田沼時代に発達した文化は、松平定信(まつだいらさだのぶ)の寛政(かんせい)の改革によって一旦(いったん)は冷え込みましたが、徳川家斉(とくがわいえなり)が政治の実権を握った大御所(おおごしょ)時代を中心に再び栄えました。この時代の文化については、当時の元号である文化(ぶんか)・文政(ぶんせい)から「化政(かせい)文化」と呼ばれています。
化政文化を迎える頃には、教育や出版の普及によって中央の文化が地方にまで広がるとともに、都市生活の多様化によって文化の内容が多方面に広がりました。特に、値段の高かった書籍を庶民に安価で貸し与えることを商売としていた貸本屋(かしほんや)の活動には目覚ましいものがありました。
一方、寛政の改革などによる厳しい統制を受けたことで、反発した庶民が風刺(ふうし)の効いた多くの作品を残したり、幕府政治の長期化で限界が見えつつあった幕藩(ばくはん)体制に対して新しい動きを模索(もさく)しようとする動きもあったりしました。
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山東京伝(さんとうきょうでん)は洒落本の「仕懸文庫(しかけぶんこ)」や黄表紙の「江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)」などの写実的な作品を著(あらわ)しましたが、前回(第81回)の歴史講座で紹介した寛政の改革によって処罰(しょばつ)されました。
化政時代になると、洒落本は滑稽本(こっけいぼん)や人情本(にんじょうぼん)に分かれ、それぞれ庶民の人気を得るようになりました。庶民の日常生活を生き生きと描いた滑稽本は、式亭三馬(しきていさんば)の「浮世風呂(うきよぶろ)」「浮世床(うきよどこ)」や、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」などが有名です。
なお、浮世床は髪結い床に集まる庶民の会話を通じて当時の生活を描写した作品です。また、東海道中膝栗毛はいわゆる「弥次喜多(やじきた)」の珍道中として知られており、現代においても映画化されるなど大きな影響を与えています。
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また、黄表紙の流れをくむ絵物語の長編は合巻(ごうかん)と呼ばれ、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」が有名となりましたが、これも天保の改革によって処罰されました。
一方、黄表紙のように挿絵を使用せず、文章を主体として歴史や伝説を題材にした物語である読本(よみほん)も人気を集めました。例えば、大坂の上田秋成(うえだあきなり)は田沼時代の頃に怪奇小説を集めた「雨月(うげつ)物語」を著しました。
この他、江戸の曲亭馬琴(きょくていばきん、別名を滝沢馬琴=たきざわばきん)が、文化文政から天保の頃に勧善懲悪(かんぜんちょうあく)や因果応報の思想が込められた長編の「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」を著しましたが、この作品は近代から現代においても映画やテレビドラマ、あるいは漫画やゲームの世界にまで幅広く影響を与えています。
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「菜の花や 月は東に 日は西に」のように、画家でもあった蕪村は詠(よ)んだ句がそのまま絵画の情景に使用できるような内容の句が多く、また「雀(すずめ)の子 そこのけそこのけ お馬が通る」のような動物や子供、あるいは農村の日常を詠んだ一茶の句には現代においても親近感を感じるものが多いです。なお、蕪村は「蕪村七部集(ぶそんしちぶしゅう)」、一茶は「おらが春」の作品集がそれぞれ有名です。
一方、町人の社会では世情(せじょう)を風刺したり、あるいは皮肉ったりした狂歌(きょうか)や川柳(せんりゅう)が流行しました。狂歌は短歌、川柳は俳諧をモチーフとしており、代表的な作者としては狂歌に大田南畝(おおたなんぽ、別名を蜀山人=しょくさんじん)が、川柳には名称の由来となった柄井川柳(からいせんりゅう)らがいます。
なお、狂歌の代表作としては、前回(第81回)の歴史講座で紹介した「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁(にご)りの 田沼こひしき」が知られています。また、当時の川柳を集めた作品集として「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」があり、「役人の 子は にぎにぎを よく覚え」などの作品が有名です。ちなみに「にぎにぎ」とは、賄賂(わいろ)をこっそりと手で握って受け取るという風刺の意味が込められた言葉です。
この他、和歌では僧の良寛(りょうかん)が子供との日常などの生活感情あふれる作品を残しています。
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その後、浄瑠璃は人形操(あやつ)りから分離した一中節(いっちゅうぶし)や常盤津節(ときわづぶし)・清元節(きよもとぶし)・新内節(しんないぶし)などの座敷で唄われた唄(うた)浄瑠璃が盛んになりました。
浄瑠璃に代わって18世紀後半から江戸を中心に大流行となった歌舞伎では、七代目市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)などの歌舞伎役者によって数々の名作が演じられました。
