しかしその後、関ヶ原の戦いを経て新たな権力者となった家康の意向によって、第三皇子の政仁(ことひと)親王を新たに後継とされることになりましたが、後陽成天皇のご本意は弟にあたる八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王へのご譲位であり、天皇と良仁親王や政仁親王とのご関係は決して良くなかったと伝えられています。
慶長16(1611)年、後陽成天皇から譲位された政仁親王は直ちに即位され、108代の後水尾(ごみずのお)天皇となられました。このことは家康、すなわち江戸幕府の持つ強い権力は天皇をも交代させることができるという現実を天下に示したと同時に、朝廷が持つ伝統的な権威を幕府が自身のために利用するという意味も込められていました。
そして慶長20(1615)年、幕府は「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定して、幕府による朝廷への統制をより一層強めることになりました。
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また、皇室や摂関家(せっかんけ、摂政や関白に昇進できる家柄のこと)などの公家と大名家との通婚を禁じて、倒幕勢力と皇室との結びつきを断つと同時に、徳川家自身は積極的に公家から正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)である御台所(みだいどころ)を迎えることで、皇室と関係の深い徳川家に弓を引かせないようにしました。
さらに、御台所を通じて徳川家と親密になった摂関家が就任する関白の地位を、天皇の男子である親王より上位とすることで、摂関家によって間接的に皇室をコントロールすることも試みました。また、幕府は京都所司代を通じて朝廷に幕府からの指示を伝えられるように、公家から2人を選んで、幕府と朝廷との窓口となる武家伝奏(ぶけてんそう)に任じました。武家伝奏は京都所司代と連絡を取りながら、幕府の意向(すなわち命令)を朝廷に伝えました。
この他にも、朝廷の領地である禁裏御料(きんりごりょう)が幕府によってわずか1万石(後に3万石まで加増)と定められたり、本来であれば天皇自らが行うことのできる行為が禁中並公家諸法度によって制限されたりしたことで、やがて朝廷と幕府との関係が一気に緊張化する事件が起きました。
なお、同じく禁中並公家諸法度によって武家の官位、すなわち幕府が大名や旗本などに与える官位は朝廷からの官位とは別に定めることができるようになっていました。後に南町奉行となった大岡忠相(おおおかただすけ)が「越前守(えちぜんのかみ)」と名乗っていたのは、このことが由来です。
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なぜなら、これらは僧にとっての最高の栄誉であるとともに、朝廷にとっての収入源のひとつでもあったからです。しかし、後水尾天皇は幕府による規制を無視され、従来の慣例どおり独自に十数人の僧侶(そうりょ)に紫衣の勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)を与えられました。
後になって事実を知った将軍の徳川家光は激怒して、再調査を行ったうえで寛永4(1627)年に禁中並公家諸法度に違反した勅許を取り消し、紫衣の没収を命じました。これを「紫衣事件」といいます。
幕府の強硬な態度に対して朝廷や寺院は反発し、特に大徳寺(だいとくじ)の住職(じゅうしょく、寺の長である僧のこと)であった沢庵(たくあん)は激しく幕府に抗議しましたが、2年後の寛永6(1629)年に出羽(でわ、現在の山形県など)へ流罪となってしまいました。この事件によって「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」ことが嫌でも思い知らされることとなり、後水尾天皇も深く気分を害されました。
ちなみに、沢庵は現在のダイコンを漬(つ)けた「沢庵漬け」との関わりが深いとされ、吉川英治(よしかわえいじ)の小説「宮本武蔵(みやもとむさし)」での活躍ぶりも有名です。また、Osaka Metro谷町線のラインカラーが紫色なのは、沿線に四天王寺(してんのうじ)などの寺院が多いことから、僧侶にとって最高の栄誉である紫衣の色が由来になっています。
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通常であれば、お福のような無位無官(むいむかん)の人間が昇殿できるはずがありません。ところが、幕府はお福を無理やり公家の身内とし、従三位(じゅさんみ)の位と「春日局(かすがのつぼね)」の称号を与えたうえで、後水尾天皇への拝謁(はいえつ、身分の高い人に会うこと)を実現させました。
幕府の度重なる強引な手法に堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れた後水尾天皇は、同じ年に前将軍の徳川秀忠の娘との間にお生まれで7歳の興子内親王(おきこないしんのう)に、幕府に無断で譲位されました。奈良時代以来859年ぶりの女帝(じょてい)となる109代の明正(めいしょう)天皇のご誕生です。
突然の譲位に対して幕府は激怒しましたが、いくら何でも既(すで)に行われた譲位を幕府が取り消すことができるはずがありません。こうしてかつての藤原(ふじわら)氏や平家(へいけ)のように、徳川家が天皇の外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となった訳ですが、その裏には後水尾天皇の幕府に対する巧妙な意趣返(いしゅがえ)しがありました。
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さらには「女性天皇は終生独身」という不文律があったため、皇室における徳川家の血筋は明正天皇で途絶(とだ)えることになってしまったのです。
「葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」
上記の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を遺(のこ)された後水尾天皇は、4人の天皇の院政を続けた後に、延宝(えんぽう)8(1680)年に85歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されましたが、後に昭和天皇に破られるまでの歴代天皇の最長寿(神話の時代を除く)でした。なお、昭和天皇は記録更新の際に「当時の平均寿命の短さを考えれば後水尾天皇の方が立派な記録です」とお言葉されておられます。
ところで後水尾天皇の追号(ついごう)である「後水尾」は、天皇ご自身が生前にお決めになられたものでした。実は、この追号にも後水尾天皇の強いご意思が込められているのです。
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征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた源頼朝は清和天皇の血を引く「清和源氏」の子孫であり、室町幕府を開いた足利尊氏や、江戸幕府を開いた徳川家康も同じく清和源氏の子孫か、もしくは子孫と朝廷に認められています。
清和天皇は言わば「武家の棟梁の元祖」であり、後水尾天皇はお自らが「徳川家の上に立つ」というご意思でご自身の追号をお決めになられた可能性が高いのです。
ちなみに、後水尾天皇の父君である後陽成天皇の追号は、清和天皇の子であり、ご乱行(らんぎょう)のために若くして退位に追い込まれたと伝えられる陽成天皇にちなんで後水尾天皇が贈られました。
皇室にとって不吉ともいえる追号を、しかも親子関係を逆転(清和→陽成、後陽成→後水尾)させて贈ったことになりますが、この背景には先述した後陽成天皇と後水尾天皇との確執があるのかもしれません。
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