綱吉が将軍に就任した頃は、江戸をはじめとする全国でいわゆる「戦国の遺風」が未だに残っており、至るところで血なまぐさい事件が起こるという殺伐(さつばつ)とした雰囲気が、我が国全体における道徳心の低下をもたらすという有様でした。
そんな暗い世情を一掃するために、綱吉は先代将軍の家綱の頃からの文治政治を一層強めましたが、そのキーワードとなったのが、彼が生来(せいらい)好んでいた朱子学がもたらす道徳心でした。
綱吉は、まず武士に染み付いた戦国時代の考え方を改めさせるため、天和(てんな)3(1683)年の代替わりの武家諸法度において、冒頭の「弓馬(きゅうば)の道」を「忠孝の道」と改めました。
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また、綱吉は貞享元(1684)年に服忌令(ぶっきれい)を出し、近親に死者があった場合に、喪(も)に服したり忌引(きびき)をする日数を定めたりしました。服忌令によって、綱吉は血のケガレや死を忌(い)み嫌う風潮がつくり出されたのです。
次に綱吉は、武士だけでなく庶民に対しても「忠孝の道」を求めさせようとしましたが、その方法として、武士に対する武家諸法度のように法令を用いて庶民に道徳心を身につけさせようとしました。
そして貞享2(1685)年に「鳥類を銃で撃ってはならない」というお触れが出されると、以後も約20年間に渡って次々と新しい法令が追加されていきました。世にいう「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」の始まりです。
なお、生類憐みの令とはそういう名前の法令が出されたわけではなく、約20年の間に少しずつ増えてゆき、最終的に135個の法令が出されたものを総称して名付けられたものです。
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先述のとおり、生類憐みの令は最終的に135個の法令が出されたものを総称して名付けられたものですが、その内容は多岐に渡っており、犬に関するものは33件と全体の約4分の1に過ぎません。
数多くの法令の中には「鳥類などを口にしてはいけない」という食卓での禁令など、次第にエスカレートしたものが多かったのは確かです。しかし、法令の底辺にあったのは「動物愛護」から「人命尊重」へとつながっていった、確固たる綱吉の意思でした。
この当時は作業に使役させる目的で牛や馬が飼われていましたが、年老いたり病気になったりすると、動けるうちから追放して死なせることがよくありました。野ざらしにされて死んだ牛馬から発生した病原菌が、その肉を食べた野犬が人々に噛み付くなどして人間に伝染することで、疫病(えきびょう)が広がることが多かったのです。
こうした伝染病を防止するためや、野犬化によって犬自身が被害を受ける前に保護しようという考えがあったからこそ、犬に関する様々な法令がつくられたのです。この他、生類憐みの令では病気になった牛馬をきちんと療養させることや捨て子の禁止、あるいは人が旅先で病気になっても旅籠(はたご)で面倒をみることなども義務付けています。
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生類憐みの令によって処罰された例は、約20年間でわずか69件に過ぎません。しかも、処罰の対象者のうち3分の2に当たる46件は下級武士であり、町人や農民よりも遥(はる)かに多くなっています。
さらには、69件のうち死罪になったのはたったの13件であり、流罪(るざい)も12件しかないのです。こうした現実は「数十万人の罪人を出した」という伝説を信じ切っていた人々には耳を疑う話ではないでしょうか。
このように、現代においても多くの人々から誤解されている生類憐みの令ですが、実は我が国の歴史に輝かしい功績を残していることを皆さんはご存知でしょうか。キーワードとなるのは、現代の私たちに当たり前のように備わっている「ある精神」です。
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そんな風習が、生類憐みの令によって綺麗(きれい)さっぱり一掃されてしまったのです。確かに人間よりも動物の方が大切であるかのような法令には行き過ぎた問題がありましたが、年月の経過とともに骨の髄(ずい)にまで染み付いてしまった「戦国の遺風」をなくすためには、ある意味では「劇薬」ともいえるショック療法が必要でした。
生類憐みの令の他に「劇薬」として知られているものに、織田信長(おだのぶなが)の領地における「一銭斬り」がありますが、これはたとえ一銭であっても盗めば首が飛ぶというとんでもない内容でした。
しかし、この法令があったお陰で、信長の領地では夜道を女性が一人で歩けるほど安全になったという記録が残されています。信長の無茶な法令に比べれば、約20年間で69件しか処罰されず、死罪も13件しかなかった生類憐みの令の方がよほど人道的であったというべきでしょう。
江戸時代には落語の世界の「熊さん八っつあん」に代表されるような「助け合いの精神」があったと一般に知られていますが、初期はむしろ全く逆でした。しかし、綱吉の出した法令がそれを180度転換し、生命を大切にするとともに相手の立場を尊重するという道徳心をもたらし、現代にまで続いているのです。
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綱吉とセットで「悪人」とされている人物として側用人の柳沢吉保が知られていますが、吉保の本来の業務は「老中からの意見をまとめて綱吉に報告して意見をうかがう」ことであり、彼が私腹を肥やしていたというのは濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)です。
