飢饉によって農村や都市部では貧窮者(ひんきゅうしゃ)があふれ返り、また追いつめられた農民や庶民らが激しい一揆(いっき)や商家に対する打ちこわしを続発させました。
このような全国的な大飢饉に対して幕府や各藩は適切な救民対策を行うことはなく、逆に商家と結託してコメを買い占めることで暴利をむさぼる行為が目立ちました。
「天下の台所」と呼ばれ、全国から様々な物資が集まるはずの大坂においても、容赦ない買い占め行為によってコメ不足となり、多くの人々が飢えに苦しみました。そんな様子を見かねた、大坂町奉行の与力(よりき)をかつて務めていた一人の男が何度も窮状(きゅうじょう)を奉行所へ訴えましたが、幕府への点数稼ぎのために積極的に江戸へコメを回していた役人が彼の献策に聞く耳を持つはずがありませんでした。
その元与力の男の名を大塩平八郎(おおしおへいはちろう)といいました。
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大塩の決断には、陽明学における知行合一(ちこうごういつ)の精神、すなわち「知っていて行わないのは知らないことと同じだ」として、実践を重視する姿勢もあったからと考えられています。
大塩は反乱に向けて綿密に計画を練りましたが、決起直前になって内通者が出てしまい、計画は奉行所にばれてしまいました。大塩は準備不足のまま反乱を強行しましたが、奉行所によって半日で鎮圧され、大塩も一度は逃走したものの、約40日後に自害しました。
天保8(1837)年に起きたこの事件は「大塩の乱(あるいは「大塩平八郎の乱」)と」呼ばれていますが、幕府の元役人が幕政を批判して反乱を起こしたという事実が、幕府のみならず各方面に大きな衝撃を与えることになりました。
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また、大塩の考えに共鳴した農民による一揆も多発するなど、不穏(ふおん)な情勢がこの後も続くことになったことから、こうした事態を重く見た幕府による綱紀粛正(こうきしゅくせい、国家の秩序やまた政治のあり方、または政治家や役人の態度を正すこと)のための改革が行われるようになりました。
しかし、困窮(こんきゅう)する庶民のためではなく、幕府の体面を保つことを何よりの目的とした改革が成功するはずもなく、遠からず破綻(はたん)する運命にあることはむしろ当然ともいえました。
ちなみに、大塩が乱を起こした当時の大坂町奉行は跡部良弼(あとべよしすけ)でしたが、実は彼は幕府の老中の実弟でした。その老中こそが、天保の改革を行った水野忠邦なのです。
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