天正(てんしょう)10(1582)年に起きた本能寺(ほんのうじ)の変で信長が倒されると、家康は秀吉と争った後に従い、天正18(1590)年に北条(ほうじょう)氏が滅ぼされて秀吉が天下を統一すると、家康は北条氏の旧領である関東の諸国を秀吉から与えられ、約250万石を有する大大名になりました。その後、秀吉の晩年には五大老(ごたいろう)の筆頭となり、秀吉の死の直前に跡継ぎの豊臣秀頼(とよとみひでより)の将来を託されました。
しかし、家康には秀吉の遺言(ゆいごん)を守る意思はありませんでした。下剋上(げこくじょう)といわれた戦国の世のならいのままに、秀頼の後見人としての地位を利用しての専横ぶりが目立ち始めるようになったのです。
そんな家康の様子を苦々しく思っていたのが、秀吉の家臣であった石田三成(いしだみつなり)でした。三成は家康を倒して豊臣政権の安泰を図ろうとしたのですが、そんな彼には致命的な弱点があり、彼の決起はかえって豊臣家の将来に暗い影を投げかける結果をもたらしてしまったのです。
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しかしその一方で、自身が完璧であると確信していたことで、自己より能力が劣ると判断した相手には横柄に振る舞うという欠点もありました。特に軍事面に強い武将とは相性が悪く、自分と同じ秀吉の家臣であった加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)らと不仲となるとやがて対立し、三成が家康に対して兵を挙げると、彼らは家康に従うようになってしまうのです。
慶長(けいちょう)5(1600)年旧暦9月15日、家康率いる東軍と三成率いる西軍が美濃(みの、現在の岐阜県南部)の関ヶ原(せきがはら)で激突しました。両軍は一進一退の五分の戦いを続けていましたが、小早川秀秋(こばやかわひであき)が三成を裏切って家康側につくと形勢は一気に逆転し、三成はその日のうちに敗走しました。
世にいう「関ヶ原の戦い」に勝利した家康は、やがて西軍側の大名を次々と処分しました。例えば三成や小西行長(こにしゆきなが)らは京都で処刑され、宇喜多秀家(うきたひでいえ)が流罪(るざい)となるなど多くの大名が領地を没収されるとともに、西軍の総大将であった毛利輝元(もうりてるもと)や上杉景勝(うえすぎかげかつ)らが大幅に領地を削られました。
また豊臣家も、それまで所有していた金山などの豊富な資金源を徳川家に没収されたのみならず、大坂城を中心とする65万石の一大名に転落したことで、家康は豊臣家に代わって天下取りに名乗りを挙げるようになったのです。
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室町幕府が滅亡した後、信長は天下を統一する前に死亡し、秀吉は関白として公家(くげ)の一員となることで世の中を支配しようとしましたが、家康は武家の棟梁(とうりょう)として朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられるという、鎌倉幕府や室町幕府と同じ手法で天下を統一しようと考えました。
しかし、征夷大将軍を目指すといっても、かつての源頼朝(みなもとのよりとも)や足利尊氏(あしかがたかうじ)がそうであったように、源氏の血を引いていなければ将軍になれないという不文律(ふぶんりつ、文章で表現されていない法のこと)があったのですが、そこは抜け目のない家康は、自分が源氏の末裔(まつえい)であることを以前から朝廷に公認されていたのです。
かくして慶長8(1603)年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開き、天下取りに本腰を入れ始めましたが、当時はまだまだ豊臣家に従う大名が多かったので、家康は以後もじっくりと時間をかけて、徳川家の天下へと導くこととなります。
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これは、徳川家が以後も将軍職を世襲(せしゅう)することを天下に示すためであり、豊臣家への大きな牽制(けんせい)となりました。家康は駿府(すんぷ、現在の静岡)に移りましたが、前の将軍を意味する大御所(おおごしょ)として政治の実権を握り続けました。
やがて関ヶ原の戦いから10年以上が経過して、豊臣家恩顧(おんこ)の大名が次々と死亡する一方で、秀頼が成人して将来の徳川家に悪い影響をもたらすと判断した家康は、それまでの律義者の仮面を脱ぎ捨てて、なりふり構わぬ姿勢で豊臣家を追いつめました。
慶長19(1614)年、秀頼は家康の勧めで秀吉ゆかりの京都の方広寺(ほうこうじ)を再建し、新たに梵鐘(ぼんしょう)をつくったのですが、その銘文(めいぶん)に記載された文字が、その後の豊臣家の運命を暗転させることになりました。
