を有利にしようという思惑(おもわく)があった、ということです。
ところで、倭の五王が我が国のどの天皇にあてはまるか、ということに関しては様々な説がありますが、少なくとも済は第19代の允恭天皇(いんぎょうてんのう)、興は第20代の安康天皇(あんこうてんのう)、武は第21代の雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)だと考えられています。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
なるほど、利用できるものは
何でも使いたいものですよね。
深い話です。
応援♪
宋
オバrev このころの南朝は主に宋が支配していたということでしょうか。
広島には平清盛ゆかりの厳島神社がありますが、清盛が日宋貿易をしたときの宋とは無関係なんですかね?
さすらい様
黒田裕樹 我が国は自国の立場を有利にするために南朝に接近しましたが、南朝もまた、対立する北朝へのアピールとして我が国との外交を利用したとも考えられます。
まさに「利用できるものは何でも利用する」ですね。
オバrev様
黒田裕樹 南北朝時代の「宋」は、実は10世紀に成立した「宋」とは全く系統が異なります。
中国ではしばしばこのような状態が起きています(例えば、南北朝時代の北朝は「魏」ですが、これも三国時代の「魏」とは別系統です)。ややこしいですね。
ケンシロウ こんにちは。
恥ずかしいですが今日の内容は
知らないことばかりです。
ただ思ったのは中国の力を借りず
朝鮮を支配しとけよってこと。
質問です!!
ヒロキ 倭国が、
「中国皇帝に力を借りて朝鮮における政治的立場を有利にしようとした」っていうのは、前の話で出てきた倭国が高麗句に敗北した事が背景にあるのでしょうか?
ケンシロウ様
黒田裕樹 そうですね。仰ることはごもっともですが、いくら当時が南北朝時代で、中国が朝鮮半島に積極的にかかわれない時代といえども、陸続きである半島にはいつ攻め寄せてくるか分かりません。
それだけに「我が国の朝鮮半島へのかかわりを認めて下さい」と下手(したて)に出ることによって中国のご機嫌をとって(?)、後顧の憂いを断つということも意識した外交ではないかとも思えるのです。
いつもコメントを有難うございます!
ヒロキ様
黒田裕樹 高句麗を倒せなかったことで、朝鮮半島内では高句麗・百済・新羅の三国と我が国とかかわりが深い任那地方に分かれることになりましたから、任那を守るためにもあらゆる外交努力を惜しまなかったという側面も、背景としては十分考えられると思います。
ぴーち おはようございます!
何時の時代も、国同士の政治的駆け引きは
盛んに行われていたんですね!
先日、プーチンさんの訪日がありましたが、
北海道知事が、北方四島返還についての
意見を求めた際に、プーチンさんは無表情で
その質問に対する言及を一切しなかった事が
印象的で、ふと今、頭を過りました。
まだまだ、解決の糸口は見えないなと感じました。
と、後半、記事とは関係ないコメントで
失礼いたしましたm(__)m
それでは、応援させてくださいね!
ぴーち様
黒田裕樹 国同士の外交問題は、サジ加減ひとつで国家の命運が決まってしまいますから、まさに命がけです。
この当時は国同士で激しく勢力争いをしていましたから、現代とは比べものにならないくらい厳しい駆け引きがあっただろうと推測されますね。
プーチン氏の対応は我が国の立場からみれば噴飯ものですが、ロシアの立場からすれば「余計なことを言わない」原則を守っただけでしょう。領土関係はそれだけ深刻かつ重要な問題なんですね。
なぜなら、熊本県の江田船山古墳(えたふなやまこふん)や埼玉県の稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土(しゅつど)したそれぞれの鉄剣(てっけん)に、「獲加多支鹵大王」(わかたけるのおおきみ)と刻(きざ)まれていたからです。
雄略天皇の別名は大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、「幼武」(わかたける)の部分が一致するので間違いないと考えられています。
ところで、倭の五王が中国の南朝に使者を送ったのは事実ですが、それはあくまでも当時は大王(おおきみ)と呼ばれた我が国の天皇が、中国皇帝の権威に屈してその臣下(しんか)となるという、いわゆる朝貢関係(ちょうこうかんけい)が前提でした。
この屈辱(くつじょく)ともいえる関係を解消するには、さらなる時間の経過が必要だったのです。




いつも有難うございます。
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オバrev おぉ、いよいよ聖徳太子の出番ですね。
「日いずるところの天子、書を没するところの天子に致す。つつがなきや」
多分これじゃないですか?
ヒロキ 雄略天皇の別名って大泊瀬幼武尊なんですね!!
獲加多支鹵大王は知っていましたが・・・。
昔の人って様々な名前を持っていますよね!
