会議の結果、同年6月にドイツと連合国との間で講和条約が結ばれましたが、ドイツは全植民地を失ったほか、本国領土の一部を割譲(かつじょう)させられたのみならず、軍事を制限されたうえに多額の賠償金が課せられることになりました。なお、この講和条約は「ヴェルサイユ条約」と呼ばれており、また、条約に基づく新たなヨーロッパの国際秩序を「ヴェルサイユ体制」といいます。
ヴェルサイユ条約によって、我が国は山東半島におけるドイツの権益を譲り受けたほか、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得ました。なお、このときに我が国が委任統治した島々の一つに現在の「パラオ共和国」があります。
パリ講和会議は敗戦国となったドイツにとって非常に厳しい内容となりましたが、実は我が国にとっても権益など得るものが多かった一方で、国際的に苦しい立場に追い込まれることになったというもう一つの事実があり、またそうなった原因をつくったのがアメリカとチャイナ(=中華民国)でした。
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なぜなら、先述したように、ヨーロッパ本土で多くの血を流して共に戦ったアメリカと山東半島や地中海など限定的な戦闘に留まった我が国とでは、他の主要な連合国であるイギリスやフランスの感謝度が全く違ったからです。
かくして、講和会議はアメリカ・イギリス・フランスを中心に行われただけでなく、アメリカは自国の立場を利用して、会議にオブザーバーとして参加した中華民国の発言権を認めました。
会議において、中華民国はドイツの旧権益を我が国を通さずに直接返還することを申し出るなど強気な発言を繰り返し、最終的にヴェルサイユ条約の調印を拒否したほか、チャイナの国内における排日活動もアメリカの支持を得て激しくなっていきました。
また、先述した十四か条の平和原則に基づいて、国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関として1920(大正9)年に「国際連盟」が設立されましたが、連盟で行われた会議において、日米両国がまたしても激しく対立することになったのです。
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我が国が提出した撤廃案は会議に出席した16か国のうち11か国の多数の賛成を得ましたが、議長であったアメリカのウィルソン大統領が「このような重要な事項は全会一致でないと認められない」と主張して強引に否決しました。
アメリカからすれば、日本人移民の迫害ができなくなることへの危機感もありましたし、何よりも、これまでの「白人を中心とする世界秩序」や「有色人種を奴隷(どれい)扱いする植民地制度」を破壊する可能性が高い提案は、欧米列強にとって「危険思想」以外の何物でもなかったのです。
かくして我が国は、アジアやアフリカの独立諸国や植民地支配を受けていた有色人種の民族に大きな勇気を与えた一方で、欧米列強からますます警戒されるようになり、特にアメリカの日本敵視がさらに強くなってしまいました。
ちなみに、世界平和の実現に大きな期待が寄せられた国際連盟でしたが、常任理事国として日本・イギリス・フランス・イタリアが選ばれたものの、そもそもの提案国であったアメリカが上院の反対で加盟できなかったり、またロシア(=ソビエト)や敗戦国であったドイツが除外されたりするなど、運営は当初から順調ではありませんでした。
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また、これも先述しましたが、講和会議以前の1915(大正4)年に我が国がチャイナに対して行った提案を袁世凱が「二十一箇条の要求」と捏造(ねつぞう)したばかりか、要求を受けいれた5月9日を「国恥(こくち)記念日」としたり、袁世凱亡き後の北京政府が西原借款(しゃっかん)によって我が国と癒着(ゆちゃく)した格好となったりしたことも、チャイナの国民の反発を招きました。
こうした流れの中で、1919(大正8)年5月4日に北京で学生を中心に行われたデモ行進をきっかけとして、チャイナの各地で学生・商人・労働者らによる激しい反日運動が起こりました。これを「五・四(ご・し)運動」といいます。
五・四運動は反日運動であるとともに、チャイナの国内におけるナショナリズムを高めた効果があったとされていますが、実は、同じ年に同じ東アジアで広がった事件も大きな影響を与えていました。
その事件とは、当時我が国が併合していた朝鮮で起きた「三・一(さん・いち)独立運動(または三・一事件、万歳事件)」のことです。
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大正8(1919)年、アメリカのウィルソン大統領の民族自決(=各民族が自らの意志によってその帰属や政治組織あるいは政治的運命を決定し他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利のこと)に関する宣言に触発された朝鮮人によって、3月1日に京城(現在のソウル)のパゴダ公園(現在のタプッコル公園)を中心に各地で集会が行われました。
集会では「独立万歳」の声が上がり、やがて示威(しい、威力や気勢を他に示すこと。いわゆるデモのこと)行為が朝鮮全土に広がったことによって警察との衝突が起こり、最後には軍隊も出動して流血の惨事となってしまいました。
三・一独立運動は不幸な出来事でしたが、その後の裁判によって死刑を宣告された人間は一人もいませんでした。当時の朝鮮総督である斎藤実(さいとうまこと)が融和策をとったからです。斎藤総督はその後も集会や言論、あるいは出版に一定の自由を認めるなど、事件の反省を受けて朝鮮半島における統治政策を緩和しました。
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