儒教に由来し、主君に絶対の忠誠を誓うとともに上下の秩序を重んじる学問であった朱子学(しゅしがく)は、室町時代は五山の学僧が学んでいましたが、江戸幕府の公的な学問として採用されたことで大きな広がりを見せました。
朱子学は京都の相国寺(しょうこくじ)の禅僧であった藤原惺窩(ふじわらせいか)によって広められ、惺窩の門人(もんじん、弟子のこと)である林羅山(はやしらざん)は徳川家康に招かれ、羅山の子孫は林家(りんけ)と呼ばれて、幕府代々の儒者(じゅしゃ、儒教を学び、研究する学者のこと)として仕えました。
また仏教では、17世紀半ばに来日した明の禅僧である隠元(いんげん)が黄檗宗(おうばくしゅう)を伝えました。なお、隠元が来日した際に日本に持ち込んだためにその名が付いたとされるのがインゲンマメ(=隠元豆)です。
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また、京都では伝統的建築として数寄屋造(すきやづくり)の桂離宮(かつらりきゅう)が建てられたほか、突き出した舞台が有名な寄棟造(よせむねづくり)の清水寺本堂(きよみずでらほんどう)もこの時代の建築物です。思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」とよく言いますね。
絵画では狩野派(かのうは)から狩野探幽(かのうたんゆう)が出て、幕府の御用絵師(ごようえし)として活躍し、大徳寺方丈襖絵(だいとくじほうじょうふすまえ)などの作品を残しました。また京都では土佐派(とさは)から俵屋宗達(たわらやそうたつ)があらわれ、風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)などの大胆な構図と色彩が魅力の作品を生み出しました。
多才な文化人として知られた本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、絵画の他に蒔絵(まきえ)や楽焼(らくやき)と呼ばれた陶芸に優れた作品を残しており、舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)も有名です。
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鍋島(なべしま)氏の有田焼(ありたやき、別名を伊万里焼=いまりやき)や島津氏の薩摩焼、毛利(もうり)氏の萩焼(はぎやき)、松浦(まつら)氏の平戸焼(ひらどやき)などが有名であり、特に有田では磁器(じき)がつくられ、酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)が赤絵(あかえ)の技法を完成させました。
また、文芸面では教訓的な内容を主とした仮名草子(かなぞうし)があらわれ、連歌(れんが)から独立した俳諧(はいかい)からは松永貞徳(まつながていとく)の貞門(ていもん)俳諧が流行しました。
なお、我が国における文化はこの頃までは「上から下へ」、すなわち皇室や公家(くげ)などの貴族、あるいは将軍や大名などの武士から庶民(しょみん)へと広がっていくものが主でしたが、17世紀後半から末頃には、世界に先駆けて一般庶民を中心とする文化が生まれるようになります。
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