ケンシロウ こんにちは。
講座まであと2週間ですね。
準備等大変でしょうが頑張って下さい。
オバrev様
黒田裕樹 聖徳太子の出番が近いのは間違いないのですが、残念ながら明日からはしばらく別の話になります…。
恐れ入りますが来月あたりまでご辛抱下さいm(_ _)m
ヒロキ様
黒田裕樹 「雄略天皇」という名前は、奈良時代に送られた「漢風諡号」(かんふうしごう)です。それまでは和名である「大泊瀬幼武尊」と呼ばれていました。古代の天皇にはこのように「和風」と「漢風」の呼び名がありますが、本講座では原則として「漢風」に統一しています。
ちなみに「獲加多支鹵大王」は、当時の天皇が大王(おおきみ)と呼ばれており、それと雄略天皇の和名の一部である「わかたける」とをあわせて「わかたけるのおおきみ」と呼んでいたのを、漢字の音に当てはめたものと考えられています。
この件については、後日もう一度講座の中で説明する予定です。
ケンシロウ様
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
講座の内容はもちろんですが、インフルエンザの影響で開催そのものが出来るかどうか微妙になってきたのが心配です。
あと2週間あるので大丈夫だとは思いますが…。
例えば、大陸の進んだ土木技術はそれまで不可能だった大規模な治水(ちすい)や灌漑(かんがい)事業を可能にし、優れた鉄製農具をつくることができる技術は、農業の生産性を大いに高めるなど、帰化人が我が国の産業や文化の発展に果たした役割は大きいものがあったのです。
また、漢字(かんじ)を我が国に伝えたのも帰化人でした。我が国にはそれまで文字の習慣がなかったのですが、漢字を使用して朝廷の様々な記録などを残すようになりました。
以前に書いた稲荷山古墳(いなりやまこふん)などから出土(しゅつど)した鉄剣(てっけん)にも、漢字の音(おん)を利用して人名(「獲加多支鹵大王=わかたけるのおおきみ」など)や地名などが刻(きざ)まれています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!いつもありがとうございます^^
古墳時代に中国の文化が我が国に
渡って来たんですね!
現代では、日本人が途上国へ出向いて
井戸掘りの技術(上総掘り?)などを伝承している
ように、やはり技術が進んでいる国から、途上の国へ
技術が伝承されていき、それが生活を豊にしていくことは、喜ばしい事ですね!
それでは、応援させてくださいね^^
また、お邪魔します★
仏教伝来
オバrev 漢字は、5世紀前半に帰化人によって伝えられたんですね。なるほど~。
でも、仏教伝来は538年まで間が空きますが、一緒に伝わらなかったのがちょっと不思議です(・A・)?
さすらい こんにちは。
色々な文化を勉強するのはいい事ですよね。
ご先祖様たちも寡黙に勉強なさってくれたので
私たちの今があるので良かったです(笑)
応援♪
bunyan 黒田さんこんばんは~
昨日夜中に帰ってきました。
また、今日からはじめますね♪
黒田さんもがんばってくださいね。
智里 てっきり漢字は、仏教伝来の時に伝わったものかと思ってました。
欽明天皇が経典を受けて、漢字の文化が皇族、貴族から始まったと思ってたんですが、その前から伝わっていたんですね。
歴史って奥が深いな~(。・ω・)(。-ω-)ウンウン
ヒロキ 帰化人たちが品部として様々な技術が伝えられていくんですね(*^_^*)
この頃の帰化人のおかげで国が発展していくなんて嬉しいですね!!
ぴーち様
黒田裕樹 そうですね。
技術を持っている国が、持っていない国を助けるのも、また持っていない国が進んで教えを請うのも立派な外交だと思います。
その行為が結果として国を豊かにして、国民のためになるのならば尚更ですね!
オバrev様
黒田裕樹 漢字の伝来は、文字を持たなかった当時の我が国では画期的なことでした。また仏教については、国家レベルで伝えられたのは6世紀ですが、それ以前に帰化人の間で私的に崇拝されていた可能性もあります。
この点については、明日の講座でも取り上げる予定です。
さすらい様
黒田裕樹 仰るとおり、我が国の先祖が黙々と異文化を勉強してくださったからこそ、現代の我々があるのだと思います。我々も同じように努力して、後世にバトンタッチしたいものですね。
bunyan様
黒田裕樹 お帰りなさいませ!
ご旅行はいかがでしたか?
これからもお互いに頑張りましょう!(^o^)丿
また、6世紀に入ると百済(くだら)から五経博士(ごきょうはかせ)が来日し、我が国に医学・易学(えきがく)・暦学(れきがく)のほか、儒教(じゅきょう)を伝えました。さらに6世紀半ばには仏教(ぶっきょう)も百済から伝えられるなど、我が国の思想や倫理、道徳といった精神的な面でも大きな影響をもたらしました。
当時の我が国は、文化の面では確かに大陸や朝鮮半島に一歩先を譲っていましたが、そんな遅れを取り戻すかのように彼らの文化を積極的に受け入れようという姿勢が目立ちました。こういった先人の努力が、やがて時が経つと我が国独自の文化が花開く原動力になったのは間違いないでしょう。
尚、仏教が我が国に公式に伝来した年については、538年とする説と、552年とする説があります。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
もう既にこの頃から、日本人気質というべき、
勤勉さや、真面目さというのがあった訳ですね。
こういう祖先様が居たお陰で、
こんな国土も小さく資源も乏しい国が、先進国として
堂々としていられるんですね^^
応援させてくださいね!
またお邪魔します♪
海豚 無事(たぶん)に帰ってまいりましたっ。
コメありがとうございました♪
下の記事についてですが、
ついにワカタケルさん(笑)が出てきましたねぇ。
さすらい こんばんは。
聖徳太子の頃ですよね?