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ところが、家康は「『君臣豊楽』と書いて豊臣家の繁栄を願う一方で『国家安康』と書くことで家康の名を二つに割って呪いをかけている」と言い出して、豊臣家を非難したのです。常識的に考えてそんな解釈はあり得ず、家康による言いがかりでしかなかったのですが、当時の学者などが次々と家康の説を支持したことによって、話が大きくなってしまいました。
豊臣家は、弁明の使者として家臣の片桐且元(かたぎりかつもと)を家康のもとへ送りましたが、家康が自分の激怒を理由に且元に会おうとしなかったため、且元は、そのまま当時家康が所在していた駿府に留め置かれました。
且元がいつまで経っても帰ってこないのを不審に思った豊臣家が別の使者を送ると、家康はすぐに面会して「豊臣家と対立する意思はない」と伝えて使者を返した後に、且元には、家臣を通じて自身の怒りを伝えたうえで「豊臣家が徳川家に逆らう意思がないのであれば誠意を示せ」と脅迫(きょうはく)したのです。
この結果、豊臣家は先に帰ってきた使者と且元とで、全く違う家康の考えを聞いたことになりました。疑心暗鬼に陥(おちい)った豊臣家は、且元を追放するなど混乱してしまい、それを好機と見た家康が豊臣家に宣戦布告しました。世にいう「大坂冬の陣」の始まりです。
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この作戦が功を奏して、家康は大坂城の外堀を埋めるという、徳川方にとって有利な条件で講和に持ち込むことに成功すると、その工事の際にドサクサに紛(まぎ)れて内堀まで埋めてしまいました。いかに巨大な大坂城といえども、堀がなくては裸も同然です。
翌慶長20(1615)年旧暦5月、再び徳川方に攻められた大坂城は、豊臣方の各兵の奮戦もむなしく落城し、秀頼と母親の淀殿(よどどの)が自害しました。世にいう「大坂夏の陣」です。この戦いの後、秀頼の子で8歳になる男子も後に捕えられて首をはねられ、豊臣家は完全に滅亡しました。
慶長19(1614)年から翌20(1615)年にかけての二度にわたる戦いは「大坂の役(えき)」とも呼ばれています。この戦い以降、徳川家に表立って対抗する勢力はいなくなり、江戸幕府は19世紀後半まで約260年以上も続きました。いわゆる「江戸時代」のことです。
なお、大坂の役によって豊臣家が滅び、戦国時代の到来から長く続いた大規模な軍事衝突が終了したことを、大坂夏の陣後に新たに定められた年号にちなんで「元和偃武(げんなえんぶ、偃武とは武器を収めるという意味)」といいます。
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さらに幕府は元和元(1615)年に「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を制定して、新たに城を築くことや勝手に城を修築することを禁止したほか、大名間の婚姻(こんいん)も幕府の許可を必要としたり、大名同士で相互に行動を監視することを命じたりするなどの厳しい統制を行いました。なお、この当時の武家諸法度は「元和令」とも呼ばれています。
武家諸法度に違反した大名に対して、幕府は厳罰に処しました。例えば、元和5(1619)年には福島正則が居城である広島城を幕府に無断で修築したことを秀忠に咎(とが)められ、領地の没収を意味する改易(かいえき)の処分を受けています。
元和9(1623)年、秀忠は子の徳川家光(とくがわいえみつ)に将軍職を譲ると、家康にならって大御所として影響力を持ち、幕府権力の基礎固めを続けるとともに、家光によって武家諸法度の一部が改正され、以後も将軍の代替(だいが)わりの度に少しずつ修正されました。
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また、関ヶ原の戦い以前から徳川家に従っていた旧来の家臣出身の大名は「譜代(ふだい)」と呼ばれ、関ヶ原の戦い以降に従った大名は「外様(とざま)」と呼ばれましたが、外様は領地こそ広かったものの、江戸から遠くに配置され、政治に参加できませんでした。
その一方、親藩や譜代は徳川家にとって防衛上などの重要な場所を領することが多く、また譜代の中からは幕府の政治の中心となって活躍した多くの大名が生まれましたが、彼らの領地は原則として10万石前後でした。
つまり、政治に参加して権力を与えられた者には財力を与えず、逆に政治に参加できずに権力を与えられなかった者に対しては、財力として広大な領地を与えたのです。これは、かつて守護大名が財力と権力とを同時に持っていたがゆえに、室町幕府の言うことを聞かなくなってしまったという失敗の教訓を生かした「大名の権力と財力との分散」でした。