ところで、吉保のような側用人を置くというシステムは綱吉自身が考え出したものでした。家康の独断によって始まった江戸時代の政治は、2代将軍の徳川秀忠以後は老中が意見をまとめて将軍に決裁を依頼し、将軍が事実上何の意見も述べずに承認するという形式が続きました。天下が平穏(へいおん)に治まった頃は、家柄や身分で政治を行ってもそれほど大きな問題にはならなかったのです。
しかし、世の中が変革を必要としているときは、その道に詳しい者でないと政治を任せられませんから、たとえ身分が低くても優秀であれば登用したいのですが、従来の身分秩序を基本とした合議制ではどうにもなりません。そこで綱吉は、大老の堀田正俊が暗殺された後に老中の上に側用人を置き、彼をワンクッションとして将軍自身の意見が通るようにシステムを一新したのです。
このような天才的なシステムを考案できるというのも、綱吉の有能な政治家としての一面ですね。さて「世の中が変革を必要としている」とたった今述べましたが、綱吉の治世の間には少なくとも2つの改革が必要でした。一つは生類憐みの令による武士や庶民の意識の変革でしたが、もう一つとは何だったのでしょうか。
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こうした非常事態に、綱吉は経済に詳しかった勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)の荻原重秀(おぎわらしげひで)を抜擢(ばってき)して、彼に経済対策を一任しました。
重秀は綱吉の期待に応え、同じ一両でも金の含有率(がんゆうりつ)を従来の約84%から約57%に落とすことで貨幣(かへい)の量を増やし、従来の小判と同じ一両として引き換えることで、含有の金の量の差がそのまま幕府の収入につながるという、まさに一石二鳥の策で乗り切りました。なお、この時に発行された小判を「元禄小判」といいます。
ところで、一般的な歴史教科書には「元禄小判の発行によって貨幣価値が下がったことで、物価が上昇してインフレーションとなり、庶民の生活に大きな打撃を与えた」と書かれていますが、これは本当のことでしょうか。
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しかし、綱吉の治世の頃までにはインフラが一段落したことで次第に減税となり、人々の暮らしに余裕が生まれ、その中から人々の多くが「遊び」を求めるようになり、ニーズに応える形で様々な文化が生まれました。これこそが、後述する「元禄文化」なのです。
また、生活の余裕はそれまでの自給自足から消費経済、さらには貨幣経済へと変化していったことで好景気をもたらし、結果として都市の人口が急増しましたが、それに見合うだけの物資がそろわず供給が追いつかなかったために、物価が上昇してインフレーションが発生していたのです。
つまり、インフレの真の原因は物資の供給不足にあり、元禄小判とは直接の関係はありませんでした。また、仮にインフレで物価が上昇しても、景気が良ければ賃金なども一緒に上がりますから、庶民のダメージは大きくなかったどころか、全体の金回りが良くなったことによって生活の余裕がさらに生まれ、元禄文化が栄えたもう一つの原因となりました。
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これらの声に対し、荻原重秀は「幕府が一両と認めるのであれば、たとえ瓦礫(がれき)であろうと一両の価値に変わりはない」と反論しましたが、重秀の考えは、瓦礫を紙切れに換えれば私たちが普段から使用している紙幣と全く同じことになります。
「お金の信用はその材質ではなく、裏打ちとなっているのは政府の信用である」という思想が20世紀の経済学者であるイギリスのケインズによって世界中に広まりましたが、それより200年以上も早く実践(じっせん)していた重秀の先見性に対して、私たちはただただ脱帽するばかりですね。
このように、綱吉が次々と打ち出した政策は、人々の意識を「人命を尊重する思いやりの精神」に改めるとともに、経済が上向いて好景気となり、元禄文化の全盛をもたらしましたが、綱吉の治世の晩年になると、彼に責任を押し付けるにはあまりにも酷(こく)な「アクシデント」が立て続けに起きてしまったのです。
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天災はそれだけでは終わりませんでした。4年後の宝永(ほうえい)4(1707)年旧暦10月には、元禄大地震を上回るマグニチュード8.6と推定される大地震が発生し、さらにその影響があったからか、49日後の同年旧暦11月23日には富士山が大噴火を起こしてしまいました。
富士山の噴火によって、周辺地域は壊滅的な打撃を受けて飢饉(ききん)が発生し、また大量の火山灰が降り積もったことで、江戸も大きな被害を受けました。当時の大地震は「宝永大地震」、富士山の大噴火は「宝永大噴火」と呼ばれています。
立て続けに起きる大火事や天災などの不幸な偶然は、それまでの元禄文化の残像を吹き飛ばし、庶民はやり場のない怒りや悲しみを、時の為政者である綱吉にぶつけるようになり、また綱吉自身もショックが大きかったのか、約1年後の宝永6(1709)年旧暦1月に64歳でこの世を去ってしまいました。
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