これからお話されるかもしれませんが
十七条憲法で史記に触れる部分がありますよね。
その史記に医学、易学、暦学、気学が含まれていて
それをどう解釈したかは謎のままです。
果たして当時の担当者が理解したかどうか(笑)
ピラミッドの謎を解明するのと同じで
我々の間でもそれはぼやけてますがね。
まあ、いつ医学が伝来したかは
それほど重要ではありませんし。
実際に使える医学になったのは
ずっとずっと後のことですよね。
いえ、インフルエンザで
これだけ騒いでいる現代ですら医学のことなんて
わかってないのかもしれません(笑)
応援♪
智里 どうして仏教がこれだけ広がったんでしょうね?
それまで日本人は神道を守ってきてたのに・・・。
やはり大陸に文化に染まったのでしょうか?
それとも聖徳太子の力が強かったのかな?
ま、いまではすっかり共存した存在ですけどね。
bunyan こんばんは~
我が国独自の文化の礎になったことは間違いないと思います。
ただ遣唐使がなくなってからが本当の我が国独自の文化が花開き始めたのじゃないでしょうか。
朝鮮半島からの影響だけでなく、隋や唐の影響をかなり受けたと思うのですけど、違いますかしら?
ヒロキ 仏教伝来以前にも、司馬達等という人が私的に信仰していましたね!
でもこのときの仏教は政治方面に利用されてしまうんですよねー(>_<)
こんばんは
ことぶきのこめや 漢字を受け入れ、平仮名を発明して、独自の文化を作り上げた日本人は本当にすごいですよね!
音読みと訓読みなど、先人達の英明さには、本当に頭が下がります!
ぴーち様
黒田裕樹 自国の文化が他国より遅れていると分かると、素直に教わって少しでも追いつこうとする努力は我が国のお家芸であり、古代からのDNAなんですね。
そんな先人のたゆまぬ努力の延長線上に我々がいるんだということを常に自覚したいものです。
海豚様
黒田裕樹 お帰りなさい!\(^o^)/
楽しかったですか?
仰るとおり、雄略天皇こと「ワカタケルさん」が登場しましたよ(笑)。
初めて聞くと、結構インパクトのある名前ですよね。
これからも歴史上の人物が次々と出てきますのでお楽しみに!
さすらい様
黒田裕樹 聖徳太子は6世紀末から7世紀にかけて活躍しますのでもう少し前になりますが、仰るとおり医学は奥が深いですよね。
我々が知らないことはまだまだたくさんあるからこそ、学問もまた成り立つと思います。
応援有難うございます。
従来の巨大な前方後円墳が畿内でつくられる一方で、全国各地では小規模な円墳(えんぷん)が、山の中腹(ちゅうふく)や丘陵(きゅうりょう)の斜面などにまとまってつくられるようになりました。これらの古墳を群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。
群集墳の爆発的な増加は、大和朝廷の勢力が全国に伸びることにより、当時の国民の生活レベルが向上し、その結果として多くの有力者も古墳をつくるようになったためと考えられています。
かつては一部の権力者のためにつくられていた古墳が、時が経つにつれて一般の有力者でも造営出来るようになったことにより、やがて古墳の内部や副葬品、さらには古墳の存在そのものの意義にも大きな変革をもたらしたのです。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
古墳の発展もやはり文化だったんですね。
我々後世の人間も
それで当時の時代背景がわかるのですから
古墳は貴重ですよね。
応援♪
ヒロキ この頃に、蘇我馬子や筑紫国造磐井の古墳が出てくるんですよね(*^_^*)
農民も古墳を作れるようになるって大きな進歩ですね!!
こみー 群集墳は初耳ですね。
歴史的な物が全くダメな人間の意見ですが、
たくさん古墳が出来ると言うことは、作る方にも
かなりの負担がかかったんじゃないですか?
ひとつ作るのも大変そうですし・・・
bunyan こんばんは~
確かに6世紀になると古墳も変化してきていますね。
地方の大豪族も姿を消して、それまでの前方後円墳から円墳に変化しています。
大和朝廷の力が突出した証でしょうね。
さすらい様
黒田裕樹 古墳の調査によって、当時の人々の暮らしや文化などの様々なことが分かりますから、仰るとおり貴重な文化遺産だと思います。
明日以降は古墳時代後期の文化を具体的に考察しますので、是非ご覧下さい!
ヒロキ様
黒田裕樹 はい、その当時の古墳の話です(^^♪
農民でも古墳をつくれるということは、どんな意味があるのでしょうか?
…明日以降の講座で詳しく分析します。
こみー様
黒田裕樹 群集墳は主に高校の教科書で出てきますから、これから学習することになると思いますよ。
仰るとおり、古墳をつくる作業は大変です。だからこそ、「逆転の発想」も出てくるんですよ。
一つ作るのが大変だとすれば、何度もつくりたくはないですよね。だとすれば、何か良いアイディアはないでしょうか?
詳しくは明日の講座で解説します。
bunyan様
黒田裕樹 本文にも書きましたが、6世紀になると、前方後円墳は畿内でしか見られなくなります。
ということは、仰るとおり大和朝廷の勢力が強くなったから、他の勢力が「遠慮」してつくらなくなった、という間接的な証拠になりますね。
それともうひとつの理由は、一般の有力者も円墳をつくるようになったことで、古墳の存在意義が激変したことにあるのです。
詳しくは明日書きますね。
ぴーち こんばんは!
