頼朝にあって、義経に欠けていたのは「戦略」でした。戦術とは「戦いに勝つための具体的な方法」であり、戦略とは「戦争に勝つための総合的・長期的な計略」のことです。では頼朝の「戦略」とは何であったのでしょうか?
頼朝が目指していたのは「武士の、武士による、武士のための政治」でした。自分たちが汗水たらして開墾した土地を、自らの手で所有するという当たり前のことを実現することを目指していました。
一方、平氏が安徳天皇を引き連れて都落ちした際に、三種の神器も一緒に持ち去られてしまった朝廷側は、後白河法皇(ほうおう、出家した上皇のこと)が自らの権威で後鳥羽天皇(ごとばてんのう)を神器なしで強引に即位させたものの、やはり神器なしではまずいのでは、という後ろめたさを持っておられました。
そこに目をつけた頼朝は、三種の神器を自らの手で取り返して後白河法皇に引き取らせることによって、武士側の要求を認めさせようと考えていたのでした。
頼朝とて人の子です。父の義朝を死に追い込んだ平氏は憎みても余りある存在ですが、有能な「政治家」でもあった彼は、自己の欲求よりも武士全体の利益を重視していたのでした。それに、神器さえ奪ってしまえば、正当性を失った平氏政権は放っておいても自滅する、と読んでもいました。
だからこそ義経に「どんなことがあっても三種の神器を必ず取り戻してこい」と命令していたはずなのです。




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オバrev 戦略と戦術、どこかで聞いたことがあると思っていたら思い出しました。
私の尊敬している経営コンサルタントの神田昌典氏が「戦略はキングであり、戦術はクイーンである」と言っていたのです
・・・忘れてるってことは経営に生かされてなかった?(^^;)ヘヘヘ。
つまり、ビジネスが継続的に成功するためには、まず戦略が正しいこと。
そして、次に戦術が正しいことが大事である。
戦略が完璧だったら、戦術は稚拙でもなんとかなる。
しかし戦略が稚拙であれば、戦術が完璧であっても、成功できない。
まさに頼朝と義経にピッタリ当てはまるかもしれませんね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。戦術で局地的に勝利を収めても、長い目で見た戦略が誤っていれば意味がなくなってしまう。
次の記事でも書きましたが、義経の場合は「平氏を倒すこと」こそが戦略と見誤ったことがつまずきの原因ですね。
しかし、もっと深刻な戦略ミスがあって、それこそが義経の命取りになってしまったんですよね…。
ところが、三種の神器の重要性を理解せず、平氏さえ倒してしまえばよいとしか考えていなかった義経には、頼朝の政治的センスがまるで理解できませんでした。壇ノ浦の戦いの後、三種の神器は清盛の未亡人が、安徳天皇とともに抱えて海の中へ飛び込んでしまいました。
神器のうち、勾玉(まがたま)と鏡は取り戻せましたが、剣は海の底に沈んでしまい、ついに取り戻せなかったのです。三種の神器に注意を引いていなかった義経の明らかな油断でした。しかし、義経は平氏を滅亡させたことの方がよほど重要であると信じ込んでおり、頼朝がなぜ自分に激怒するのか分からないままでした。
さらにもう一つ、義経は致命的なミスを犯していました。頼朝の許可もなく、後白河法皇から検非違使(けびいし、主として京都の治安維持を担当)への任官(にんかん)を受けてしまったことです。尚、任官後の義経は「九郎判官」(くろうほうがん)と呼ばれました。これが後に「判官贔屓」(ほうがんびいき)という言葉を生むことになります。
それはともかく、義経の行為は頼朝のそれまでの血のにじむような苦労を全部無駄にしてしまいかねない、とんでもないことでした。なぜそう言い切れるのでしょうか?
頼朝が「武士の、武士による、武士のための政治」を目指していたことは先述しましたが、これは要するに朝廷から独立した軍事政権をつくろうというものです。政権の独立性を維持しようとすれば、当然部下への「人事権」も、頼朝側で独自のものを持たなければなりません。




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タイクーン 黒田裕樹さん、こんにちは

なるほど

才覚を持っていたけれど、政治的センスに欠けて
いますね

戦争に「勝つ」ことと戦勝に対する「勲章」しか
頭にない

(義経の場合は官位)
これってどことなく、第二次大戦前の軍部の独走
と似ている感がありますよね

ぴーち こんばんは!
義経の「九朗判官」から「判官贔屓」という言葉が生まれたんですか^^また、一つ勉強になりました^^
「武士の、武士による、武士の為の政治」
なぜかリンカーンを思い出してしまうセリフです^^;
もっとも、リンカーンは日本でいえば、江戸時代末期の頃の
話ですものね^^;
それでは、応援凸
また、お邪魔しますね^^
さすらい こんばんは。
いつの時代も
良きにつれ悪きにつれ
軍事政権樹立とは難しいものですね。
義経と頼朝のそれぞれの葛藤。
それからそれから?(笑)
応援♪
タイクーンさんへ
黒田裕樹 > なるほど

> 才覚を持っていたけれど、政治的センスに欠けて
> いますね

> 戦争に「勝つ」ことと戦勝に対する「勲章」しか
> 頭にない

> (義経の場合は官位)
そうなんですよ。頼朝のためになると思ってやった軽率な行為が、結果として頼朝の足を引っ張っている…。これではどうしようもありません(´・ω・`)
> これってどことなく、第二次大戦前の軍部の独走
> と似ている感がありますよね

