幕府が置かれた「将軍のお膝元(ひざもと)」である江戸には幕府の施設や大名の屋敷をはじめとして多数の武士が集中して居住し、様々な職を持つ町人も集まって我が国最大の消費都市となり、18世紀初めには総人口が100万人に達して世界最大の都市となりました。
「天下の台所」といわれた大坂は全国の物資の集散地として栄えた商業都市であり、堂島(どうじま)の米市場では世界で最初の商品先物取引が行われるなど発展し、18世紀初めには35万人の人口を数えるようになりました。幕府は大坂城代(じょうだい)や大坂町奉行(まちぶぎょう)を置いて監視するとともに、西日本を支配する要としました。
8世紀末に桓武(かんむ)天皇が平安京(へいあんきょう)に遷都(せんと)して以来、我が国の首都としての長い歴史を誇(ほこ)る京都は、多くの神社や仏閣がひしめく宗教都市として発展しました。呉服屋(ごふくや)や両替商(りょうがえしょう)などの大商人の本拠地が置かれたほか、西陣織や京染(きょうぞめ)・京焼(きょうやき)などの手工業生産も発達して、17世紀には40万人程度の人口がありました。幕府は京都所司代(しょしだい)や京都町奉行を置いて、朝廷や寺社、あるいは畿内の周辺諸国を監視もしくは支配しました。
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諸藩は大坂や江戸に蔵屋敷(くらやしき)を設けて、藩士に蔵物の保管や販売を行わせていましたが、やがて蔵元(くらもと、蔵物の取引を行う)や掛屋(かけや、代金の出納=すいとうを担当する)と呼ばれた商人に業務を委託するようになりました。
一方、幕府の米蔵(こめぐら)は浅草(あさくさ)の蔵前(くらまえ)にあり、札差(ふださし、別名を蔵宿=くらやど)と呼ばれた商人が旗本や御家人の俸禄米(ほうろくまい)の受け取りと売却を請け負いました。これらの商人はやがて大名や旗本などに金融業を行うようになり、カネの力で武士の生活を左右するようになりました。
なお、蔵物に対して生産地から商人を経由して仕入れと販売が行われた商品を納屋物(なやもの)といい、江戸をはじめ全国に出荷されました。また蔵元と掛屋は同じ商人が両者を兼ねることもありました。
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17世紀後半になると、江戸・大坂・京都の三都や城下町において、生産地の仲買(なかがい)から商品の仕入れや受託を行う問屋(といや)が商業や流通の中心となっていきました。
問屋は自己の利益を守るため、業者ごとに仲間(なかま)や組合という同業者の団体をつくり、仲間掟(なかまおきて)と呼ばれた独自の法を定めて営業の独占を図りました。
当初の幕府は仲間を公式には認めませんでしたが、商工業者の統制や物価の調節に有効な役割を仲間が果たしたことによって、18世紀には公認するとともに、運上(うんじょう)や冥加(みょうが)といった営業税を確保するために仲間の公認を増やすようになりました。
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なお、株仲間を積極的に公認することで商人からの税を増やし、幕府財政を安定させようとしたのが田沼意次でした。
都市部の仲買は仕入れた商品を武家や小売(こうり)商人に売却して利益を得たほか、小売は仲買などから購入した商品を常設の店舗(てんぽ)や路上の店、あるいは持ち歩いて販売する振売(ふりうり)など様々な手段で消費者に販売しました。
また、三都などの問屋や仲買と生産地との売買の場である卸売市場(おろしうりいちば)が三都や城下町で発達しました。有名な卸売市場としては、先述した大坂・堂島の米市場の他に、同じ大坂の雑喉場(ざこば)の魚市場・天満の青物市場や、江戸の日本橋の魚市場・神田の青物市場などが知られています。
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幕府は金座(きんざ)・銀座(ぎんざ)・銭座(ぜにざ)を設けて、小判や一分金(いちぶきん)などの金貨や丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)などの銀貨、一文銭(いちもんせん)の寛永通宝(かんえいつうほう)などの銭貨(せんか)を発行しました。これら金・銀・銭の三貨(さんか)は統一貨幣であり、全国に普及して商品流通の発展を支えました。
ただし、東日本では主に計数貨幣(けいすうかへい、表面に記された数字で価値を保証された貨幣のこと)である金貨が、西日本では主に秤量貨幣(しょうりょうかへい、品質や重量によって価値が保証された貨幣のこと)である銀貨が使用され、また三貨の交換率が相場によって常に変動していたことで、両替商が活躍することになりました。なお、東日本では金遣(づか)い、西日本では銀遣(づか)いとそれぞれ呼ばれています。
大阪や江戸の本両替(ほんりょうがえ)などの有力な両替商の中には、やがて公金の出納(すいとう)や為替(かわせ)、あるいは貸付などの業務を行うようになり、幕府や藩の財政を支えるようになりました。なお、大手の両替商としては江戸の三井家(みついけ)や大坂の鴻池家(こうのいけけ)などがあります。
この他、江戸時代中期以降になると財政難に苦しんだ各藩において領内のみで通用する藩札(はんさつ)が発行されるようになりましたが、藩が取りつぶされれば紙くず同然になるというリスクもありました。
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