私も少し前に、地元の古墳を取材させていただいた記事をUPしたのですが、
古墳の大きさや、形(前方後円墳)などの種類によっても、その人の位や財力が容易に知れるものなのでしょうか・・?初歩的な質問で恐縮です^^;
それでは、また、お邪魔します^^
朝、応援は済みです!
ぴーち様
黒田裕樹 いつも応援有難うございます(^^♪
ご質問の件ですが、大きさや形でもかなり分かりますし、古墳の内部や副葬品でも結構詳しく分かりますよ。
例えば、副葬品に銅鏡などの祭祀に関するものが多ければ古墳時代の前期で、武具や馬具などが多ければ中期だと見当がつきます。
では後期の主な副葬品は何でしょうか?
明日の更新をお楽しみに!
竪穴式石室が遺体を埋葬して古墳に封じ込める意味があったのに対して、横穴式石室は、遺体を安置する玄室(げんしつ)が羨道(せんどう)によって外部につながっており、いつでも追葬(ついそう)できる仕組みになっていました。
これは、竪穴式石室がひとりの人間を埋葬するための墓の性格をもっていたのに対して、横穴式石室は、後から亡くなった者をあわせて葬(ほうむ)ることができるという、家族墓(かぞくぼ)的な性格をもっていたことをあらわしています。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
いつでも追葬できる仕組みですか。
色々と考えられたものなのですね。
今日も勉強になりました。
応援♪
オバrev 市内にある、県内最大の前方後円墳(・・・412年頃築造 全長92m 汗)は、竪穴式石室になってました。
公園中央に前方後円墳があり、登ってみると、ガラスで仕切って内部が見えるようにして石室があります。
上からのぞいて中を見るようになってましたので、多分竪穴式だったと思います。
さすらい様
黒田裕樹 有難うございます!
竪穴が横穴に変わったのは、単なるスタイルの変更ではなかったんですよね。
「一人のための墓」が「家族の墓」に変わるという大転換が、様式の変化を生み出したのかもしれません。
えめる 追葬。
現代の形式の始まりのようなものですか?
代々の墓という意識なんですね。
オバrev様
黒田裕樹 中が見える古墳ですか…。その方が色々と勉強になりますよね。
上から眺めるのであれば、ほぼ間違いなく竪穴でしょう。棺の上に土をかぶせてフタをすることにより、その人だけの墓が完成する仕組みですね。
えめる様
黒田裕樹 仰るとおりです。
横穴という形式が、古墳の意味を大きく変えました。
明日には「代々の墓」につながる様々な特徴を紹介できると思いますので、お楽しみに!
ぴーち こんばんは!
竪穴式と横穴式。。
名前だけは存じておりましたが、
その正しい意味は今まで疑問にすら
感じませんでした(^^A
いやいや、本当に目から鱗・・・です。
本当に勉強になりました★
それと私の拙いブログをリンクしていただけるんですか?
とても、光栄に存じます^^
私もリンクさせてください!!
これからも、どうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m
それでは、応援させてくださいね^^
ぴーち様
黒田裕樹 日本史に限った話ではないですが、言葉だけ教えられても、本当の意味が理解できなければ「知ってるつもり」で終わってしまいがちなんですよね。
受験対策としては(余計なことを覚えないようにするためにも)それでOKなのかもしれませんが、私としては一生の教養として身につけてほしい科目ですから、今後もできるだけ詳しく説明させていただくつもりです。
> それと私の拙いブログをリンクしていただけるんですか?
> とても、光栄に存じます^^
> 私もリンクさせてください!!
> これからも、どうぞ宜しくお願い致しますm(_ _)m
いえいえ、こちらこそ宜しくお願い致します。
ジャンルの違うもの同士、お互いに勉強できる環境を維持できればと願っております!
ヒロキ なるほど!!横穴式石室になると追葬できるようになるんですね!!
現在のように「~家の墓」みたいな感じなんですかね(^o^)
ヒロキ様
黒田裕樹 そのとおりです。現代の墓の形式のルーツは、すでに6世紀から存在していたんです。我が国の歴史の長さを改めて感じさせてくれますよね!
これらは、家族墓(かぞくぼ)的な性格をもつようになったことによって葬送儀礼(そうそうぎれい)も変化し、副葬品も、それまでの故人の権威を示すという意味から、故人の生前の思いが込められた内容に変化していったことをあらわしています。
また後期の古墳には、九州地方を中心に、古墳内部の壁や石棺(せっかん)に朱色などの顔料を用いた彩色壁画(さいしきへきが)が描かれた装飾古墳(そうしょくこふん)がみられるようになり、古墳の地域による違いがはっきりしてきました。
これらの古墳の変化が定着することにより、やがて権威の象徴としての古墳は意味をなさなくなりました。そして、7世紀半ばには墳墓の大きさが制限され、古墳文化は終焉(しゅうえん)を迎えたのでした。




いつも有難うございます。
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さすらい こんにちは。
そうなんですか。
また勉強になりました。
何でもカンでも埋葬すりゃあいい
ってもんじゃないですよね(笑)
故人の権威もなくなれば
古墳の意味合いも変わりますよね。
応援♪
こんにちは
ことぶきのこめや この狭い国土で、古墳が作り続けられたら、お墓で埋まってしまいますから、終焉してくれたよかったです(笑)
このような流れで古墳時代が変遷していったというのは、あまり意識したことがなかったので、勉強になりました。
壁画については、世界中でそうですが、紙のない時代に、なんであんなに上手に、同じような絵が描けたのかが不思議です。
ヒロキ なるほど、もうこの時点で葬送儀礼というのは今のような意味合いになってきたんですね(*^_^*)
装飾古墳というのは、高松塚古墳やキトラ古墳のことでしょうか??
