イスパニア(=スペイン)やポルトガルによって始まった大航海時代は、やがてイギリスやオランダあるいはフランスによる海外進出をもたらしましたが、それらの国々には、大西洋に面して海に出やすいという共通点がありました。
一方、国が内陸に存在したドイツやオーストリアあるいはイタリアは、列強による植民地の争奪戦に出遅れていましたが、19世紀に入ると、国家の保護によって重化学工業を発達させたドイツが、産業革命においてイギリスを追い越さんばかりの勢いを見せるようになりました。
これに危機感を抱いたイギリスは「名誉ある孤立(=Splendid Isolation)」を捨てて日本と同盟を結んだほか、ロシアやフランスと「三国協商」を結びましたが、一方のドイツもオーストリアやイタリアと「三国同盟」を締結しました。
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1914(大正3)年6月、オーストリアの皇位継承者夫妻が、バルカン半島のボスニアの州都サライェヴォ(=サラエボ)でセルビア人の民族主義者に暗殺されました。オーストリアが報復として翌7月末にセルビアに宣戦布告をすると、同盟や協商関係によって8月にはドイツとロシアの戦争に拡大し、さらにはイギリスやフランスもロシア側について次々と参戦しました。
こうして、戦いはドイツ側の同盟国とイギリス側の連合国とによって、ヨーロッパだけでなく世界へと拡大する空前の大戦争となり、4年3か月にも及ぶ長期戦となりました。この戦争は、今日では「第一次世界大戦」と呼ばれています。
第一次世界大戦の緒戦はドイツが優勢であり、苦戦していたイギリスは、同盟国である我が日本に対してしきりに参戦を促(うなが)しましたが、日英同盟の範囲がインドまでと定められていたこともあり、我が国の態度は慎重でした。
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中国大陸の山東(さんとう)半島に出兵した我が国は、ドイツが租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りること)していた膠州(こうしゅう)湾の青島(チンタオ)を占領したほか、太平洋へと逃れたドイツの東洋艦隊を追撃して、ドイツ領だった南洋諸島も占領しました。
また、我が国は海軍を地中海やインド洋・太平洋など各地へ派遣して、連合国の商船や輸送船の護衛などを担当しましたが、ヨーロッパ戦線に陸軍を派遣することはなく、どちらかと言えば限定的な参戦に留まりました。
一方、第一次世界大戦を欧州各国との友好関係の構築の好機と判断したアメリカは1917(大正6)年に参戦し、ヨーロッパ各地を転戦して多くの犠牲者を出しながらも連合国側に最終的に勝利をもたらすことに成功しました。
この結果、イギリスなどの連合国と、参戦に消極的な(と見られた)我が国と積極的に貢献したアメリカとの関係が第一次世界大戦を通じて明らかに変化したほか、ヨーロッパにおけるアメリカの発言権が大きくなりました。そして、このことが結果として我が国に不幸をもたらすことになるのです。
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