第25代の武烈天皇(ぶれつてんのう)が崩御(ほうぎょ)された際に、天皇には後継の男子がおらず、すわ皇統断絶かと思われました。
この危機を救ったが、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)でした。大伴金村は、第15代の応神天皇(おうじんてんのう)の五世の孫(「来孫」=らいそん、といいます)にあたる男性の男大迹王(おおどのおおきみ)を越前(現在の福井県)から招いて第26代の継体天皇(けいたいてんのう)として即位させることに成功しました。
継体天皇には即位前に二人の男子がおられましたが、それぞれ第27代の安閑天皇(あんかんてんのう)、第28代の宣化天皇(せんかてんのう)として相次いで即位され、その後は継体天皇が即位後に武烈天皇の御妹との間に生まれた第29代の欽明天皇(きんめいてんのう)が即位されました。
こうして神武天皇以来の皇統はつながりを保ち、現代にも脈々と受け継がれています。




いつも有難うございます。
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オバrev おぉ~!ということは継体天皇は初の女性天皇といういことですか。
大伴金村は当時かなりの権力者か策士だったんだろうなぁ。
女性天皇だけれど、男系天皇なんでしょうね。
さすらい こんばんは。
体制や時代を継続するのは大変ですよね。
現代の問題もまだまだ論議があると思います。
応援♪
オバrevさんへ
黒田裕樹 継体天皇は応神天皇の血を引く男性の天皇で、武烈天皇の妹と結婚することによって皇室の血の断絶を未然に防ぎました。
我が国初の女性天皇は、6世紀末に即位する男系の天皇です。
文章に誤解を招く表現があったかもしれませんので、修正しておきました。
仰るとおり、大伴金村は当時かなりの権力者だったと思われますが、そんな彼が、自分が支配者になることなく天皇の後継者を招いたという事実が、当時から皇室が特別な存在だったことを間接的に証明していますね。
さすらいさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、現代の皇室には後継たる男子が少ないことが問題になっている面があります。
こんな時こそ、今回のような先人の智慧に学んで、我が国のかけがえのない至宝をどのように守り抜くかを真剣に考える必要があると思われますね。
Re:女性天皇
オバrev 黒田先生 連コメ失礼しやす。
そうでした、最初の女性天皇は確か推古天皇だったと記憶してます。
いずれ話にでるかもしれませんが、男系とはいえ、そうとう抵抗あったでしょうね。
ぴーち こんばんは!
なるほど。。男子を必ず儲けたいと願っていても、こればかりは必ず男子が生まれるとは限らない問題ですので、特に
皇室関係は深刻な問題にまで、発展してしまいますよね。
現代でも、雅子妃殿下には、女の子のお子様一人。紀子様には、男子がお生まれになりましたけれど。。女系天皇問題は、まだ残したままですね。。
それでは、応援凸
また、お邪魔させてくださいね~^^
オバrevさんへ その2
黒田裕樹 いえいえ、連コメ大歓迎ですよ(^_^)v
仰るとおり、我が国初の女性天皇は男系の推古天皇です。
彼女の即位までの経緯には、様々な人間ドラマがありました。
月が替わる頃にはお話できると思いますので、今しばらくお待ち下さいm(_ _)m
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり非常に深刻な問題であり、悠仁親王(ひさひとしんのう)殿下のご誕生がなければもっと大変なことになっていただろうと思われます。
皇室にかかわる問題については、「女性」天皇と「女系」天皇との決定的な違いを理解したうえで慎重に対応すべきと考えておりますし、今回のような「ひ孫の孫」にあたる血縁者でも立派に継承できるという先例も軽視してはならないと思っております。
それでは、またのお越しを心よりお待ちしてます!
ヒロキ 高校の日本史では、継体天皇から細かいことを習いますよね!
継体天皇の即位にはそんな背景があったんですね!
勉強になります!!!