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bunyan こんばんは♪
訪問&コメントありがとうございました。
私はランキングは気にならないけど、拍手の数は気になります(*^_^*)
歴史講座が近づいてきましたね。
準備に大変でしょうが頑張ってください。
こみー 古墳は最後は権威の象徴では無くなってたんですか・・・
それにしても、大きさに制限があったなんて・・・驚きです(^_^;)
さすらい様
黒田裕樹 古墳に限ったことではないですが、いつのまにか当初の意志とは全く異なる方向へ物事が進むことがありますよね。
そうなった場合、大抵は当初の役割を終えてしまうものなんです。古墳も例外ではなかった、ということですね。
今回も有難うございます♪
ことぶきのこめや様
黒田裕樹 > この狭い国土で、古墳が作り続けられたら、お墓で埋まってしまいますから、終焉してくれたよかったです(笑)
その発想はなかったです(笑)。こちらこそ勉強になりました(^^♪
> 壁画については、世界中でそうですが、紙のない時代に、なんであんなに上手に、同じような絵が描けたのかが不思議です。
確かにそうですよね。紙がない分、趣味の少ない時代ですから、平らな場所であればどこにでも書いているうちに上達したのでしょうか?
ヒロキ様
黒田裕樹 葬送儀礼の変化は、副葬品の違いで分かる訳です。故人の思い出の品を棺に入れる習慣は、現代でも同じですよね。
高松塚古墳もキトラ古墳も壁画で有名ですから、仲間に入りますね。壁画はカビやすいから保存が大変ですよね…。
bunyan様
黒田裕樹 拍手も大切ですよね。私も忘れないように押さないと…。
歴史講座ですが、実は…。明日には結論を出しますね。
日常生活では、古墳時代の前期から中期にかけては弥生土器の系統に属する赤焼きの土師器(はじき)が用いられましたが、5世紀中ごろになると、朝鮮半島から伝わった技法による、硬質で灰色の須恵器(すえき)もともに用いられるようになりました。
また、当時の男性は、筒袖(つつそで)の衣に乗馬ズボン風の袴(はかま)を着用し、髪を左右に分け、耳のところで三つ編みなどに束ねる美豆良(みずら)に結っていました。一方、女性は筒袖の衣にスカート風の裳(も)を着け、大きな髷(まげ)を結い、耳や首、腕などに装身具(そうしんぐ)を身につけていました。
これらの姿は、古墳から出土した人物埴輪(じんぶつはにわ)に表現されています。




いつも有難うございます。
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ヒロキ なるほど!!あの独特な髪形は美豆良っていうんですかね(*^_^*)
勉強になります!!
ぴーち こんばんは!
この時代から、女性は装飾品を身に付けるようになっていたんですね^^
男性が髪をみつあみしていたんですね。確かに
そういうイラストを拝見した事があります^^
現代の男性も同じようにしている姿、見てみたいですが’笑
それでは、応援です凸
店長 こんばんは。
あらあら・・
インフルエンザの影響で延期ですか・・
もうすぐでしたので、テンションを維持するのは
大変でしょうが、仕方ない・・・・・ んですかね?