例えば、文政期には四代目鶴屋南北(つるやなんぼく)が「東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)」などの怪談物を完成させたり、幕末には河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が盗賊を主人公にした白浪物(しらなみもの)を残したりしました。この他、先述した「義経千本桜」や「仮名手本忠臣蔵」も歌舞伎として上演されています。
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寛政の頃には「ポッピンを吹く女」などの多くの美人画を描いた喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や、個性的な役者絵や相撲絵を描いた東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)らが、上半身や顔を主に描いた大首絵(おおくびえ)の作品を次々と残しました。東洲斎写楽は謎の多い人物としても有名です。
その後、錦絵は寛政の改革による規制で衰えましたが、天保の頃には風景を浮世絵的に描いた絵画が流行するようになりました。葛飾北斎(かつしかほくさい)の「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」や、歌川広重(うたがわひろしげ)の「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)」などが有名です。
なお、これらの浮世絵は開国後の19世紀後半に西洋で紹介されると、フランスで「ジャポニスム」と呼ばれ、ゴッホやモネ、ドガ、ルノアール、セザンヌなど西洋近代絵画の形成に大きな影響を与えました。ちなみにゴッホはオランダ人で、その他の画家はいずれもフランス人です。
また、錦絵や出版物あるいは地方興行によって歌舞伎が全国へ伝えられたことで、地方の村々では歌舞伎をまねた村芝居(むらしばい、または地芝居=じしばい)が、若者を中心に各地で行われるようになりました。
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円山派からは呉春(ごしゅん、別名を松村月溪=まつむらげっけい)が四条派(しじょうは)を興して「柳鷺群禽図(りゅうろぐんきんず)屏風」などの作品を残しました。
チャイナの明(みん)や清(しん)の時代に描かれた文人画(ぶんじんが、専門の画家ではない文人や学者が描いた絵のこと)は我が国でも漢学者を中心に広まり、18世紀後半には池大雅(いけのたいが)と、俳諧師でもあった与謝蕪村が「十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)」を合作しました。
その後、文人画は豊後(ぶんご、現在の大分県)の田能村竹田(たのむらちくでん)や江戸の谷文晁(たにぶんちょう)とその門人の渡辺崋山(わたなべかざん)らに受け継がれています。渡辺崋山は「蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)」で弾圧された人物としても有名ですね(詳細は後述します)。
徳川吉宗(とくがわよしむね)による漢訳洋書の輸入緩和によって蘭学(らんがく)が広まったことは、西洋画の技法を我が国にもたらすとともに、日本人による油絵の作品を生み出しました。「西洋婦人図(せいようふじんず)」を描いた平賀源内(ひらがげんない)や司馬江漢(しばこうかん)、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)らが有名です。なお、司馬江漢は銅版画(どうばんが)の製作を始めています。
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やがて全国の藩も幕府と同じように教育に力を入れるようになり、藩士の子弟を教育するために藩校(はんこう、別名を藩学=はんがく)が設立され、城下町を離れて住む藩士や庶民の教育のために、岡山藩の閑谷(しずたに)学校などの郷校(ごうこう、別名を郷学=ごうがく)が建てられました。
教育に対する情熱は民間においても同様でした。武士や学者、あるいは町人によって多くの私塾(しじゅく)が開かれ、様々な学問が講義されました。18世紀初めに大坂の町人が出資して設立された、郷校の一つである懐徳堂(かいとくどう)からは、富永仲基(とみながなかもと)や山片蟠桃(やまがたばんとう)らの町人学者が生まれています。
一般庶民の教育機関としては寺子屋(てらこや)があり、時代が下るにつれて数多く開設されていきました。村役人や僧侶(そうりょ)・神官(しんかん)・牢人(ろうにん、別名を「浪人」)や富裕な町人などが師匠として読み・書き・算盤(そろばん)などを教え、世界に引けを取らない我が国における民間の識字率(しきじりつ)の高さに貢献しました。
また18世紀初めには京都の石田梅岩(いしだばいがん)が石門心学(せきもんしんがく、または心学=しんがく)を始め、神道(しんとう)や仏教に由来する道徳や倫理を教えるとともに、商人の存在意義や商業活動における営利の正当性などの商人道を説きました。なお、石田梅岩の教えは弟子の手島堵庵(てしまとあん)やその弟子の中沢道二(なかざわどうに)らによって全国に広まりました。