こんばんは
mee; 現代にも脈々と受け継がれています
のところで、ざわっとしました
すごいですねぇ
なぜ、皇位継承問題がいわれるのか少しわかった気がします
朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて、北方の高句麗(こうくり)が勢力拡大を目指して南進を繰り返し、その圧迫を受けた新羅(しらぎ)もまた、我が国が以前から勢力を伸ばしていた任那(みまな)を攻め続けました。
我が国でも新羅を攻めるために任那へ大軍を送ろうとしましたが、この動きを知った新羅は、現在の福岡県の地方行政官にあたる筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)の磐井(いわい)と結んで、527年に反乱を起こさせました。いわゆる磐井の乱のことです。鎮圧に2年もかかった大規模な反乱でした。
一方、磐井の乱が起きる以前の512年には、大伴金村(おおとものかなむら)の意見によって、任那西部の四郡を、隣国で朝廷との友好国であった百済(くだら)が支配することを認めました。
支配地が減った任那はその後次第に衰退し、ついに562年には新羅に滅ぼされてしまいました。この結果、我が国は朝鮮半島における拠点(きょてん)を失ってしまったのです。



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ケンシロウ こんにちは。
任那が滅ぼされ朝鮮半島の拠点を失ったようですが
今現在拠点が残っていれば支配は出来ているのだろうか?
核実験等問題だらけの国を支配していれば
こういった行動を防げたのかな?
大和朝廷も気が抜けんなぁ
オバrev 外から、内からと策略が渦巻いていたんですね。
大和朝廷も気がぬけませんねぇ。
磐井の乱って、高校日本史であったような、覚えてないような(^^;?
磐井さんは、何かよほどおいしいアメをちらつかされたのかな?
海豚 そういえば今日の新聞に
「卑弥呼の墓」について書いてありました・・・!!
(関係なくてすいませんっっ)
すっごい大きいんだとか。。。
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 朝鮮半島はこの後も様々な国が興亡を繰り返し、時には他の国の支配下におかれることもありました。
任那にしても、この後1500年近くも我が国が支配し続けることは、かなり難しいといわざるを得ないのかもしれません。
現代においては、独立国家には一定の主権が認められています。ただ、その国の主権が、他の国の主権を大きく損ねることがあってはならないと思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 内憂外患(ないゆうがいかん)は独立国家の宿命ですからね。
起きるのは仕方ないとしても、どうやって解決していくかが腕の見せ所でしょう。
仰るとおり、磐井の乱は高校日本史に登場します。九州地方は半島や大陸とも近く、大和朝廷とは距離的に離れていたので、支配が及びにくい一面もありました。それゆえに反乱鎮圧に2年もかかった実力者である磐井には、「朝廷何するものぞ」という気概があったのかもしれません。
そこへ新羅から誘いがあったとすれば、まさに「渡りに船」といったところでしょうか。
海豚さんへ
黒田裕樹 こんばんは!
記事と直接関係なくてもコメント歓迎ですよ(^^♪
載っていましたねぇ~。夕刊で確認しました。
箸墓古墳は全長280mの大きな前方後円墳ですが、独特の科学的な測定法で240~260年の築造であるとはじき出したみたいですね。
卑弥呼の墓だとすれば、邪馬台国は大和にあったということになり、以前に私が仮説として紹介した「邪馬台国は大和朝廷によって滅ぼされた」話との関連性も出てきますし、個人的には大いに興味があります。
卑弥呼は実在したのか、ですか…?
卑弥呼の存在は中国の歴史書にしか載っていませんが、少なくともこの当時に彼女のような呪術的な支配者がいたのは、古墳の副葬品などからまず間違いないと思われます。
ちなみに、箸墓古墳についてはこの講座でも以前に下記の記事で紹介していますよ。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-60.html
ヒロキ 大伴金村が任那西部の四郡を、百済が支配することを認めたから、五経博士が来日したと聞いたことがあるのですが、どうなのでしょうか??
そして、のちに任那が新羅に滅ぼされたから大伴金村は衰退していったのですか??
お久しぶりです
清家淳子 久しぶりに訪問したら大和朝廷になってる(*u_u)
またゆっくり見ます(/_;)/~~
お久しぶりです
清家淳子 黒田先生、お久しぶりです(^O^)/
久しぶりに訪問したら大和朝廷になってるし(*u_u)
またゆっくり見ます(/_;)/~~
ことぶきのこめや 歴史に「たら・れば」は禁物ですが、もし任那が残っていたらと考えると、ロマンを感じてしまいます(笑)
朝廷における軍事力を担当していた物部氏に対して、蘇我氏は第29代の欽明天皇(きんめいてんのう)などの外戚(がいせき)となって財産権を握り、帰化人系の民族と交流して勢力を伸ばしました。尚、外戚とは自分の娘を天皇の妃(きさき)とすることによって、天皇の血縁者となることです。
やがて我が国に仏教が伝来すると、積極的に受け入れようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部氏や中臣氏(なかとみし)との対立が激しくなりました。
蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)は、天皇の後継者問題でも対立すると、587年にはついに両者の間で戦闘が行われました。この戦闘に勝利した蘇我馬子は朝廷の実権を独占しました。その権力の強さは、馬子と対立した第32代の崇峻天皇(すしゅんてんのう)を暗殺させたほどでした。
ところで、蘇我馬子は男性です。当時は「○子」という名前が男女を問わずに用いられていました。「○子」で男性の有名な歴史上の人物が、少なくともあと1名いますね。



いつも有難うございます。
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bunyan こんにちは♪
留守中コメントありがとうございました。
今日昼過ぎに帰ってきましたが、写真の整理など、これからやるのも大変!