いずれにせよ、がんばってください。
応援してます。 では
ヒロキ様
黒田裕樹 美豆良(みずら)は「角髪」とも書きます。中国大陸から冠が普及するまでは、貴族の髪型の定番でした。冠をかぶるようになってからは、主に少年の髪型になります。
聖徳太子像で、太子の両脇にいる子供たちが美豆良の髪型をしていますね。
ぴーち様
黒田裕樹 有難うございます(^^♪
美豆良は見た目が結構可愛らしいですから、案外今のイケメンに似合うかもしれませんね。そういえば10年ほど前に本木雅弘氏が聖徳太子を演じた際に、少年時代の太子を美豆良のカツラを付けて演じていました。
店長様
黒田裕樹 ギリギリまで開催しようかどうか迷っていたんですが、休校こそほとんどの地域で解除されたものの、終息宣言が出された訳でもなく、一週間後に再び蔓延しないという保証がない以上は、大事をとりました。残念です(>_<)
とはいえ、中止ではなくあくまで「延期」ですから、モチベーションを落とすことなく、普段のブログの更新に励むことにしますので、今後とも是非お越し下さい。
ケンシロウ こんにちは。
講座は6月に延期されたようですね。
新型インフルエンザの影響って恐ろしいですね。
さすらい こんばんは。
少しずつ我が国も
身なりの文化が出来てきたんですね。
千年後、我が国の未来人は
昭和、平成の時代の身なりを見て
どう思うんでしょうね(笑)
応援♪
ケンシロウ様
黒田裕樹 無念ですが1ヶ月延期です。
その分、時間をかけて完璧な講義が出来るようにしたいです。
…新型インフルエンザ、来月末までには収束してほしいですよね(´・ω・`)
さすらい様
黒田裕樹 埴輪のお陰で、当時の服装がわかるようになりましたね。
今から1000年前といえば平安時代。貴族の男性は束帯・衣冠で、女性は女房装束でしたが、風流さが感じられますね。
西暦3000年の我が国はどうなっているのでしょうか…。
春にその年の豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり)や、秋に一年の収穫を感謝する新嘗祭(にいなめのまつり)は特に重要な行事であり、この頃に流入した外来文化とも融合(ゆうごう)して、我が国独自の伝統文化が形成されていきました。
尚、祈年祭や新嘗祭は、皇室の重要儀式として現代においても行われています。また、新嘗祭は明治以後は大祭日となり、現在でも「勤労感謝の日」という名の国民の祝日として残っています。
当時の人々は、海や山などの自然に神が宿ると信じて自然神を祀(まつ)ったり、祖先の神を祀るための社(やしろ)をつくったりしました。また、心身の汚(けが)れをはらい、災いから免れるために清らかな水に入って体をすすぐ禊(みぞぎ)や祓(はらい)を行い、鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占(ふとまに)も行われました。
さらには、裁判において熱湯の中に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽(しんぎ)を判断するという神判(しんぱん)の盟神探湯(くかたち)も行われました。




いつも有難うございます。
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ヒロキ 祈年祭と新嘗祭は現在でも行ってるんですか!?
名前は知っていたのですが、実際に見たことないので興味あります(*^_^*)
この頃は呪術的な占いが多いですね。
ケンシロウ こんにちは。
盟神探湯(くかたち)って初めて聞きますが
こんな時代から訳の分からん宗教団体のようなことを
やっていたのですね。
ヒロキ様
黒田裕樹 祈年祭も新嘗祭も皇室の儀式なので、残念ながら私も実際に目にしたことはありません。
占いが多いのは、呪術的な力で政治を行っていた名残でしょう。政治のことを現在でも「まつりごと」といいますし。
新嘗祭は現在では11月23日に行われています。追記しましたので、また是非ご覧下さい。
ケンシロウ様
黒田裕樹 古代には科学という概念がなく、呪術的な力がすべてを支配していましたから、現代においては仰るとおり「訳の分からん宗教団体」しかやらないことをやっていたんですね。
ちなみに時代は下って、足利義教や織田信長も似たようなことをやっています。
さすらい こんばんは。
まだまだ人間的に発展途上
だったんですね。
まあ、現代でも人間なんて未完成ですが
「熱湯の中に手を入れさせ」
はキツイですね。
せめて熱湯風呂で笑わせて欲しいです(笑)
応援♪
さすらい様
黒田裕樹 「熱湯風呂」とはいいですね~(笑)
もっとも、TVでは演出だけで、実際には違うらしいですが…。
科学の力が証明されていない時代だったですから、人間の限界を超えることを平気で行っていたのかもしれませんね。
有難うございます!
くかたち・・・
h.hamauzu おはようございます。
くかたち・・・こんな字だったんですね。
学生時分より恐ろしいとは思ってましたが・・・
私は肌が弱いので、有罪確定ですw
おはようございます。
スズメちゃん 祈年祭や新嘗祭など、皇室の行事として耳にしたことがありますが、
この時代から続いていたのですね!
それが、勤労感謝の日として残っているなんて・・・
歴史を知るって、面白いですね。
残念ですね
オバrev 歴史講座の延期は残念ですね。早くこの騒動が収束してくれることを願ってます。
なるほど、新嘗祭が勤労感謝の日の元だったんですね。
この自然神を敬うというのは、縄文時代のアメニズムから続いていて、日本人のDNAとして刻まれているんじゃないかと思います。
h.hamauzu様
黒田裕樹 盟神探湯は確かに恐ろしいですよね。
肌の強弱に関係なく、ただれない人はいないと思いますが…。
あるいは勇気を試していたのかもしれませんね。
コメント有難うございます!
大和朝廷は、5世紀末から6世紀にかけて、当時は大王(おおきみ)と呼ばれた天皇を中心とする政治の仕組みをつくり上げていきました。
朝廷に従った豪族たちは、血縁集団としての同族関係をもとに構成された氏(うじ)と呼ばれる組織に編成されました。彼らは共通の祖先神である氏神(うじがみ)を祀(まつ)り、一族の長たる氏上(うじのかみ)が、氏に属する氏人(うじびと)を統率(とうそつ)しました。
朝廷では、各氏の家柄(いえがら)や能力に応じて姓(かばね)を与え、朝廷のもとに組織させました。このような政治的な身分秩序を氏姓制度(しせいせいど)といいます。
なお、皇室には氏に相当する特定の呼び名はありませんでした。これは、当時から皇族には他と区別する必要のないほどの権威があったからで、現代の皇族が名字をお持ちでないのも、この流れをくんでおられます。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんばんは!
