徳川家にとって、まさに悪夢のように受けいれ難い現実でしたが、将来においてこういう事態を予測していた家康は、血の「セーフティーネット」ともいうべき制度を設けていました。家康の子によって創設された、水戸・尾張・紀州のいわゆる御三家のことです。
家継亡き後、次の将軍を御三家のうちどこから迎えるかについて様々な意見がありましたが、最終的に血統の近さなどから紀州藩主の徳川吉宗(とくがわよしむね)が選ばれ、8代将軍に就任しました。
吉宗は30年近くの将軍在職期間を通じて、家康の時代を理想とした様々な幕政の改革を行いました。これを享保(きょうほう)の改革といいます。
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吉宗がまず取り組んだのは徹底した倹約令(けんやくれい)でした。収入が現状ではそれほど期待できない以上は、支出を抑えない限りは赤字が増える一方です。吉宗は、普段の着物は粗末(そまつ)な木綿(もめん)を使用し、食事も朝夕の二回のみで、献立も「一汁三菜」の質素なものにするなど、紀州藩主の頃と同様に自らが先頭に立って倹約に励みました。
倹約令によって支出を抑え始めた吉宗が次に取り組んだのは、幕府財政の増収でした。享保7(1722)年、吉宗は諸大名に対して参勤交代の江戸在府の期間を従来の一年から半年に短縮する代わりに、一定の米の量を幕府に献上させました。これを上(あ)げ米(まい)といいます。物価が高い江戸での生活を短くすることで、浮いた諸大名の経費を幕府に対して米で支払わせるという制度でした。
上げ米の総額は1年に約18万7000石余りで、これは幕領(ばくりょう、幕府直轄領のこと)からの収入の約1割に相当しました。なお、上げ米は一定の成果を挙げたことで享保15(1730)年に廃止され、参勤交代の制度も元に戻っています。
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収入というものは増やすだけではなく、一年にどれだけ得ることができるかという目安も重要でした。そのためには耕地を広げるだけではなく、納めさせる税率も一定のものにしなければならないと考えた吉宗は、その年の収穫(しゅうかく)に応じて年貢率を決める検見法(けみほう)を改め、豊作や凶作にかかわらず、過去数年間の収穫高の平均から年貢率を一定にするという定免法(じょうめんほう)を定めました。
収入増に一定の道筋をつくった吉宗が次に考えたのは、優秀な人材を積極的に登用することでした。しかし、いくら優秀であっても、旧来の地位や身分を重視していては上手くいきません。そこで、たとえ身分が低くても、在職中の間だけ石高(こくだか、米で支給される武士の給料のこと)を増やすという足高(たしだか)の制を享保8(1723)年に施行(しこう)しました。
この制度によって江戸南町奉行として採用されたのが、有名な大岡忠相(おおおかただすけ)です。
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吉宗は、江戸の町に詳しい町民に自身の住む町を守らせたほうが何かと効率が良いと考え、町火消(まちびけし)の制度をつくりました。その他にも、火事による類焼を食い止めるために広小路(ひろこうじ)と呼ばれる幅の広い道路をつくったり、防火用の空き地である火除地(ひよけち)をつくったりしました。
また、それまでの江戸の家屋は板葺(いたぶ)きの屋根が多かったのですが、火の粉が飛んできたら無防備も同然だったため、瓦葺(かわらぶ)きに改良させていきました。
ちなみに、この頃の消火方法は破壊消防が中心であり、延焼を防ぐために現場の周囲の建物や構造物などを取り壊していました。
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その一方で、目安箱に入れられた書状の中には吉宗の政治に対して批判的な内容のものもありましたが、吉宗は投書した人物を処罰しませんでした。目安箱は、封建社会においては時として独裁政治になりがちな時代のなかで「お上(かみ)も過ちを犯すことがある」ことを事実上認めた画期的な制度でもあったのです。
吉宗は、さらなる収益の活性化をめざして新しい産業を興(おこ)そうと考えました。なかでも有名なのが甘藷(かんしょ)、いわゆるサツマイモの栽培でした。吉宗は青木昆陽(あおきこんよう)に命じて薩摩(さつま)で従来生産されていた甘藷を江戸でも栽培させました。甘藷はやがて救荒作物(きゅうこうさくもつ、飢饉の際に役立つ作物のこと)として全国に広がったのですが、この背景には大きな教訓がありました。
実は、吉宗による治世の間に大凶作があったのです。享保17(1732)年に起きた享保の大飢饉(だいききん)によって西日本を中心に多くの餓死者(がししゃ)が出ましたが、藩全体で甘藷を栽培していた薩摩藩では一人の犠牲者も出さなかったといわれており、吉宗もその事実に注目したのでした。