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翌寛永12(1635)年には新たな武家諸法度となる「寛永令」を発布して、諸大名に妻子を江戸に残して人質としたうえで、江戸と国元(くにもと)とを1年おきに往復する「参勤交代」を義務づけました。参勤交代は大勢の配下を引き連れて長い道中を移動しなければならなかったことから、水陸交通の発達などをうながした一方で、諸大名は多大な出費を負担させられました。
この他にも「御手伝い普請(ぶしん)」と称して江戸城などの修築や各地の河川(かせん)などの土木工事を幕府が各藩に強要したことによって、多くの大名が経済的な負担に苦しむようになりました。なお「御手伝い普請」は「普請役(ふしんやく)」とも呼ばれています。
これは、諸大名に多大な負担を押し付けることによって、倒幕への軍備などを整えさせないようにするための作戦でもありました。かくして、家光の頃までに将軍と諸大名との主従関係が確立しましたが、将軍と大名、すなわち幕府と藩(はん)とによって全国を支配する体制を「幕藩(ばくはん)体制」といいます。
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幕府は、産出した金銀を使用して貨幣(かへい)の鋳造権(ちゅうぞうけん)を独占して財政をコントロールするとともに、江戸や京都・大坂・長崎・堺などの主要都市を直轄とし、商工業や貿易を統制することで財源を確保しました。
設立当初の幕府は強大な軍事力を持っており、その主体となったのは将軍直属の家臣団である「旗本(はたもと)」や「御家人(ごけにん)」でした。彼らは1万石未満の直参(じきさん)と呼ばれ、将軍に謁見(えっけん、目上の人に会うこと)が許される旗本と、許されない御家人との身分の違いがありましたが、いずれも江戸に住み、石高や才能に応じて様々な役職に就(つ)きました。
なお、享保(きょうほう)7(1722)年の調査において、旗本は約5,200人、御家人は約17,400人いたとされています。これらに旗本の家臣を合わせて、俗に「旗本八万騎(はちまんき)」と称されました。
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我が国では、古来の憲法十七条における「和の精神」に象徴されるように、何事も多数の人間の話し合いで決めるという傾向があります。このため、多数決の論理がもてはやされる一方で、トップダウンの独裁政治を嫌うという風潮が見られました。
そこで、家康は将軍の下に数人の年寄(としより)を置いて、彼らの合議制によって政治上の重要な決裁を行う方式を考案し、やがて家光の頃までには、年寄が「老中(ろうじゅう)」と名を変えて定着しました。こうしておけば、将軍は老中が決めたことを承認するだけで済み、将軍の資質に関係なく幕政がうまく機能するようになります。
また、この手法による政治が仮に失敗したとしても、その責任は決断した老中が持つことになり、将軍の名前には傷がつかないというメリットもありました。家康の没後に始められた「独裁者を出さないシステム」が定着したことで、幕政の安定化が図られることになったのです。
なお、老中の上には臨時職として「大老(たいろう)」が置かれることもあり、通常は重要事項の決定のみ合議に参加しました。
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一方、老中の下には「大目付(おおめつけ)」が置かれ、こちらは大名を監察しました。目付は若年寄の下に置かれて旗本・御家人を監察し、大目付は老中の下に置かれて大名を監察するのが業務でした。この二つは区別が非常にややこしいので注意が必要です。
幕政における実務の処理は、老中の下に置かれた寺社奉行(じしゃぶぎょう)・江戸の町(まち)奉行・勘定(かんじょう)奉行のいわゆる「三奉行」が担当しました。ちなみに、三奉行のうち寺社奉行のみが将軍直属であり、町奉行と勘定奉行は老中の下に置かれました。
これらの幕府の役職には原則として数名の譜代大名や旗本らが就任し、1か月で交代する月番(つきばん)交代制で政務が行われました。また重要な政務事項については、評定所(ひょうじょうしょ)において役職をまたいで合議されました。
なお、地方の組織としては京都所司代(きょうとしょしだい)を置いて朝廷の統制や西国大名の監視を行い、大坂や駿府には城代(じょうだい)が置かれました。また長崎や奈良・佐渡・日光(にっこう)などの要地には遠国(おんごく)奉行が配置され、幕領には関東・飛騨(ひだ、現在の岐阜県北部)・美濃などに郡代(ぐんだい)が、その他には代官(だいかん)が置かれました。