朝廷はもうこの頃から、姓が与えられたわけですね。
皇室は確かに、○●宮様や、○●親王殿下など
呼ばれていますものね。
先走ってた質問で恐縮ですが、
一般の民(こういう言い方をするのかは存じませんが)
が苗字を与えられたの
は、明治時代からだったでしょうか。
それでは、応援させてください^^
ぴーち様
黒田裕樹 皇族が名字がお持ちでないのも、長い歴史の流れとつながっているんですよね。
> 一般の民(こういう言い方をするのかは存じませんが)が苗字を与えられたのは、明治時代からだったでしょうか。
明治になって、庶民(しょみん)が苗字を持つことを許されたのは事実ですが、それまでに「隠れ苗字」を持っていた人も結構多かったということです。
こんばんは!
瀞子(seiko) 黒田裕樹さん、こんばんは!
先日は私のブログへコメントありがとうございました^^
こちらへ来て、黒田さんの日本への、そして歴史への愛情に驚かされました!そしてさらに、以前のブログに社会人をされてから教師になられたと書かれたことにも驚きです!!
それから、歴史を学ぶにカテゴリされている記事で、歴史をただ暗記しても意味がないと言われていたこと、本当にそうだと思います。
私は、これまで母国の方々が生きてこられた軌跡を、自分の血肉にしてそして次の世代の人たちに伝えていきたいと思っているので、とても黒田さんのお言葉に共感致しました。
小まめに更新するのは大変だと存じますが、応援しておりますので頑張ってください!
ヒロキ 名前は地名や職業から由来していますよね!
朝廷の直属民である名代・子代には名前(もしくは呼び名)はついていたのでしょうか??
さすらい こんばんは。
そういえば、皇室から
黒田姓になられた方がいましたね(笑)
氏の始まりを見るのも面白いものですね。
応援♪
瀞子(seiko)様
黒田裕樹 過分のお言葉、有難うございます!
瀞子(seiko)様が仰った「これまで母国の方々が生きてこられた軌跡を、自分の血肉にしてそして次の世代の人たちに伝えていきたい」という思いが、こんな私を安定(?)していた社会人生活から、教師への転進を決意させました。
念願かなって教師となり、初めて教壇に立ったときの感動は一生ものです。
現在では一旦遠ざかっておりますが、再び挑戦できる日を目指して、自分がこれまでに勉強してきた知識や思いを、ブログに託して続けております。
毎日の更新は決して生易しいものではありませんが、瀞子(seiko)様のように温かく見守ってくださる読者がおられることに深く感謝して、これからも続けていきますので、宜しくお願いします!
ヒロキ様
黒田裕樹 > 名前は地名や職業から由来していますよね!
そのとおりです。例えば、海部(あまべ)は、漁業と航海技術で活躍したからその名がついていますね。
> 朝廷の直属民である名代・子代には名前(もしくは呼び名)はついていたのでしょうか??
王家の名(長谷部=はせべ)や、職名の名(刑部=おさかべ)がついていたようですよ。
さすらい様
黒田裕樹 はい、黒田慶樹さんの奥様ですね。
ご結婚がお決まりになった際にはずいぶん冷やかされました(苦笑)。何しろ一字違いですから。
偶然とはいえ、恐れ多いことです。
ちゃてれ おはようございますー。
カウンターが2000を突破しましたねー!!
おめでとうございます~
いつも記事に関係ない
こんなコメントばかりですみませんー。
ちゃてれ様
黒田裕樹 いえいえ、コメントのお気持ちだけで十分です(^-^)v
今後とも宜しくお願いします。
また、大伴(おおとも)や物部(もののべ)、あるいは中臣(なかとみ)のように武力など特定の能力を持った有力豪族には連(むらじ)が与えられ、筑紫(つくし)や毛野(けの)などの地方の有力豪族には君(きみ)が、それ以外の一般地方豪族には直(あたえ)が与えられました。
中央の政治は、臣や連の姓をもつ豪族から有力な者が大臣(おおおみ)や大連(おおむらじ)として選ばれ、彼らを中心として進められました。
一方、地方の豪族からは、国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)などの地位が与えられ、それぞれの地方の行政を担当しました。



お蔭様でカウンターが2000を突破しました! いつも有難うございます!
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オバrev 大化の改新ころ蘇我入鹿とか出てきてたと思うのですが・・・ウン十年前の記憶 ^^;
あと物部氏とか大伴家持とか中臣鎌足とか出てきた記憶も・・・。
豪族達は皆さん姓をもってたんですね。
ところで、氏はそれぞれ名前がついてたんですか?
中臣鎌足は何氏に属しているとかあったんでしょうか??
承 なかなか大変ですが、skypeのおかげでさびしさは感じませんw
甲子園にそんな選手が実在したんですか!?笑
ヒロキ 日本史でいつも思うのですが、
読み方が独特ですよね^^;国造もそうですが人名などww
誰がそう読んだのですかね・・・。。
さすらい こんばんは。
名前をたどっていくと面白いですよね。
歴史上、潰された一族も
残っていれば多彩な名前があったでしょうね。
2000ヒットおめでとうございます。
これからも楽しみにしています。
プロフ、きっちり載せられたのですね。
凛々しく格好いいです!