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京都・伏見稲荷(ふしみいなり)の神官出身の荷田春満(かだのあずままろ)やその門人の賀茂真淵(かものまぶち)らによって始まった我が国の古代思想の追究は、真淵の門人である本居宣長(もとおりのりなが)によって大成されました。
本居宣長は当時ほとんど解読できなかった古事記(こじき)の研究に心血(しんけつ)を注ぎ、約35年の歳月を費やして「古事記伝(こじきでん)」を完成させました。宣長は古事記の研究を通じて、真心(やまとごころ)を失わずに清らかな心を持つことで古道にそった人間生活を送ることが出来ると説いています。
宣長没後の19世紀前半には、門人の平田篤胤(ひらたあつたね)が我が国古来の純粋な信仰を尊重する復古神道(ふっこしんとう)を唱え、その国粋(こくすい)かつ排外的な思想は幕末の尊王攘夷(じょうい)運動に大きな影響を与えました。
また、盲目の学者であった塙保己一(はなわほきいち)は、幕府の援助を受けて和学講談所(わがくこうだんしょ)を設立し、古書の集大成となった「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」を編集・刊行しました。
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西洋の学術や知識が、当時ヨーロッパで唯一(ゆいいつ)我が国と貿易を行っていたオランダから伝えられたこともあり、吉宗が青木昆陽(あおきこんよう)や野呂元丈(のろげんじょう)らにオランダ語を学ばせたことによって、洋学は蘭学として始まりました。
田沼時代の頃には前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって西洋医学の解剖書(かいぼうしょ)である「ターヘル=アナトミア」が翻訳(ほんやく)され、安永(あんえい)3(1774)年に「解体新書(かいたいしんしょ)」として完成しました。
蘭学はその後も大槻玄沢(おおつきげんたく)や宇田川玄随(うだがわげんずい)らによって発展し、玄沢の門人の稲村三伯(いなむらさんぱく)は蘭日辞書である「ハルマ和解(わげ)」を刊行しました。また平賀源内は物理学の研究を進めたほか、摩擦(まさつ)発電機器のエレキテルを復元しています。
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幕府の天文方(てんもんかた)の高橋至時(たかはしよしとき)が西洋の暦法を考慮した寛政暦(かんせいれき)を作成すると、彼の弟子となった伊能忠敬(いのうただたか)は、50歳を過ぎてから全国の測量を実施して「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」を作成しました。
伊能図(いのうず)とも呼ばれるこの地図は忠敬の死後の文政4(1821)年に完成しましたが、実際の地図と比べても遜色(そんしょく)のない高い精度を誇っています。
幕府は翻訳作業を円滑に行うため、高橋至時の子で同じ天文方の高橋景保(たかはしかげやす)の建議によって「蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)」を設けました。なお、蛮書和解御用は幕末に「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」と改称され、現代の東京大学の源流の一つとなっています。
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先述した天文方の高橋景保が事件に関与したとして逮捕され、後に獄死(ごくし)しました。なお、シーボルトは我が国が開国後に再来日しています。
化政期からから天保期にかけては、民間で新たな私塾が各地でつくられました。大坂では緒方洪庵(おがたこうあん)が適塾(てきじゅく、正式には適々斎塾=てきてきさいじゅく)を開き、福沢諭吉(ふくざわゆきち)・橋本左内(はしもとさない)・大村益次郎(おおむらますじろう)らの多くの人材を育てました。
この他、天保期には玉木文之進(たまきぶんのしん)が長門(ながと、現在の山口県西部)の萩(はぎ)で松下村塾(しょうかそんじゅく)を設立し、甥(おい)にあたる吉田松陰(よしだしょういん)も入門しました。
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このことから、洋学は主として医学や兵学、あるいは地理学などの実学(じつがく)としての性格を強めていきました。
幕末に海防論が叫ばれたころには、伊豆(いず、現在の静岡県など)の代官の江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん、別名を江川坦庵=えがわたんあん)が韮山(にらやま)に大砲を鋳造(ちゅうぞう)するための反射炉(はんしゃろ)を設けました。
また、開国論者の佐久間象山(さくましょうざん)は坦庵に学んで江戸で兵学を教え、先述した吉田松陰や勝海舟(かつかいしゅう)などの人材を育てています。
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18世紀中頃に八戸(はちのへ)の医者であった安藤昌益(あんどうしょうえき)が「自然真営道(しぜんしんえいどう)」を著して、すべての人間が農耕で生計を立てる「自然の世」が理想であり、農作業とは無縁の武士が支配する社会や身分社会を否定しました。
