理由の第1は、キリスト教(=カトリック)の問題でした。幕府は始めのうちはカトリックを黙認していましたが、一神教(いっしんきょう)であるキリスト教の性質から、仏教や儒教(じゅきょう)との対立が深刻化しており、キリシタンと呼ばれた信者たちが団結して幕府に反抗する可能性もありました。
しかし、何よりも問題視されたのは、カトリックによる布教が、秀吉の時代から続いていた「我が国侵略の野望」と結びついていたことでした。また、また同じキリスト教でもカトリックを信仰していなかったイギリスやオランダが、自国の貿易の利益を守るために、カトリックに潜(ひそ)む領土的野心を幕府に警告していたのも大きく影響しました。
幕府は慶長17(1612)年に直轄領を対象として禁教令を出すと、翌慶長18(1613)年には全国に拡大し、高山右近(たかやまうこん)らの信徒を国外へ追放するなど、カトリックへの弾圧を本格的に開始しました。
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外国から「輸入する」ということは、その商品が我が国では手に入らなかったり、手に入ったとしても非常に高価だったりするのが普通です。と言うことは、輸入によって仕入れた商品は、相手がどんなに高価でも手に入れようとしたり、あるいは安く大量に手に入れたりすることによっても、結果的に大儲けにつながるというわけです。もちろん「輸出」の場合も理論的には同じです。
当時の貿易は、幕府だけではなく西国の大名も行っていました。大名が「おいしい」貿易を行って、その利益で強大な経済力と軍事力を持つことによって、幕府に反逆するようになることを恐れたのです。
元和2(1616)年、幕府はチャイナの船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に限定すると、寛永元(1624)年には宣教師の活動と関係が深かった、イスパニア船の来航を禁止しました。なお、その前の元和9(1623)年には、イギリスがオランダとの競争に敗れ、商館を閉じて撤退していました。
さらに寛永10(1633)年には、従来の朱印状の他に「老中奉書(ろうじゅうほうしょ)」という許可状を受けた「奉書船」以外の日本商船の海外渡航を禁止しました。これは、家康自身が発行したものも多かった朱印状の効力を取り消すことなく、老中のお墨付きという新たな条件を付けることで貿易を厳しく制限したものでした。
そして、寛永12(1635)年には日本人の海外渡航や在外日本人の帰国を全面的に禁止し、これによって朱印船貿易は終末を迎えました。また、この間にチャイナの船の寄港を長崎に限定したほか、長崎に出島(でじま)を築いてポルトガル人を移動させ、日本人との接触を制限しました。
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その後、有馬氏が日向(ひゅうが、現在の宮崎県)の延岡(のべおか)に領地替えとなり、幕領を経て松倉(まつくら)氏が新たに藩主となりました。
新たに藩主となった松倉勝家(まつくらかついえ)は、幕府に認められたいという意思があったのか、キリシタンへの厳しい弾圧を開始し、同時に農民への過酷(かこく)な年貢の取り立てを行いました。キリシタンから改宗しない者が雲仙岳(うんぜんだけ)の火口に放り込まれたり、年貢を納められない農民が蓑(みの)でしばりあげられ、生きたまま火を付けられるという「蓑踊り」と呼ばれた拷問(ごうもん)を加えられたりしました。
また、同じくキリシタン大名だった小西行長が関ヶ原の戦いで処刑された後に、唐津(からつ)藩が領有していた肥後(ひご、現在の熊本県)の天草(あまくさ)においても、藩主の寺沢堅高(てらざわかたたか)による農民への圧政とキリシタンに対する弾圧が続いており、島原や天草のキリシタンや農民たちは、日々追いつめられていきました。
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これに対し、幕府は板倉重昌(いたくらしげまさ)を島原へ派遣しましたが上手くいかず、板倉は翌寛永15(1638)年の旧暦元日に総攻撃をかけた後に討死しました。幕府は老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)を新たに派遣して、12万以上の軍勢で陸と海から原城を取り囲みました。
