幕府は元禄小判のように貨幣の改鋳(かいちゅう)を行ったり、江戸・大坂・京都のいわゆる「三都」の商人に対して御用金(ごようきん)を命じたりしましたが、財政難に対する根本的な対策とはなりませんでした。
また諸藩も同様に財政難に苦しんでおり、蔵米(くらまい、大坂の蔵屋敷に輸送する年貢米のこと)を担保として蔵元(くらもと)や掛屋(かけや)から借金をしたり、独自の藩札を発行したりしたほか、家臣の俸禄(ほうろく)を半分のみ支給したり、特産品の専売に踏み切ったりしました。
同じ武士である旗本や御家人の生活はさらに厳しくなり、禄米(ろくまい)を担保に札差(ふださし)から借金をしたり、あるいは内職をしたりするばかりでなく、なかには裕福な町人を養子に迎えて武士の身分(=御家人株)を売買する者まで現れました。
財政難への対策のひとつとして、諸藩が農民に対する年貢率を引き上げることが多かったのですが、それは農民の生活に対する圧迫を意味していました。窮乏(きゅうぼう)に耐えかねた農民の中には、年貢の減免などの要求を掲(かか)げて直接行動を起こす者も現れました。これを百姓一揆(ひゃくしょういっき)といいます。
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やがて17世紀末頃になると、広い範囲の農民層が結集して起こす惣百姓(そうびゃくしょう)一揆が中心となりました。信濃(しなの、現在の長野県など)の貞享(じょうきょう)騒動などの伝説が知られています。なお、百姓一揆では誰が代表者か分からないようにするため、円形に書かれた連判状(れんぱんじょう)に名を連ね、神前で誓いを立てました。
一方、有力な農民の一部は零細農民を使って地主手作(じぬしてづくり)を行い、手放された土地を買い集めて地主に成長し、始めのうちは自らも耕作を行っていたものの、やがては田畑を小作人に耕作させて小作料を取り立てるようになりました。
裕福な農民はやがて豪農(ごうのう)と呼ばれるようになり、本百姓(ほんびゃくしょう)を中心とする農村の構造は大きく変貌(へんぼう)しました。村役人を兼ねる豪農と小作人らとのあいだで対立が深まり、小作人らが村役人の不正を追及し、民主的な村の運営を求める村方騒動(むらかたそうどう)が各地で発生しました。
このように社会が動揺していく中、豊臣家(とよとみけ)が滅亡して約100年が過ぎた頃の江戸幕府においても大きな問題が発生しました。徳川将軍本家の血筋が絶えてしまったのです。
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