私もそう思います。戦争は始めることよりも終わらせることの方が大切ですから。それなのにズルズルと戦争を続けて、結果として何もかも失ってしまった…。我が国に確固とした「戦略」があれば、と悔やまれてなりません。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 義経の「九郎判官」から「判官贔屓」という言葉が生まれたんですか^^また、一つ勉強になりました^^
日本語の語源は意外と知られていませんからね。お役に立てて何よりです(^^♪
> 「武士の、武士による、武士の為の政治」
> なぜかリンカーンを思い出してしまうセリフです^^;
> もっとも、リンカーンは日本でいえば、江戸時代末期の頃の
> 話ですものね^^;
そうですね。武士の利益を追い求めた頼朝の思想は、リンカーンにも通じるところがありますね。我が国がそれだけ先を進んでいたというところでしょうか。だとすれば、そんな先人の努力を無にしないように、現代の我々もいろんな意味で祖国をしっかりと護っていきたいものです。
応援有難うございます!
さすらいさんへ
黒田裕樹 > いつの時代も
> 良きにつれ悪きにつれ
> 軍事政権樹立とは難しいものですね。
軍事政権のバックボーンは、武力だけではなく、権威や配慮も必要ですからね。すべてが揃わないと、平氏のように「はかない政権」で終わってしまう訳です。
> 義経と頼朝のそれぞれの葛藤。
> それからそれから?(笑)
明日をお楽しみに(笑)。
応援有難うございます!
頼朝の嫉妬じゃなかった?
オバ 頼朝が義経を討ったのは、義経が自分より優れているという嫉妬からだと思っていましたが、どうも違うようですね。
実際は頼朝の方に大義名分があったんですね。
相模守高時 勝手に官位を得たのは致命的ですね
もっとも義経自身には、それがなぜ問題なのかがわからないわけで。。。
俺は頼朝の弟、源家の血を引く者。
他の御家人とはちがうんだから、官位をもらって何が悪い、てなところだったんでしょうか。
頼朝にしてみれば、他の御家人と一緒なんですけど、そのあたりは義つてにはわからんかったんでしょうね。
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オバさんへ
黒田裕樹 > 頼朝が義経を討ったのは、義経が自分より優れているという嫉妬からだと思っていましたが、どうも違うようですね。
一般的にはそう思われているようですが、実際には違うんですよ。我が国で初めて武家政権をつくり上げた頼朝ほどの人物が、嫉妬ごときで判断を誤るとは思えませんし。
> 実際は頼朝の方に大義名分があったんですね。
仰るとおりです。次回のブログで詳細な理由を書くことになりますよ。
その一方、官位は朝廷から授かるものですから、それを安易に受け取るということは、政権を担当しようとする頼朝の権威をまるつぶれにしてしまう愚かな行為なのです。それなのに、よりによって頼朝の実の弟である義経があっさりと官位を受けてしまったのですから、頼朝にとってはたまったものではありません。
現実問題として、この後多くの頼朝の家臣が「弟の義経様が受け取るのであれば」と朝廷から次々と任官を受けてしまいました。これらに対する頼朝の怒りは凄まじいものであったと伝えられています。
しかし義経は、三種の神器と同様に、自分が犯した大きな過ちに全く気がついていなかったのでした。後に頼朝に送った手紙のなかで「私が朝廷の任官を受けることは、源氏一族にとって名誉なことではないですか」と書いているくらいです。
義経は、生け捕りにした平氏の落ち武者を引き連れて、京都に凱旋(がいせん)しました。平氏を憎く思っていた民衆からは「救世主」として歓迎されましたが、激怒した頼朝からは「鎌倉には二度と戻って来るな」と突き放されてしまいました。怒りの収まらない頼朝は、義経の領地をすべて取り上げたのみならず、彼の暗殺まで謀(はか)りました。
これらの仕打ちを受けて、義経はついに頼朝との断交を決意し、朝廷から「頼朝追討」(ついとう)の院宣(いんぜん、上皇=法皇からの命令書のこと)をもらって九州で再起を図ろうと考え、精鋭とともに勇躍(ゆうやく)船出しましたが、不運にも嵐にあって難破してしまいました。




いつも有難うございます。
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タイクーン 黒田裕樹さん、こんにちは

武士による一元的な政権を築くという発想は
当時の社会背景からすると凄く奇抜な発想
ですよね

にもかかわらず、義経はこの意図がちっとも
わかってない

頼朝は「オレの弟であろうものが、なぜ分からん


タイクーンさんへ
黒田裕樹 > 武士による一元的な政権を築くという発想は
> 当時の社会背景からすると凄く奇抜な発想
> ですよね

そうですね。でもそれこそが「武士の、武士による、武士のための政治」であって、それまで不安定な地位であった武士たちを満足させるものだったんですよね。
> にもかかわらず、義経はこの意図がちっとも
> わかってない

> 頼朝は「オレの弟であろうものが、なぜ分からん


弟だからこそ期待し、また身を律しなければならないはずが、ことごとく頼朝の考えに逆らうわけですから、どうしようもないですね(´・ω・`)