白石や間部は、家宣亡き後に4歳で跡を継いだ7代将軍の徳川家継(とくがわいえつぐ)にもそのまま仕えました。彼らによる政治を当時の代表的な元号から「正徳(しょうとく)の治(ち)」、または「正徳の政治」といいます。
ところで、家宣が将軍職を継いで真っ先に行ったことは生類憐みの令の「廃止」でした。一般的な歴史教科書には「廃止によって家宣が庶民の喝采(かっさい)を呼んだ」と書かれていることが多いですが、確かに食生活などにおける不満は高かったものの、20年以上に及んだ法令で世の中の価値観が一変したことで、その役目を終えたからこその廃止ともいうべきかもしれません。
さて、朱子学者であった白石は、文治政治をさらに推し進めるとともに、儒教の精神に基づく道徳論や権威に従って様々な政策を行いましたが、その結果は明暗がはっきりと分かれるものでした。
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新たな宮家は、当時の113代東山(ひがしやま)天皇の子である直仁親王(なおひとしんのう)によって立てられ、閑院宮家(かんいんのみやけ)と呼ばれましたが、実は設置から約半世紀後に皇室の直系の血が絶えてしまい、閑院宮家から119代の光格(こうかく)天皇が誕生しました。
そして、光格天皇の血統は、現代の天皇陛下から弟君の秋篠宮文仁親王殿下(あきしののみやふみひとしんのうでんか)を通じて、悠仁親王殿下(ひさひとしんのうでんか)までつながっています。
つまり、白石が閑院宮家の創設に助力したことによって、現代にも皇室の血統が脈々と受け継がれているのです。その意味においても、白石の功績は非常に大きいものがあったといえるでしょう。
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次に、朝鮮通信使に対するこれまでの待遇が丁重(ていちょう)過ぎたと感じていた白石は、家宣の将軍就任の慶賀を目的に新たな通信使が我が国に派遣されてきた際に、その処遇を簡素化するとともに、それまでの朝鮮からの国書に「日本国大君殿下(たいくんでんか)」と書かれていたのを「日本国王」と改めさせました。
これらは、一国を代表する権力者である将軍の地位を明確にする意味が込められていましたが、同時に将軍と皇室との関係において、将軍家の地位を下げる結果ももたらしていました。なぜなら「国王」は「皇帝=天皇」よりも格下と考えることも可能だったからです。
さらに白石は「金の価値を落とした偽物を市中に出回らせることで不正な利益を上げることは許されない」という儒教的な観点から、勘定奉行に昇進していた荻原重秀を罷免(ひめん)すると、元禄小判を回収して金の含有率を元に戻した「正徳小判」を発行しましたが、貨幣の価値の上昇が必然的に物価の値下がりをもたらしたことでデフレーションを引き起こしてしまい、景気が悪化してしまいました。
これは、優秀な朱子学者だった白石ゆえに世の中の「生きた経済」が理解できなかったことによる失政でした。そして、このような「朱子学の考えを重視するゆえの経済の無知」は、この後も幕府が何度も繰り返すことになってしまうのです。
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