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また吉宗は、当時ヨーロッパで我が国と唯一貿易を行っていたオランダの言葉であるオランダ語によって、西洋の学術や文化を研究した蘭学(らんがく)を積極的に導入しようとしました。この際に吉宗が蘭学を学ばせたのが、先述した青木昆陽と野呂元丈(のろげんじょう)です。吉宗の時代に種がまかれた西洋の知識により、世界の様子が少しずつ我が国に広まっていったことで、近い将来に開国のチャンスが生まれることになりました。
さらに吉宗は、幕府に殺到する訴訟への対策も考えました。享保4(1719)年に相対済(あいたいすま)し令が出されたことで、金銭の貸し借りによる争いを当事者で解決させるようにしたのです。ただし、この法令は借金を棒引きしたいわゆる「徳政令」とは違いますので、区別する必要があります。
吉宗の時代に行われた他の法令関係の事業では、江戸の治安を守るためとして、幕府による本格的な法典の導入を目的に寛保(かんぽう)2(1742)年につくられた公事方御定書(くじがたおさだめがき)も有名です。
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それは「庶民(しょみん)の目線による政治」です。吉宗には、特に土地開発や都市対策において庶民のためになる政治を行おうとする姿勢がうかがえますが、このことを可能にしたのは、吉宗の母親の身分が低いことで、幼年期に家臣の子として育てられた影響が大きいと考えられるからです。
ここまで紹介してきたように、吉宗による享保の改革には確かに善政の面が多かったことは事実であり、それに関しては何ら否定するものではありません。しかし、どんなに素晴らしい政策にも光と影があるものです。吉宗の治世は決してバラ色だけの時代ではありませんでした。いや、むしろ農民にとっては非常に厳しかったかもしれません。
なぜそう言いきれるのでしょうか。カギを握るのは、現代の我が国にとって必要不可欠な「ある職業」に対する徹底した差別であり、またその差別を助長した「ある宗教」に由来する幕府の学問です。
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家康自身は決して商行為を嫌っているわけではなく、江戸幕府成立直後には海外との貿易を積極的に考えていたほどの重商主義者でしたが、朱子学が広まるにつれて、幕府の政策は次第に商業に対して否定的な路線を進むようになってしまいました。
そもそも儒教の世界において、商行為には生産性が全くないうえに「100円の価値しかないものを120円で売る」という行為自体が「卑(いや)しい」と見なされ、道徳的に認められていませんでした。
江戸幕府の政策において、商業は「悪」とみなされているといっても過言ではなく、商人がどれだけ利益を上げても、彼らから所得税や法人税を集めるという発想自体がありませんでした。もちろん吉宗もその例外ではなかったのです。
このような組織が政治の実権を握った場合には、現代では当然のごとく重要視されている経済政策が全く考慮されなくなります。それゆえに、吉宗による享保の改革も経済問題に関しては迷走を続けることになりました。
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現代でもそうですが、国民の中には収入が多い人々も少なくありません。彼らがぜいたく品などを買い求めたり、カルチャーセンターに通ったりすることによって経済が活性化し、結果として文化が広がっていくのです。徳川綱吉の時代に減税となって人々の暮らしに余裕が生まれ、多くの人々が遊びを求めた結果として、そのニーズに応えるかたちで元禄文化が生まれ、栄えたのが何よりの証拠です。
しかし、吉宗は結果として倹約令を国民にも「押し付けた」かたちになりました。倹約ばかりでは消費が冷え込み、景気が悪化するばかりでなく、人々の心にも余裕が生まれず、結果として文化も栄えません。綱吉の時代の元禄文化に対し、吉宗の時代に「享保文化」と呼ばれるものはついに誕生しませんでした。
吉宗の倹約令は庶民の消費欲を奪い、広まるべき文化の芽を摘(つ)み取ってしまったのですが、農民の生活はそれ以上に苦しめられていました。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。実は、ここにも「儒教と商行為」の問題が見え隠れしているのです。
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吉宗は新田開発を手がけることなどによって、米の増産に尽力しました。その背景には「米を増産させれば、当然年貢収入も増えるから、財政は豊かになる」という思い込みがあったのですが、実はこれがとんでもない思い違いだったのです。
