鹿児島の薩摩藩では、下級武士から登用された調所広郷(ずしょひろさと)が文政の頃から改革を始め、江戸・大坂・京都の三都の大商人からの多額の借金に対して250年間の無利子返済を強要して、事実上の棚上げとしました。
また、調所は大島(おおしま)・徳之島(とくのしま)・喜界島(きかいじま)からなる奄美諸島(あまみしょとう)特産の黒砂糖の専売を強化したり、事実上支配していた琉球(りゅうきゅう、現在の沖縄県)を通じて密貿易を行ったりしました。
こうした改革によって利益をあげた薩摩藩では、やがて藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)によって製鉄を行うための反射炉が築造されたり、洋式の砲術などによる軍事力の強化が行われたりしました。
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また、領内の重要な港である下関(しものせき)に越荷方(こしにかた)を置き、西廻り航路で大坂に物資を輸送する運送業者に対して、商品である越荷を抵当に入れて資金を貸し付けて利息を取ったほか、貨物船から預かった越荷を大坂の市場で高値が付いた際にその価格で売るという委託販売を行ったことで大きな利益を上げました。
一方、佐賀の肥前藩では藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ)が均田制(きんでんせい)を実施して農村の再建をはかりましたが、これは地主が所有していた小作地を小作人に分け与えることで、本百姓(ほんびゃくしょう)を増やして農村を保護しようとするものでした。
また、特産品の有田焼(ありたやき)の専売を進めて収入を増やし、その資金で大砲製造所を設けて薩摩藩と同様に洋式軍事力を強化しました。
この他、高知の土佐(とさ)藩でも「おこぜ組」と呼ばれる改革派によって支出を切りつめるなどの財政再建が行われましたが、藩政改革に成功したこれらの藩は、有力な家臣を多数抱えるとともに変動する社会の動きにも敏感に反応できたことで、幕末の動乱期に薩長土肥(さっちょうとひ)などの「雄藩(ゆうはん)」として登場することになるのです。
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さらに19世紀に入ると、一部の地主や商人などが作業場を設け、農業から離れた賃労働者である奉公人を集めて手工業(しゅこうぎょう)として生産を行う「マニュファクチュア(工場制手工業)」に進化して、天保の頃には大坂や尾張(おわり)の綿織物業や桐生(きりゅう)・足利(あしかが)など北関東の絹織物業などで見られるようになりました。
こうした社会や経済の構造の近代化に対して、農政の復興も盛んになりました。大蔵永常(おおくらながつね)は「広益国産考(こうえきこくさんこう)」や「農具便利論(のうぐべんりろん)」を著して、商品作物の栽培や農具の普及に努めました。
また、二宮尊徳(にのみやそんとく)は藩や幕府の依頼に応じて農村の復興に努めましたが、彼の手法は「報徳仕法(ほうとくしほう)」と呼ばれて庶民の尊敬を集め、我が国の歴史に長く名前を残すことになりました。この他、大原幽学(おおはらゆうがく)も独自の実践道徳である「性学(せいがく)」を講じ、世界で初めて農業協同組合を創設しています。
二宮尊徳は現代でも有効に使用できる一円札の肖像画(しょうぞうが)となっているほか、少年時代の二宮金次郎(にのみやきんじろう)が拾った薪(たきぎ)を背負ったまま本を読んで歩いた像が戦前までの全国の小学校で見られるようになり、現在も数は減ったものの残されているものが多くあります。
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さて、マニュファクチュアなどによる近代化が進められた我が国でしたが、幕末の開国によって西洋の様々な知識や技術が導入されたことによって、幕府や各藩が洋式機械工場を建設するようになりました。
例えば、水戸藩では徳川斉昭(とくがわなりあき)が幕府の命で江戸に石川島造船所をつくったほか、先述のように肥前藩や薩摩藩が反射炉を設けて大砲などを製造するようになりました。なお、石川島造船所は現在のIHI(石川島播磨重工業)のルーツとなっています。
明治時代以後、我が国は近代国家を目指して重工業を中心に力を入れるようになりますが、その流れはこれまで述べてきた江戸時代までの経済の発展などによる様々な近代化が母体となっているのです。
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