応援♪
えめる 自分の苗字のルーツをたどると、
もしかして何かいいこと(?)が分かるのでしょうか。
せ、せんせいっ。写真!公開ですね。すてきです。
オバrevさんへ
黒田裕樹 蘇我入鹿も、物部氏(物部守屋)も、大伴家持も、中臣鎌足も有名な歴史上の人物ですね。これから私の講座でもとりあげる予定です。
仰るとおり、それぞれ「○○氏」と呼ばれる一族に属しています。
中臣鎌足も、もともとは「中臣氏」の一員でした。彼が死ぬ直前に当時の天智天皇から与えられた姓の一族が、その後の我が国の歴史をになっていくことになりますね。
承さんへ
黒田裕樹 コメント有難うございます。逆境に負けずに頑張って下さいね。
甲子園の選手については、承さんのブログにコメントさせていただきましたm(_ _)m
ヒロキさんへ
黒田裕樹 読み方が独特なのは、本来我が国にあった「大和言葉(やまとことば)」に、外国から伝わった漢字の音を無理やり当てはめたからだと考えられています。
でも、その「当てはめ」から、やがて漢字の訓読みや、ひらがな・カタカナが用いられるきっかけにもなるのですから、歴史は面白いですよね。
さすらいさんへ
黒田裕樹 そうですね。長い歴史の中で埋もれてしまった一族も多いですから、名前の種類は現代よりもはるかに多かった可能性もあると思います。
> 2000ヒットおめでとうございます。
> これからも楽しみにしています
有難うございます。2000ヒットとブログ開始からちょうど2ヶ月経ったのを機に、自分のプロフを公開することにしました。これからも自分の文章に責任を持てる内容を目指しますので、宜しくお願いします。
えめるさんへ
黒田裕樹 皆さんそれそれの苗字に歴史がありますから、たどっていくと何か興味を持てることが見つかるかもしれませんね。
2000ヒットとブログ開始2ヶ月を機にプロフを公開することにしました。過分のお言葉、恐縮です(^^ゞ
一方、朝廷も直属の民である名代(なしろ)・子代(こしろ)をもち、彼らに生産物を納めさせるとともに、直轄地(ちょっかつち)である屯倉(みやけ)を各地に設けて、田部(たべ)に耕作させました。
朝廷には祭祀(さいし)や軍事などの様々な職務がありましたが、これらは伴造(とものみやつこ)と呼ばれる氏(うじ)が分担しました。
伴造に選ばれたのは、秦氏(はたし)などの帰化人(きかじん)を祖先にもつ豪族が中心であり、伴(とも)と呼ばれる世襲(せしゅう)の職業集団や、品部(しなべ、または「ともべ」)と呼ばれる職務における能力者を統率して朝廷に仕えました。
なお、部曲や名代・子代、品部などを総称して、部民(べのたみ、または「ぶみん」)といいます。




いつも有難うございます。
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オバrev このあたりから、突然漢字の読み方が難しくなるんですよ。
特に、部曲(かきべ)、屯倉(みやけ)、伴造(とものみやつこ)とかはどうやっても読めん(T_T)
オバrevさんへ
黒田裕樹 大和言葉と漢字との融合によって、現代では考えられない読み方になっていますからね。
普段はお勧めしませんが、今回に限っては暗記したほうがいいのかもしれません(´・ω・`)
さすらい こんばんは。
そうそう、思い出しました。
中学か高校で「屯倉(みやけ)」を
なかなか覚えられなくて困ったことがありました。
今でも読めませんが(笑)
応援♪
さすらいさんへ
黒田裕樹 「屯倉(みやけ)」は確かに読めませんね(^^ゞ
ちなみに「土産(みやげ)」の語源になっているらしいですが…。
こんな風に、逆のやり方で覚えた方がいいのかもしれませんね。
ケンシロウ こんにちは。
ブログ記事とは関係ありませんが
先生おいらよか若い。
ウワァァ━━━━━。゚(゚´Д`゚)゚。━━━━━ン!!!
ぴーち こんばんは!
なるほど~とこちらへお邪魔させていただいて、記事を拝見しているうちは、漢字の読み方もそうなのか~と思うのですが、
多分、一度寝て、明日の朝には、漢字にふりがななしでは絶対判らないと思います(^^A
と書いている内にも、もう忘れてます(><)
でも、本当に独特な言い回しが多いですね~。。
黒田さんの所はそういう意味で、刺激的です!
また、お勉強させてください^^
応援凸
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 そ、そんなこと言われたって、どうしたらいいのか分かんないよ…
。・ ゚・。* 。 +゚。・.。* ゚ + 。・゚・(ノД`)ウワァァァン!
思わず乗ってしまった…。
泣かないで(笑)、また是非お越し下さい。
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ぴーちさんへ
黒田裕樹 刺激的とは有難いお言葉ですが、確かに読み方難しいですよね。
というより、この3日間、言葉の羅列(られつ)だけで終わっているような気が…(^^ゞ
いずれも大和朝廷の政治制度を理解するには欠かせない用語なんですが、もう少し理解しやすい教え方があってもよさげな気もしますねぇ…(@_@;)
明日からまた新しい単元になりますが、今回学習した用語が結構出てきますので、「読みながら」ご確認下さいね!(^^♪
いつも応援有難うございます!(^o^)丿
ヒロキ 屯倉と田荘がゴッチャ混ぜになりますね^^
いつもどっちかで悩んでましたww