信綱は、オランダに頼んで大砲を原城めがけて砲撃しましたが、外国人の助けを借りることへの批判が高まって、すぐに中止されました。しかし、原城に立てこもった一揆勢にとっては、頼りにしていたキリスト教(=カトリック)のポルトガルからの救援が来ないどころか、プロテスタントのオランダが攻撃を仕掛けてきたことで、心理的に大きな影響を与えたのではないかと考えられています。
さて、先の総攻撃で、板倉など4,000人以上の死傷者を出した幕府側は、一揆勢に対して兵糧攻めの作戦に出ました。長引く戦いで兵糧や弾薬が尽きた一揆勢は、次第に苦しくなりました。
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しかし、信綱の動きを察した肥前藩の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が抜け駆(が)けをしたために、一日総攻撃が早まっただけでなく、指揮系統が乱れたことで幕府軍は混乱し、死者1,000人以上、負傷者を合わせれば1万人を超える被害を出してしまいました。
一方の一揆勢も壊滅(かいめつ)状態となって、天草四郎が討ち取られるなど、ほとんどが殺害されました。こうして島原の乱はようやく鎮圧されましたが、幕府が受けたダメージはかなり大きなものがありました。
なお、乱後に松倉勝家は領地を没収されただけでなく、大名としては異例の斬首刑に処せられ、寺沢堅高は唐津藩の領地のうち天草領を没収されると、ショックを受けたのか後に自害して、寺沢家は御家断絶になりました。また、抜け駆けした鍋島勝茂も罰を受けています。
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寛永16(1639)年、幕府はポルトガル船の来航を禁止して、カトリックを信仰する国とは国交を断絶しました。さらに2年後の寛永18(1641)年には、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、オランダ人と日本人との自由な交流も禁止するなど、長崎奉行の厳しい監視が続けられました。
この結果、我が国と貿易などの交渉を行ったのは、同じキリスト教でもプロテスタントを信仰し、我が国でキリスト教の布教をしないと約束したオランダと、同じ東アジアの国で、キリスト教とは無関係のチャイナ・朝鮮・琉球(りゅうきゅう)のみとなり、厳しい統制下による制限貿易の様子が、まるで国を閉ざしたように見えることから、後に「鎖国」と呼ばれるようになったのです。
なお、幕府によるキリスト教への弾圧はその後も続けられ、先述した寺請制度による宗門改めのほか、キリストやマリアの聖画像などを踏ませる「絵踏(えぶみ)」を行ったり、キリシタンの密告を奨励(しょうれい)したりするなどの政策を行いました。ちなみに、絵踏を行うために描かれた聖画像などは「踏絵(ふみえ)」と呼ばれています。
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最初に考えられるのは、鎖国の状態に入った頃の我が国は戦国時代が終わったばかりで、数十万の兵士や鉄砲が存在していたことでした。当時これだけの兵力や武器を所有している国は他になく、ヨーロッパ諸国といえどもそう簡単には攻められません。
また、この頃はヨーロッパ諸国において大きな変化があり、それまでのイスパニアやポルトガルの国力が衰える一方で、新たにイギリスやオランダが勢力を伸ばしつつありましたが、両国がカトリックを信仰していなかったことも我が国には良い結果をもたらしました。
さらには、当時の我が国が鉄砲の増産を可能とするなど先進的な文化を持っており、海外との結びつきがなくても自国だけで十分に経済や文化が発展できたことや、島国であるがゆえに、海という「天然の防壁」が我が国の防衛力を高めていたことも考えられます。
しかしながら、これは同時に、もし当時の我が国にとって「長所」となっていた様々な利点が失われてしまえば、一転して我が国は苦しい立場に追い込まれてしまうことも意味しました。そして、その不安は約200年後に現実のものとなってしまうのです。
(※第79回歴史講座の内容はこれで終了です。次回からは、リニューアルした通史の明治時代の更新の続編を開始します)
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