せっかく将軍になったというのに、長いあいだ政治の実権を持てなかった家斉でしたが、将軍にとってもう一つの重要な責務である「子孫を残す」ための時間には余裕があったことから、家斉は死去するまでに50人以上の子をもうけました。
やがて、文化(ぶんか)14(1817)年に松平信明が死去した頃から自分の思いどおりの政治を行えるようになった家斉は、水野忠成(みずのただあきら)を老中にして質の落とした貨幣を大量に流通させ、大奥の経費などを増大させました。
貨幣の質を落としたことで物価は上昇しましたが、同時に経済の活発化をもたらし、全体の金回りが良くなったことで好景気となり、後に「化政(かせい)文化」と呼ばれた華やかな文化が生まれることになりました。
天保8(1837)年、家斉は将軍の地位を子の徳川家慶(とくがわいえよし)に譲りましたが、その後も大御所として政治の実権を握り続けました。家斉が活躍した時代は、別名を「大御所時代」あるいは「大御所政治」と呼ばれています。
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また、江戸近辺の関東の農村は、もともと所領が複雑に入り組んでおり、無宿人や博徒(ばくと)がはびこって治安が悪化しました。このため、家斉は文化2(1805)年に関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく、または「でやく」)を新設して、江戸周辺の警察機能を強化しました。
さらに文政(ぶんせい)10(1827)年には、幕府の直轄地や私領あるいは寺社領を問わずに数十か所の村々を組み合わせた寄場(よせば)組合を編成させて、農村の秩序を維持するとともに地域の治安や風俗への対策を行いました。
なお、関東取締出役は関東の八つの国、すなわち八州(はっしゅう)をくまなく巡察したことから別名を「八州廻(まわ)り」とも呼ばれており、その活躍ぶりが現代においても時代小説の題材としてよく取り上げられています。
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改革の多くは農村の復興を主な目的として、新田を開発して年貢収入の増加を図ったり、地方の特産物の生産を奨励して藩の専売制としたりしました。また、各地で藩校を創設して、新たな人材を積極的に育成しました。
改革に成功した各藩主は名君として評判を集めることになりました。肥後(ひご、現在の熊本県)の細川重賢(ほそかわしげたか)や、秋田の佐竹義和(さたけよしまさ)、あるいは米沢(よねざわ)の上杉治憲(うえすぎはるのり、別名を鷹山=ようざん)らの名前を挙げることが出来ます。
特に上杉治憲は、破綻寸前であった米沢藩の財政を立て直したことでその名が広く知られており、藩主の座を後継者に譲った際の伝国(でんこく)の辞や、その際に贈ったとされる「生(な)せば生(な)る 成(な)さねば生(な)らぬ 何事(なにごと)も 生(な)らぬは人の 生(な)さぬ生(なり)けり」という歌が有名です。
なお、治憲の歌は「何事もやればできるし、やらなければ何も始まらない。何もできないのは自分がやらないからである」という意味です。必死になってやれば出来ないことは何もない、ということですね。
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