幕府の財政を支えていた米であっても、その実体は流通する商品のひとつに過ぎません。ということは、増産すればするほど米が余るようになり、供給量が増えることによって、結果として米の価格が下がり、財政も厳しくなってしまうという、全くの逆効果をもたらしてしまったのでした。
このような矛盾(むじゅん)が起きた理由の一つに、幕府が米を「神聖なもの」として扱う姿勢がありました。実は、幕府は「商品」の一つに過ぎない米を「通貨」扱いにしていたのです。これを石高制(こくだかせい)といい、江戸幕府の基本制度として成立当初から続けられてきました。
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この矛盾を解決するには、米を通貨扱いにする米本位制ともいえる石高制をやめて、生産される米の量を銭に換算するという、戦国時代までの貫高制(かんだかせい)に戻すのが一番良い方法でした。
つまり、武士にはそれまでの米の代わりに銭を支給し、綱吉の時代に元禄小判でそうしたように、政府が通貨量を調整して経済をコントロールする方式にすればよいのですが、商行為を敵視するあまりに、極端な重農主義に染まっていた吉宗には出来ない相談でした。
もっとも、江戸南町奉行の大岡忠相による再三の献策によって、吉宗の治世中の元文(げんぶん)元(1736)年旧暦6月に幕府は金の含有量を下げた元文小判を発行し、金融緩和を行っていますが、結局は一時しのぎに過ぎず、老中(ろうじゅう)の松平乗邑(まつだいらのりさと)らによって農民からの租税回収が強化され続けたのです。
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吉宗以前の治世では、幕領で一揆らしい一揆がほとんど起こっていませんでした。それだけ農民の暮らしが安定していたからなのですが、吉宗の治世の後半になると、増税による苦しい負担に耐え切れずに一揆が多発するようになってしまいました。
ところで、皆さんは「ゴマの油と百姓は絞(しぼ)れば絞るほど出る」という言葉を聞いたことがありますか。農民に対する無慈悲(むじひ)な政策を象徴するような言葉ですが、いつの時代に言われたかご存知でしょうか。実はこれは、吉宗による享保の改革の末期の勘定奉行(かんじょうぶぎょう)である神尾春央(かんおはるひで)の言葉なのです。
吉宗による享保の改革で幕府の財政は立ち直り、多くの金銀と備蓄米(びちくまい)を手に入れることが出来たのは事実ですが、その背景には、こういった農民への重い負担があったのも悲しい現実でした。
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吉宗には成人した三人の男子がおり、このうち長男は徳川家重(とくがわいえしげ)として9代将軍となりましたが、残る兄弟である徳川宗武(とくがわむねたけ)と徳川宗尹(とくがわむねただ)、さらに家重の次男である徳川重好(とくがわしげよし)の三人によって、新たに将軍継承権を持つ御三卿(ごさんきょう)が設置されました。
御三卿にはそれぞれ10万石が与えられましたが、藩と違って独立した領地を持たず、江戸城内の屋敷に定住しました。やがて、それぞれの屋敷に最も近い城内の門の名前から、宗武は田安家(たやすけ)、宗尹は一橋家(ひとつばしけ)、重好は清水家(しみずけ)と呼ばれるようになりました。
御三卿は、将軍と従来の御三家(水戸・尾張・紀州)との縁が幕府創設当時に比べて疎遠(そえん、遠ざかって関係が薄くなること)になったので、現将軍である吉宗の血縁を新たに「血のセーフティーネット」にすることで、幕府の将来を万全なものにしようというものでした。
ちなみにこの後、11代将軍として一橋家から徳川家斉(とくがわいえなり)が就任するなど、御三卿は「血のセーフティーネット」としての役割を果たすことになります。
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もっとも、農民に無理を強(し)いたことで幕府の財政は上向き、蔵(くら)の中には相当量の金銀や備蓄米が集まりましたから、いわゆる「幕府のための改革」としては成功したのかもしれません。
ところで、幕領での一揆は吉宗の死後も治まる気配はなく、後を継いだ9代将軍の徳川家重も散々に悩まされました。そんな光景を静かな目で眺(なが)めていた、家重に若い頃から仕えていたある家臣は、吉宗による「重農主義」の政治の限界を実感していました。
その家臣は後に出世を重ねて、将軍の側用人(そばようにん)と老中を兼任して政治の実権を握ると、過去の反省から「重商主義」に主眼を置いた政治に切り換えることによって我が国に好景気をもたらし、その開明的な政策は自主的な開国をもたらす一歩手前まで行きました。
その政治家の名前こそが、いわゆる「田沼時代」で有名な田沼意次(たぬまおきつぐ)なのです。
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