幕府は、産出した金銀を使用して貨幣(かへい)の鋳造権(ちゅうぞうけん)を独占して財政をコントロールするとともに、江戸や京都・大坂・長崎・堺などの主要都市を直轄とし、商工業や貿易を統制することで財源を確保しました。
設立当初の幕府は強大な軍事力を持っており、その主体となったのは将軍直属の家臣団である「旗本(はたもと)」や「御家人(ごけにん)」でした。彼らは1万石未満の直参(じきさん)と呼ばれ、将軍に謁見(えっけん、目上の人に会うこと)が許される旗本と、許されない御家人との身分の違いがありましたが、いずれも江戸に住み、石高や才能に応じて様々な役職に就(つ)きました。
なお、享保(きょうほう)7(1722)年の調査において、旗本は約5,200人、御家人は約17,400人いたとされています。これらに旗本の家臣を合わせて、俗に「旗本八万騎(はちまんき)」と称されました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
我が国では、古来の憲法十七条における「和の精神」に象徴されるように、何事も多数の人間の話し合いで決めるという傾向があります。このため、多数決の論理がもてはやされる一方で、トップダウンの独裁政治を嫌うという風潮が見られました。
そこで、家康は将軍の下に数人の年寄(としより)を置いて、彼らの合議制によって政治上の重要な決裁を行う方式を考案し、やがて家光の頃までには、年寄が「老中(ろうじゅう)」と名を変えて定着しました。こうしておけば、将軍は老中が決めたことを承認するだけで済み、将軍の資質に関係なく幕政がうまく機能するようになります。
また、この手法による政治が仮に失敗したとしても、その責任は決断した老中が持つことになり、将軍の名前には傷がつかないというメリットもありました。家康の没後に始められた「独裁者を出さないシステム」が定着したことで、幕政の安定化が図られることになったのです。
なお、老中の上には臨時職として「大老(たいろう)」が置かれることもあり、通常は重要事項の決定のみ合議に参加しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
一方、老中の下には「大目付(おおめつけ)」が置かれ、こちらは大名を監察しました。目付は若年寄の下に置かれて旗本・御家人を監察し、大目付は老中の下に置かれて大名を監察するのが業務でした。この二つは区別が非常にややこしいので注意が必要です。
幕政における実務の処理は、老中の下に置かれた寺社奉行(じしゃぶぎょう)・江戸の町(まち)奉行・勘定(かんじょう)奉行のいわゆる「三奉行」が担当しました。ちなみに、三奉行のうち寺社奉行のみが将軍直属であり、町奉行と勘定奉行は老中の下に置かれました。
これらの幕府の役職には原則として数名の譜代大名や旗本らが就任し、1か月で交代する月番(つきばん)交代制で政務が行われました。また重要な政務事項については、評定所(ひょうじょうしょ)において役職をまたいで合議されました。
なお、地方の組織としては京都所司代(きょうとしょしだい)を置いて朝廷の統制や西国大名の監視を行い、大坂や駿府には城代(じょうだい)が置かれました。また長崎や奈良・佐渡・日光(にっこう)などの要地には遠国(おんごく)奉行が配置され、幕領には関東・飛騨(ひだ、現在の岐阜県北部)・美濃などに郡代(ぐんだい)が、その他には代官(だいかん)が置かれました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
江戸時代初期の大名は、領国の一部を有力な家臣に分け与え、その支配を認める地方知行制(じかたちぎょうせい)が行われていましたが、やがて有力な家臣を城下町に集住させたうえで、領内全体を大名が直轄して蔵入地(くらいりち)とし、そこからの年貢を藩士に与えるという俸禄(ほうろく)制度が行われるようになりました。
こうして藩の体制を強化させた大名でしたが、彼らの領地は一代ごとに将軍から与えられるものであったことから、武家諸法度に違反したり、あるいは後継の子に恵まれず血統が断絶したりした大名は、領地没収を意味する改易や、領地の縮小を意味する減封(げんぽう)、あるいは領地の変更を意味する転封(てんぽう)などの厳しい処分を受けました。
江戸時代の初期には数多くの大名が改易処分を受けたことで大量の牢人が発生し、彼らの存在がやがて治安上の深刻な問題となっていきました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。