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江戸時代初期の大名は、領国の一部を有力な家臣に分け与え、その支配を認める地方知行制(じかたちぎょうせい)が行われていましたが、やがて有力な家臣を城下町に集住させたうえで、領内全体を大名が直轄して蔵入地(くらいりち)とし、そこからの年貢を藩士に与えるという俸禄(ほうろく)制度が行われるようになりました。
こうして藩の体制を強化させた大名でしたが、彼らの領地は一代ごとに将軍から与えられるものであったことから、武家諸法度に違反したり、あるいは後継の子に恵まれず血統が断絶したりした大名は、領地没収を意味する改易や、領地の縮小を意味する減封(げんぽう)、あるいは領地の変更を意味する転封(てんぽう)などの厳しい処分を受けました。
江戸時代の初期には数多くの大名が改易処分を受けたことで大量の牢人が発生し、彼らの存在がやがて治安上の深刻な問題となっていきました。
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しかしその後、関ヶ原の戦いを経て新たな権力者となった家康の意向によって、第三皇子の政仁(ことひと)親王を新たに後継とされることになりましたが、後陽成天皇のご本意は弟にあたる八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王へのご譲位であり、天皇と良仁親王や政仁親王とのご関係は決して良くなかったと伝えられています。
慶長16(1611)年、後陽成天皇から譲位された政仁親王は直ちに即位され、108代の後水尾(ごみずのお)天皇となられました。このことは家康、すなわち江戸幕府の持つ強い権力は天皇をも交代させることができるという現実を天下に示したと同時に、朝廷が持つ伝統的な権威を幕府が自身のために利用するという意味も込められていました。
そして慶長20(1615)年、幕府は「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定して、幕府による朝廷への統制をより一層強めることになりました。
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また、皇室や摂関家(せっかんけ、摂政や関白に昇進できる家柄のこと)などの公家と大名家との通婚を禁じて、倒幕勢力と皇室との結びつきを断つと同時に、徳川家自身は積極的に公家から正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)である御台所(みだいどころ)を迎えることで、皇室と関係の深い徳川家に弓を引かせないようにしました。
さらに、御台所を通じて徳川家と親密になった摂関家が就任する関白の地位を、天皇の男子である親王より上位とすることで、摂関家によって間接的に皇室をコントロールすることも試みました。また、幕府は京都所司代を通じて朝廷に幕府からの指示を伝えられるように、公家から2人を選んで、幕府と朝廷との窓口となる武家伝奏(ぶけてんそう)に任じました。武家伝奏は京都所司代と連絡を取りながら、幕府の意向(すなわち命令)を朝廷に伝えました。
この他にも、朝廷の領地である禁裏御料(きんりごりょう)が幕府によってわずか1万石(後に3万石まで加増)と定められたり、本来であれば天皇自らが行うことのできる行為が禁中並公家諸法度によって制限されたりしたことで、やがて朝廷と幕府との関係が一気に緊張化する事件が起きました。
なお、同じく禁中並公家諸法度によって武家の官位、すなわち幕府が大名や旗本などに与える官位は朝廷からの官位とは別に定めることができるようになっていました。後に南町奉行となった大岡忠相(おおおかただすけ)が「越前守(えちぜんのかみ)」と名乗っていたのは、このことが由来です。
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なぜなら、これらは僧にとっての最高の栄誉であるとともに、朝廷にとっての収入源のひとつでもあったからです。しかし、後水尾天皇は幕府による規制を無視され、従来の慣例どおり独自に十数人の僧侶(そうりょ)に紫衣の勅許(ちょっきょ、天皇による許可のこと)を与えられました。
後になって事実を知った将軍の徳川家光は激怒して、再調査を行ったうえで寛永4(1627)年に禁中並公家諸法度に違反した勅許を取り消し、紫衣の没収を命じました。これを「紫衣事件」といいます。
幕府の強硬な態度に対して朝廷や寺院は反発し、特に大徳寺(だいとくじ)の住職(じゅうしょく、寺の長である僧のこと)であった沢庵(たくあん)は激しく幕府に抗議しましたが、2年後の寛永6(1629)年に出羽(でわ、現在の山形県など)へ流罪となってしまいました。この事件によって「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」ことが嫌でも思い知らされることとなり、後水尾天皇も深く気分を害されました。
