幕府は長崎を窓口として、チャイナで生産された生糸や砂糖、あるいは欧州産の毛織物などの様々な貿易品をオランダから輸入するとともに、オランダ船が入港する度に、商館長(=カピタン)が長崎奉行を通じて提出したオランダ風説書(ふうせつがき)によって、幕府が独占的に海外の情報を得ました。
また、この頃までにチャイナで漢民族の明(みん)が滅び、満州(まんしゅう)民族が清(しん)を建国すると、清国の私貿易船が我が国に来航するようになり、貿易額は年々増加しました。当時の我が国は貿易の代金を金銀で支払っていましたが、貿易額の増加が大量の金銀の流出をもたらしたため、幕府は貞享(じょうきょう)2(1685)年にオランダや清国からの輸入額を制限し、元禄(げんろく)元(1688)年には清国船の来航を年間70隻(せき)に限定しました。
また同じ元禄元(1688)年には、密貿易を防止する目的で、それまで長崎領内で自由に雑居していた清国人の居住地を限定するために唐人屋敷(とうじんやしき)の建設を開始し、翌元禄2(1689)年に完成しました。
なお、清は先述のとおり満州(現在の中国東北部)を本拠地としており、清によるチャイナの支配は「中国大陸全体が満州族に併合された」ことを意味していました。その後、清は1912(明治45)年に滅亡しましたが、最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)が我が国の支援によって20年後の1932(昭和7)年に「満州国」を建国することになります。
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家康から日朝の交渉を任された対馬藩(つしまはん)の宗(そう)氏によって、慶長(けいちょう)12(1607)年に朝鮮使節が我が国に来訪し、慶長14(1609)年には朝鮮との間に己酉約条(きゆうやくじょう)が結ばれました。
日朝貿易は宗氏に独占権が与えられ、貿易がもたらした利潤によって、宗氏は家臣との主従関係を結びました。領地の対馬が耕地に恵まれなかったこともあり、日朝貿易は対馬藩にとって文字どおり生命線だったのです。
寛永(かんえい)12(1635)年、幕府は日朝貿易を監視するために京都五山(ござん)の僧を対馬に派遣しました。貿易は朝鮮が釜山(プサン)に設置した倭館(わかん)で盛んに行われましたが、金銀の流出を防ぐ目的で、オランダや清国と同様に、貞享3(1686)年には幕府によって対馬藩の貿易額が制限されました。
なお、朝鮮からの使節は、その後も幕府の将軍の代替わりの慶賀(けいが)を名目に続けられ、朝鮮通信使と呼ばれました。
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薩摩藩は琉球を属領としながらも、表向きは独立国として、当初は明、後には清を宗主国とする朝貢(ちょうこう)関係を続けさせるとともに、チャイナとの貿易で得た物資や、琉球産の黒砂糖を薩摩へ納めさせました。
また、琉球は徳川将軍の代替わりごとに慶賀使(けいがし)を、琉球王の代替わりごとに謝恩使(しゃおんし)をそれぞれ幕府に派遣しましたが、これらはいずれも薩摩藩の指導によって、異国風の服装や髪型、あるいは旗や楽器を用いることで、琉球人を異民族のように振る舞わせる形式でした。
なお、薩摩藩によって、琉球とチャイナとの貿易はその後も続けられ、藩の貴重な財源となったほか、後には貿易による輸入品を薩摩藩が長崎で売却するようになりました。
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蝦夷地ではコメの収穫ができなかったため、松前藩は毎年コメや酒、鉄製品などを仕入れて取引場所に持参し、昆布(こんぶ)やアワビ、鮭(さけ)、毛皮などと交換していました。当時のアイヌは満州とも交易しており、蝦夷錦(えぞにしき)などのチャイナの織物が我が国にもたらされるなど、松前は外国に開かれた我が国の北の窓の役割を果たしていました。
松前藩は、和人地以外の蝦夷地に住むアイヌとの交易地である商場(あきないば、別名を場所=ばしょ)からの利益を家臣に与えることで、主従関係を成り立たせていました。これを商場知行制(あきないばちぎょうせい)といいます。
それまでの自由な取引から松前藩の独占となったことで、不利益を受けることになったアイヌの不満は次第に高まり、やがて寛文(かんぶん)9(1669)年にシャクシャインが戦闘を行いました。これを「シャクシャインの戦い」といいます。
松前藩は近隣の津軽(つがる)藩の協力を得て戦いの鎮圧に成功すると、以後アイヌは松前藩に全面的に服従することになりました。その後、18世紀前半頃には近江(おうみ、現在の滋賀県)の商人をはじめとする場所請負人(ばしょうけおいにん)が商場の経営を請け負うようになり、彼らからの運上金(うんじょうきん)が藩の財政を支えるようになりました。これを場所請負制(ばしょうけおいせい)といいます。
アイヌは和人商人に使われる立場となり、やがて交易をごまかされるなどの不利益を受けました。こうしたアイヌの人々の生活事情を改善しようとしたのが、18世紀後半に政治の実権を握った田沼意次(たぬまおきつぐ)だったのです。
以上のとおり、後の世で鎖国と呼ばれる時代にあっても、我が国は長崎(オランダ・清)・松前藩(蝦夷地)・薩摩藩(琉球)・対馬藩(朝鮮)の「4つの口」を通して世界とつながっていたことになります。
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