今日は何もせず休もうかと思ってますヽ(*’-^*)。
ぴーち こんにちは!
確かにもう一人、私には居ない?存在の名前がいますw
私も、下にいてくれたらなぁ~^^
人の名前はその時代ごとに変化しているのですね!
最近は、子がつく女の子を探す方が、大変なご時世となりましたね~^^;そのうち、男の子にまた「子」がつく時代も・・・?
それでは、応援させてくださいね!
およよのよ 小野妹子ですね。それとも聖徳太子?
~子は男子を表す字ってのは知っているんですが、(帰国子女とか)妹ってのは昔から女性を表す字だと聞いた覚えがあるのですが…どうなんでしょう。
さすらい こんにちは。
天皇を利用するのは、ずっと続きますよね。
海外でも王様や皇帝をうまく使ってきたのですから
人間の権力を求める性なんでしょうね。
応援♪
bunyanさんへ
黒田裕樹 こんにちは。
ご旅行お疲れ様でした。ゆっくり休んで下さいね。
更新をお待ちしております!(^-^)v
昔の権力闘争
オバrev 欽明天皇と蘇我馬子、でましたね。
しかし昔の権力闘争って、ヤ○○の世界と変わらないような(汗)
しかも、義理人情のない・・・orz
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こんにちは。
私にもいません、というより一人っ子です…(´3`)
確かに最近は「○子」とつく女の子が少なくなりました。名前にも流行がありますから、仕方ないのかもしれませんが…。
いかに草食系男子が増えたからといって、「○子」の男子が登場するとは…ありそうで恐いですね(^^ゞ
いつも有難うございます!(^o^)/
およよのよさんへ
黒田裕樹 小野妹子で正解です。ちなみに聖徳太子の「太子」は、皇太子という意味の称号です。
仰るとおり、「子」は本来は男女に関係なく使われます。
一方「妹」は、上下に関係なく肉親のきょうだいから、妻や恋人に至るまで女性をさしています。
それだけに、なぜ「妹子」という名前が男性に使われたのか不思議ですね…(._.)
さすらいさんへ
黒田裕樹 そうですね。ただ、我が国と他国との大きな違いは、他国では権力者が王位を奪って自らがその地位に就くのに対して、我が国の場合は、大伴金村がそうであったように、天皇になるべき血筋の方を敢えて立てています。
我が国では、代々の天皇に尊い正当性を求めているのかもしれませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 確かに「その世界」の匂いがしますね~(^_^ゞ
特に馬子の場合、天皇陛下を暗殺していますから、余計にそんな感じがします。我が国の長い歴史で、配下に暗殺された天皇陛下はこの崇峻天皇だけですし。
ただ、この後でそんなイメージを一掃してくれるような政治家が出てきたのが救いではありますね(誰のことかお分かりですね?)。
この事実は、それまで朝鮮半島で独立を保っていた高句麗(こうくり)、百済(くだら) 、新羅(しらぎ)のみならず、我が国にも大きな衝撃を与えました。
なぜなら、新たなる統一国家である隋の誕生によって、大陸の内に向けられていた巨大なエネルギーが外へ押し出されることとなり、東アジアの政治情勢が非常に微妙な状態になってしまったからです。
統一後、隋は文帝の子である煬帝(ようだい)が陸続きの高句麗に積極的に遠征して、国力を高めようとしました。一度は隋の攻撃を跳ね返した高句麗ですが、危機にあることに変わりはありません。
隋の動向によっては、朝鮮半島がすべて侵略されるばかりか、我が国にも攻め寄せる可能性が十分考えられました。そうなればまさに亡国の危機であり、我が国は非常に難しい立場に追い込まれてしまいました。
果たして、我が国にはこの危機を回避できる秘策があるのでしょうか―。
(これで古墳時代は終了です)



いつも有難うございます。
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ケンシロウ こんにちは。
小野妹子が隋に渡り聖徳太子からの手紙を煬帝へ渡した際
その内容に立腹した煬帝からの返事を
聖徳太子に見せられないと判断した小野妹子は
その手紙を無くしたと報告したと聞いたことがあります。
日本書紀によると小野妹子は
煬帝からの返事を百済人に取られたと書いてありますが
いったいどちらが正しいのでしょうか?
