改易の原因で一番多かったのは、跡継ぎが決まらないうちに大名が死亡してしまうという、いわゆる無嗣断絶(むしだんぜつ)でした。例えば、関ヶ原の戦いで西軍に属しながら裏切った小早川秀秋(こばやかわひであき)や、徳川家康の四男の松平忠吉(まつだいらただよし)らが無嗣断絶で改易となっています。
無嗣断絶は大名にとって深刻な問題でした。本来であれば大名が元気なうちに後継者を決めておくべきなのですが、例えば子供がいない大名が弟を養子に決めた後に実子が生まれた場合には、お家騒動の原因となって改易の口実を幕府に与えてしまいます。
また、人間はいつ死ぬか分かりませんから、万が一の場合に急いで跡継ぎを決めることができれば大名は助かるのですが、こうしたいわゆる末期養子(まつごようし)の制度は幕府が一切認めていませんでした。
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しかし、だからといって武士が農民や町人として再出発することは至難の業(わざ)ですし、何よりもプライドが許しません。かくして、大名の改易によって発生した数十万人の牢人(ろうにん、別名を「浪人」)の多くが、職にあぶれたまま失意の日々を送っていました。
活路を見出そうとした牢人が江戸などの大都市にやってきたものの、厳しい現状がそう簡単に変わるわけがありません。食いつめた牢人たちの中には、自分たちをこんな境遇に追い込んだ幕府を深く恨んだり、苦しい生活から盗賊などに身を落とす者もいたりして、社会不安が増大していきました。
追いつめられた牢人たちの不満が頂点に達しつつあったこの頃、一人の指導者によって大きな組織が生まれようとした際にたまたま起きた出来事によって、江戸幕府が崩壊(ほうかい)の危機を迎えようとしていました。
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この頃、新将軍が少年であることを絶好の機会であると見なし、幕府を倒して牢人を救済しようと行動を開始した男がいました。その名を由井正雪(ゆいしょうせつ、別名を由比正雪=読みは同じ)といいます。
正雪は江戸を焼き討ちし、幕府が動揺している間に江戸城を乗っ取り、同時に大坂や京都でも一揆(いっき)をおこして天下を混乱に陥(おとしい)れようとしましたが、計画が事前に幕府に発覚してしまったことで未遂に終わり、慶安4(1651)年旧暦7月に正雪は自害しました。この事件は当時の元号から慶安の変(または由井正雪の乱)と呼ばれています。
正雪の計画は失敗しましたが、あわや倒幕かという事態が現実になりそうだったということは、幕府に大きな衝撃を与えました。そして、この事件をきっかけに幕府はそれまでの武力で世の中を支配するとした武断(ぶだん)政治の方針を大きく変更するようになるのです。
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その後、成人した家綱が寛文3(1663)年に代替わりの武家諸法度(ぶけしょはっと)を発布した際に、大名が死亡した後の家臣の殉死(じゅんし)を禁止しました。これは、大名と家臣との関係は一代限りではなく、跡を継いだ主君に対してもこれまでどおり奉公(ほうこう)しなければならないという、主君に忠誠を誓う朱子学の概念にも由来した幕府の意思を示していました。
こうした幕府の政治姿勢は、それまでの武断政治から平和的な秩序の確立を目指す「文治(ぶんち)政治」へと大きく転換させることになり、家綱の次の将軍の治世(ちせい)で大きく花開くことになるのです。
なお、家綱は全国の大名に対して領地宛行状(りょうちあてがいじょう)を発給して将軍の権威を確認したり、幕府の直轄領において大規模な検地を行うことで収入の安定化を図ったりしています。また、末期養子の禁の緩和によって、上杉謙信(うえすぎけんしん)ゆかりの米沢(よねざわ)藩が改易を免(まぬが)れていますが、その際に末期養子となった上杉綱憲(うえすぎつなのり)は、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)で有名な吉良上野介(きらこうずけのすけ)の実子です。
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家綱の治世において、正之は様々な政策を実行しました。幕府が大名の重臣の子弟を人質にとって江戸に住まわせる大名証人制度を廃止したのも正之ですし、江戸の水源不足を補うために引かれた玉川上水(たまがわじょうすい)は、施設の一部が21世紀の現代でも使用され続けるほど完成度の高いものとして有名です。
また、明暦(めいれき)3(1657)年に江戸の町を焼き尽くした明暦の大火(たいか)によって、江戸城の天守閣が焼け落ちましたが、天下泰平(てんかたいへい)の世に天守閣は不要として再建しないことを決め、代わりに江戸の道路を広げるなど都市機能の復興に全力を挙げました。
正之の子孫は松平(まつだいら)氏を名乗り、会津藩主として幕府を支え続けました。幕末に京都守護職(きょうとしゅごしょく)の重責を担(にな)い、新選組(しんせんぐみ)を率いて滅びゆく幕府を懸命に支えた松平容保(まつだいらかたもり)も会津藩主(ただし、徳川家の血を引いてはいるものの、系統上は養子)です。
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