このため、野党となった立憲同志会(後に憲政会を結成)などの反発を受けましたが、翌大正6(1917)年の衆議院総選挙で第一党となった立憲政友会が準与党的立場を維持しました。
軍閥割拠となった中国大陸における影響力の拡大を目指した寺内内閣は、袁世凱(えんせいがい)の後継となった段祺瑞(だんきずい)政権に対して先述のとおり多額の借款(しゃっかん)を行いましたが(=西原借款)、その大半が焦(こ)げ付いたり、あるいは他の軍閥(ぐんばつ)の反感を買って排日運動の活性化をもたらしたりするなどして失敗に終わりました。
大正7(1918)年、寺内内閣はアメリカの要請もあって当初は消極的だったシベリア出兵を決断しましたが、第一次世界大戦中ということでただでさえ諸物価が値上がりしている中において、大規模な出兵を当て込んだ米の投機的な買い占めや売り惜しみが横行したことにより、米価は天井知らずの高騰(こうとう)を続けました。
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米騒動のうち、京都や神戸などで起きた暴動が大規模になったことで、政府は鎮圧に軍隊を出さざるを得なくなったり、騒動の余波を受けて兵庫県で行う予定だった第4回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)が中止になったりしました。
寺内内閣は米を安く売るなどして事態の鎮静化をはかりましたが、首相自身の体調悪化もあり、騒動の責任を取るかたちで同年9月に総辞職しました。
なお、寺内自身が当時流行だったビリケン人形に似ていたことや、超然内閣で非立憲(ひりっけん)主義だったことに引っ掛けるかたちで、寺内内閣や寺内本人が、当時は「ビリケン内閣」「ビリケン宰相(さいしょう)」と呼ばれていました。
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指名を受けた原は、陸・海軍大臣と外務大臣以外のすべての閣僚を政友会員で固めるなど、我が国初めての本格的な政党内閣を組織しました。また原自身が歴代の首相と異なり、爵位(しゃくい)を持つ華族でもなければ、藩閥出身者でもない平民であったため、当時の国民から「平民宰相」と呼ばれて歓迎されました。
原内閣は様々な政策を行いましたが、政党の影響力を強めるのに特に効果的だったのは、大正10(1921)年に郡制を廃止したことでした。当時の郡は単なる行政の区分単位ではなく、郡長や郡役所・郡会が存在していましたが、郡長が政府の内務官僚であったため、藩閥政府の影響力が郡自体にまで及んでいたのです。
また、原は経済発展のために鉄道を積極的に拡張しましたが、なかでも地方への鉄道の敷設(ふせつ)に重点を置いたことによって、郡制の廃止とともに政党の影響力を地方にまで幅広く拡大させることに成功しましたが、こうした卓越した政治力が原内閣の大きな強みでもありました。
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しかし、憲政会などの野党が主張した納税による制限を設けない普通選挙法案に関しては「時期尚早(しょうそう)」と拒否し、衆議院を解散しました。
原が普通選挙を拒否した理由としては、野党側からの要求という政争問題もありましたが、大正9(1920)年に起きた普通選挙を要求した数万人の大示威行動(=デモンストレーションのこと)の中心者に社会主義者が含まれていたことで、普通選挙の実施が社会主義者や共産主義者らによる階級闘争に利用されることを警戒したという説があります。
選挙において、原内閣は折からの「大戦景気」を背景として、先述した鉄道拡張計画や高等学校の増設といったいわゆる積極政策を掲げて圧勝し、立憲政友会は衆議院で絶対多数を得ました。
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また、この頃までに立憲政友会に関係した汚職事件が続発したことで、野党や国民の間で原内閣に対する反発が強まるとともに、腐敗をもたらした政党政治への不信感も高まりました。
大正10(1921)年11月、原敬は関西での遊説(ゆうぜい)のために東京駅に到着した直後に一青年によって刺殺されてしまいました。
高い政治力を誇っていた原内閣が突然崩壊した影響は大きく、後継として高橋是清(たかはしこれきよ)が首相に選ばれたものの短命に終わり、以後しばらくの間は非政党内閣が続くことになるのです。
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