意次が実質的に政治の実権を握った十数年間を田沼時代と呼びますが、田沼意次の代名詞として今も語り継がれている言葉に「賄賂(わいろ)政治」があります。賄賂といえば、今では立派な犯罪行為であり、政治家が逮捕されることも珍しくありませんが、現代と同じ目で江戸時代の賄賂を見るということは、厳密に言えば正しくはありません。
実は、当時の江戸幕府で賄賂をもらうことは「むしろ当然」という感覚がありました。なぜなら、賄賂を受け取れば、それだけ賄賂を贈ってくる側の諸大名や商人の勢力を削(そ)ぐことができるからです。従って、幕府の権力を保つためという口実のもとに、意次以外の幕閣も積極的に賄賂をもらっていたのが現実の姿でした。
加えて、そもそも有力な政治家に対して金品を贈ることは、現代の法律で認められた「政治献金」も含めて、昔も今もある意味当然の感覚ですし、当時の幕閣の中で意次に一番実力があると誰しもが思ったからこそ、彼に賄賂を贈っていたとも考えられます。ちなみに、清廉潔白(せいれんけっぱく、心が清くて私欲がなく、後ろ暗いところのないこと)で知られる松平定信(まつだいらさだのぶ)も、幕閣入りを目指して意次にしきりに賄賂を贈っていたのは有名な話です。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
重農主義ではもはや幕府政治が機能しないということを悟った意次は、やがて政治の実権を握ると現実的な重商主義に政治の姿勢を切り替えるとともに、開明的な政策を次々と実行していったのです。
意次がまず行ったのは一年間の予算の編成でした。現代では当たり前の予算制度ですが、江戸幕府においては、それまでは必要な際に幕府の金蔵(かねぐら)から金銀を引き出していたのです。このようないわゆる「ドンブリ勘定」を続けていては、いつまで経っても経費節減ができません。そこで、意次の時代になって初めて予算制度が成立したのですが、費用の割合はどうだったのでしょうか。
意次が自己の保身を図ろうとすれば、当然将軍家や大奥の費用を多めに計上すると思いますよね。ところが実際は全く逆であって、年を経るごとに減らされていきました。その一方で、町奉行などの民政に関する費用は据(す)え置かれていますから、結果としてかなりの経費削減に成功していることになります。
本当に幕府のためになる政治を目指すのであれば、将軍家や大奥のご機嫌を取ることなく思い切った手段を実行する。意次の「政治家」としての優秀さがうかがえる政策の一つですね。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
先述のとおり、江戸幕府が公的な学問として採用した朱子学は儒教に由来していました。そして、その儒教でもっとも嫌われているのが、生産性が全くないうえに「100円の価値しかないものを120円で売る」という行為自体が「卑しい」と見なされ、道徳的に認められていなかった「商行為」でした。
幕府の政策において、商業は「悪」とみなされているといっても過言ではなく、商人がどれだけ利益を上げても、彼らから所得税や法人税を集めるという発想自体がなかったのですが、意次は商人から直接税を集めるのではなく、彼らが扱う商品に税をかけることによって幕府の収入を積極的に増やそうと考えました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
こうした発想の転換に対して、商人たちは「独占的に流通ルートを認めてくれるのならば」と条件付きで税を支払うことに応じました。かくして、幕府と商人たちとの思惑が一致したことによって、営業の独占権を与えられた「株仲間(かぶなかま)」が幕府の幅広い公認を受けることになりました。
株仲間が扱った商品は油や紙にロウソク、綿などの日用品や、銅や鉄などの金属が中心であり、江戸では十組問屋(とくみどんや)、大坂(現在の大阪)では二十四組問屋(にじゅうよくみどんや)が結成されました。
彼らから集められた運上(うんじょう)や冥加(みょうが)によって幕府財政も潤い、商業の繁栄が経済規模を全国的に拡大させるとともに、景気を上向かせる要素にもなりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
東日本では小判などの金貨が中心の「金遣(きんづか)い」であり、両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)といった単位で通用していたのに対して、西日本では銀貨が中心の「銀遣い」で、しかも銀を貫(かん)や匁(もんめ)といった重さの単位で量って通用させる方法を採用していました。
このため、東西で取引を行おうと思えば両替をしなければならず、また金と銀との相場が必ずしも一定しなかった(これを「変動相場制」といいます)ために、金銀交換の制約になっていました。
そこで、意次は明和2(1765)年に明和五匁銀(めいわごもんめぎん)をつくり、実際の質や量に関係なく5匁の銀として通用させ、明和五匁銀を12枚、つまり60匁で金1両と交換できることとして、金と銀とを初めて一本化させましたが、残念ながらあまり流通せずに終わりました。
しかし、あきらめなかった意次は明和9(1772)年に南鐐弐朱銀(なんりょうにしゅぎん)をつくり、朱という「金の単位をもつ銀貨」を流通させることに成功しました。南鐐弐朱銀8枚が金1両と同じ価値となり、我が国での通貨の一本化がさらに進められることになったのです。なお、南鐐とは「上質の銀」という意味です。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
干拓事業の主な目的は新たな農地の開発でしたが、付近を流れる利根川(とねがわ)からの水路を開削(かいさく)して、江戸への物資輸送の近道を造ることも大きな目標でした。この事業が完成すれば江戸と北方とを結ぶ船の航路の大幅な短縮が見込まれ、商品流通の活性化が期待されていましたが、無念にも天明(てんめい)6(1786)年に起きた大洪水によって、干拓は失敗に終わってしまいました。