昌益の存在が世に広まったのは明治時代になってからですが、その思想は共産主義や無政府主義の考えにも関連するとして幅広い支持を受けました。
この他、海保青陵(かいほせいりょう)は「稽古談(けいこだん)」を著して武士の商業軽視を批判し、藩で専売制を行うなどの重商主義の必要性を説きました。本多利明(ほんだとしあき)は西洋諸国との貿易の必要性を「西域(せいいき)物語」で説き、前回(第81回)の歴史講座で紹介したように田沼意次(たぬまおきつぐ)が蝦夷地(えどち、現在の北海道)を調査した際には、弟子の最上徳内(もがみとくない)を推薦(すいせん)しています。
また、佐藤信淵(さとうのぶひろ)は「経済要録(けいざいようろく)」を著して、積極的な海外進出による経済の振興を主張しました。
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かくして、当初は幕府の支配に都合が良かった朱子学によって「将軍は天皇に臣従すべきである」とする尊王論が導き出されるという、何とも皮肉な現象が生まれていったのです。
18世紀後半になると、竹内式部(たけうちしきぶ)が京都で若い公家(くげ)たちに尊王論を説き、また山県大弐(やまがただいに)が「柳子新論(りゅうししんろん)」を著して江戸で尊王論を説きましたが、両者とも江戸幕府によって処罰されました。
なお、竹内式部が宝暦8(1758)年に告訴され、翌宝暦9(1759)年に幕府によって追放処分にされたのは「宝暦事件」、山県大弐が明和(めいわ)4(1767)年に死刑となったのは「明和事件」と呼ばれています。
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水戸藩では藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)によって「大日本史(だいにほんし)」の編纂(へんさん)が始められましたが、作業が進んでいくうちに、先述した「徳をもって世の中を治める王者(おうじゃ、天皇のこと)が権力に頼って支配する覇者(はしゃ、幕府のこと)にまさる」という思想につながったのです。
尊王論は後述する外国勢力の接近に対抗するために、外国人を実力行使によって排斥(はいせき)しようとする攘夷論と結びつくようになり、水戸学の世界でも藤田幽谷(ふじたゆうこく)・藤田東湖(ふじたとうこ)の父子や会沢正志斎(あいざわせいしさい)らによって尊王攘夷論が唱えられ、幕末の思想に重大な影響を与えました。
また、寛政の頃には高山彦九郎(たかやまひこくろう)が全国を旅して尊王思想を広めたり、蒲生君平(がもうくんぺい)が歴代天皇の御陵(ごりょう)を調査して「山陵志(さんりょうし)」を著したり、頼山陽(らいさんよう)が「日本外史(にほんがいし)」を著して南朝の忠臣を紹介したりしたことで、尊王思想は幕末の民間にまで広く浸透(しんとう)することになりました。
なお、蒲生君平はいわゆる「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」の名付け親でもあります。この他、先述した平田篤胤による復古神道も、全国の下級武士や豪農を中心として幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。
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寺社も人々の信仰を集め、修繕費や運営費を得るための目的も兼ねて縁日(えんにち)や富突(とみつき、いわゆる富くじのこと)が行われたり、秘仏(ひぶつ)を公開する開帳(かいちょう)が催されたりしました。
人々の生活に余裕が生まれたことで、湯治(とうじ)や物見遊山(ものみゆさん)などによる旅も盛んとなりました。中でも伊勢神宮や信濃(しなの、現在の長野県)の善光寺(ぜんこうじ)、讃岐(さぬき、現在の香川県)の金毘羅宮(こんぴらぐう)、下総(しもうさ、現在の千葉県)の成田不動などへの寺社参詣(さんけい)は信仰と結びついて定着し、特に伊勢神宮は「御蔭参(おかげまい)り」と呼ばれて周期的に大流行しました。
この他、いわゆる聖地や霊場を巡(めぐ)る西国三十三か所や四国八十八か所への巡礼(じゅんれい)も盛んとなりました。
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前夜から日の出を待って拝む日待(ひまち)や、十五夜など特定の月の出を待って拝む月待(つきまち)、あるいは十干十二支(じっかんじゅうにし)で60日に一度巡ってくる庚申(こうしん)の日に集まり、眠らずに徹夜して過ごす庚申講(こうしんこう)なども、人々の社交や娯楽として行われました。
幕末を迎える頃にはそれまでの幕藩体制の揺(ゆ)らぎが激しくなり、社会不安が増大しましたが、そんな世相(せそう)を反映するかのように民間から次々と新しい宗教が広まりました。
新たな宗教の例としては、井上正鉄(いのうえまさかね)の神道禊教(しんとうみそぎきょう)や黒住宗忠(くろずみむねただ)の黒住教、中山(なかやま)みきの天理教(てんりきょう)、川手文治郎(かわてぶんじろう)の金光教(こんこうきょう)などが挙げられ、それぞれ独自の信仰によって人々を説いて教団を組織し、後に教派神道(きょうはしんとう)と呼ばれるようになりました。
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