およよのよ 煬帝は酷い暴君だったらしいですね。
まさに日没する処の天子。
大運河を作るために民を虐げたんでしたっけ。
南船北馬という言葉は其処から来たんですよね。
北へ行くには馬が便利で南へ行くのは運河で行くのが楽って意味で。
すいません、漫画の知識です。
弥生時代や古墳時代はさっぱりでも大和時代になると結構分かってきました。
豆知識:BIGLOBE検索で聖徳太子と検索すると関連検索にハーブの香り 聖徳太子が出る。
ハーブの香りて何やねん(笑)
ヒロキ 見方によっては、
隋vs高句麗、百済 、新羅、日本
という風に見れますね^^
「敵の敵は味方」的な。。
こうした時代に遣隋使を送るのはすごいんですね(^o^)
ケンシロウさんへ
黒田裕樹 今となってはどちらが正しいか分かりませんね。
ただ、小野妹子が隋からの国書を失くすという大チョンボをしながら、大した罪に問われなかったことを考えれば、聖徳太子もある程度は「内容」を予想しており、妹子が「政治的配慮」で「失くした」ことが理解できたのではないかと思います。
およよのよさんへ
黒田裕樹 > まさに日没する処の天子。
うまい!座布団1枚!(^o^)丿
> 大運河を作るために民を虐げたんでしたっけ。
> 南船北馬という言葉は其処から来たんですよね。
> 北へ行くには馬が便利で南へ行くのは運河で行くのが楽って意味で。
南船北馬の為に煬帝は多くの民を虐げました。でも皮肉なことに、彼の「功績」によって水運が発達して南北の交流が盛んになったんですよね。歴史にはこんな結果がよくあります。
> 弥生時代や古墳時代はさっぱりでも大和時代になると結構分かってきました。
いよいよ明日から新しい時代に入りますからね。およよのよさんからの鋭いご質問を期待しております(^_^)v
> 豆知識:BIGLOBE検索で聖徳太子と検索すると関連検索にハーブの香り 聖徳太子が出る。
> ハーブの香りて何やねん(笑)
それは増○こう○けさんの「ギ○グマ○ガ日和」に出てくる聖徳太子の一コマからです。YouTubeやニコニコ動画で検索してみて下さい(およよのよさんにはおすすめしないほうがいいかも?)。
ヒロキさんへ
黒田裕樹 そうですね。「敵の敵は味方」という言葉の本当の意味を、聖徳太子が送った遣隋使から読み取ることが出来ますし、そんな彼の優れた外交感覚は、1400年前の出来事とは思えないくらい冴え渡っています。近日中にはこの講座でも紹介できると思いますので、お楽しみに!\(^o^)/
ぴーち こんばんは!
さすがに↑の皆さん、よくご存じでいらっしゃいますね^^;
すみません。関係ないんですが、増田こうすけさんの漫画、好きです(^m^)
太子の広川太一郎さん風な(もしかしてそうかも?)しゃべりがハマります・・
古墳時代の最大の難問?!
う~ん・・。分かりませんね(苦笑)
それではまた、教えていただきにお邪魔しますね^^
おやすみなさい!
さすらい こんばんは。
隋が来ましたね。
日本との交流も良いものだったと
信じたいですが。。。(笑)
応援♪
ぴーちさんへ
黒田裕樹 ブログの醍醐味のひとつに「コメント」と、それに対する「コメ返」があるのですが、毎回「どう答えればいいのかな?」と四苦八苦しております(笑)。
「ギ○グマ○ガ日和」での聖徳太子は、人格があきれるほどに破壊されており、まさに「笑う」しかないのがツボですね。私もあるブロガーさんから紹介されてハマりました(^^ゞ
ちなみに、太子の声の出演は前田剛さんという方だそうです。
明日からの講座にも是非お越し下さい!
それではお休みなさいませ(-_-)zzz
さすらいさんへ
黒田裕樹 我が国にとって、隋との交流は留学生の派遣によって実りの多いものになりました。
隋にとってはどうだったのでしょうか…。答えが出る前に滅んでしまったような感じがしますね。
いつも有難うございます♪