一方、意次は長崎における貿易にも力をいれました。それまで縮小気味だった貿易の規模を拡大し、金銀を積極的に輸入するという、いわゆる外貨の獲得を目指したのです。しかし、輸入の量を増やそうと思えば、それに見合うだけの輸出量を確保しなければいけません。
そこで意次は、輸出品として国内で産出量が増えていた銅や、海産物としてイリコ(ナマコの腸を取り出して煮た後に乾燥させたもの)やホシアワビ(アワビの身を取り出して煮た後に乾燥させたもの)、フカノヒレ(サメのヒレを乾燥させたもの)といった「俵物(たわらもの)」を使用しました。外貨の獲得のために特産物の増産をはかることも、重商主義による一つの成果といえます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
意次は工藤平助の意見を採用して、それまで松前(まつまえ)藩に経営を任せていた蝦夷地の直轄を計画しました。天明5(1785)年には最上徳内(もがみとくない)らを蝦夷地に派遣して調査をさせ、その結果、当時の民間商人が蝦夷地のアイヌを通じてロシアと交易していたのを知ると、意次はこれらの交易も幕府の直轄にしようと考えました。
また、アイヌの自立を目指した意次は農作業を教えようとまで計画しました。これは、アイヌの生活を安定化させると、藩の財政を支える鮭(さけ)や昆布(こんぶ)、毛皮などをとって来なくなるからという、松前藩の身勝手な理由で農民化を禁止していたのとは全く正反対の政策でした。
意次の蝦夷地に関する政策は実に開明的であり、またロシアとの交易も視野に入れていたという事実は、我が国の自主的な開国をうながしたことで、吉宗によってまかれたタネが意次の政策で芽を出して成長し、大きな花を咲かせる可能性を期待させました。
なお、田沼時代の宝暦(ほうれき)8(1758)年に、幕府が天皇側近としてお仕えする若手の公家(くげ)たちを排除するという「宝暦事件」が起きました(詳細は次回=第82回の講座で紹介します)。また、後桃園(ごももぞの)天皇が安永(あんえい)8(1779)年に22歳の若さで崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されると、閑院宮家(かんいんのみやけ)から迎えられた光格(こうかく)天皇が即位されました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、西洋医学の解剖書を訳した「解体新書(かいたいしんしょ)」が前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)らによって完成されたのも安永3(1774)年の田沼時代の頃ですし、エレキテルを復元するなど物理学の研究を進めた平賀源内(ひらがげんない)や、江戸時代の俳諧(はいかい)の巨匠の一人であり、画家でもあった与謝蕪村(よさぶそん)もこの頃の人物です。
これらのように、画期的かつ斬新な政治を行ったことで経済や文化を発展させ、幕府財政の好転をもたらした意次でしたが、政策の展開を苦々しい思いで見ている人物も少なくありませんでした。
彼らは、商人の力を借りることは恥であるとする「儒教と商行為」の呪縛から逃れられない人々や、元々は紀州藩の足軽に過ぎなかった家の男が老中まで出世しやがるとは何事だ、この「成り上がり者」めが、と意次を嫉妬(しっと)の炎で見つめていた旧来の身分の高い人々でした。
また、これとは別に、田沼時代の政権末期の頃までに意次は庶民から大きな反発を受けていました。なぜそんなことになったのでしょうか。「賄賂の横行で政治が腐敗したからだ」と思いがちですが、実は、意次個人にその責任を負わせるにはあまりにも酷(こく)な「自然現象」が本当の理由だったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
この飢饉は当時の元号から天明の大飢饉と呼ばれ、噴火以前の天明2(1782)年から天明8(1788)年まで長く続きました。なお、浅間山と同じ年の1783年にはアイスランドのラキ火山が同じように噴火しており、天明の大飢饉の理由の一つに数えられるとともに、北半球全体が冷害になったことで、1789年のフランス革命の遠因にまでなったと考えられています。
天明の大飢饉によって東北地方を中心におびただしい数の餓死者が出てしまったほか、飢饉によって年貢が払えない農民による一揆や、都市部での米の売り惜しみに対する打ちこわしが多発しました。
そして、当時は「天災が起きるのは政治を行っている人間のせいである」という考えが信じられていたので、これらの責任の一切を意次が背負わなければならなかったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
意次の悲劇はさらに続き、後ろ盾(だて)となっていた将軍家治が天明6(1786)年に死去すると、政治に対する非難が殺到していた意次は老中を辞めさせられ、失意のうちに天明8(1788)年に亡くなりました。
そして、15歳で11代将軍となった徳川家斉を補佐するかたちで、意次にかわって天明7(1787)年に老中となったのが松平定信でした。定信は、元々は御三卿の田安家の次男であり、吉宗の孫にあたることから将軍の後継者となる可能性もあったのですが、複雑な事情の末に白河(しらかわ)藩の松平家の養子となりました。
定信は、自分が他家の養子となって将軍後継の地位を失ったのは当時の権力者であった意次のせいであると邪推(じゃすい、悪いほうに推測すること)し、個人的に深く恨んでいました。そのこともあったからなのか、定信は自らが政治の実権を握ると、意次が幕府や我が国のために続けてきた様々な政策をことごとく打ち切りにしてしまったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。