ちなみに、沢庵は現在のダイコンを漬(つ)けた「沢庵漬け」との関わりが深いとされ、吉川英治(よしかわえいじ)の小説「宮本武蔵(みやもとむさし)」での活躍ぶりも有名です。また、Osaka Metro谷町線のラインカラーが紫色なのは、沿線に四天王寺(してんのうじ)などの寺院が多いことから、僧侶にとって最高の栄誉である紫衣の色が由来になっています。
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通常であれば、お福のような無位無官(むいむかん)の人間が昇殿できるはずがありません。ところが、幕府はお福を無理やり公家の身内とし、従三位(じゅさんみ)の位と「春日局(かすがのつぼね)」の称号を与えたうえで、後水尾天皇への拝謁(はいえつ、身分の高い人に会うこと)を実現させました。
幕府の度重なる強引な手法に堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れた後水尾天皇は、同じ年に前将軍の徳川秀忠の娘との間にお生まれで7歳の興子内親王(おきこないしんのう)に、幕府に無断で譲位されました。奈良時代以来859年ぶりの女帝(じょてい)となる109代の明正(めいしょう)天皇のご誕生です。
突然の譲位に対して幕府は激怒しましたが、いくら何でも既(すで)に行われた譲位を幕府が取り消すことができるはずがありません。こうしてかつての藤原(ふじわら)氏や平家(へいけ)のように、徳川家が天皇の外戚(がいせき、母方の親戚のこと)となった訳ですが、その裏には後水尾天皇の幕府に対する巧妙な意趣返(いしゅがえ)しがありました。
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さらには「女性天皇は終生独身」という不文律があったため、皇室における徳川家の血筋は明正天皇で途絶(とだ)えることになってしまったのです。
「葦原(あしはら)や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」
上記の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)を遺(のこ)された後水尾天皇は、4人の天皇の院政を続けた後に、延宝(えんぽう)8(1680)年に85歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されましたが、後に昭和天皇に破られるまでの歴代天皇の最長寿(神話の時代を除く)でした。なお、昭和天皇は記録更新の際に「当時の平均寿命の短さを考えれば後水尾天皇の方が立派な記録です」とお言葉されておられます。
ところで後水尾天皇の追号(ついごう)である「後水尾」は、天皇ご自身が生前にお決めになられたものでした。実は、この追号にも後水尾天皇の強いご意思が込められているのです。
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征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた源頼朝は清和天皇の血を引く「清和源氏」の子孫であり、室町幕府を開いた足利尊氏や、江戸幕府を開いた徳川家康も同じく清和源氏の子孫か、もしくは子孫と朝廷に認められています。
清和天皇は言わば「武家の棟梁の元祖」であり、後水尾天皇はお自らが「徳川家の上に立つ」というご意思でご自身の追号をお決めになられた可能性が高いのです。
ちなみに、後水尾天皇の父君である後陽成天皇の追号は、清和天皇の子であり、ご乱行(らんぎょう)のために若くして退位に追い込まれたと伝えられる陽成天皇にちなんで後水尾天皇が贈られました。
皇室にとって不吉ともいえる追号を、しかも親子関係を逆転(清和→陽成、後陽成→後水尾)させて贈ったことになりますが、この背景には先述した後陽成天皇と後水尾天皇との確執があるのかもしれません。
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寺院に対しては、その宗派ごとに寺院法度(じいんはっと)を発令し、本山(ほんざん)や本寺(ほんじ)の地位を保障するとともにその下に末寺(まつじ)を組織して、全体に対して厳しく統制しました。これを本末(ほんまつ)制度といいます。
その後、4代将軍の徳川家綱(とくがわいえつな)の頃の寛文(かんぶん)5(1665)年には、宗派に関係なく寺院や僧侶全体を共通に統制するために諸宗(しょしゅう)寺院法度を出し、同年には神社や神職(しんしょく)に対しても同じように統制するために諸社禰宜神主(しょしゃねぎかんぬし)法度を発令しています。
なお、江戸幕府の設立の以前からキリスト教(=カトリック)に対する弾圧が厳しくなっていました。その詳細はいずれ後述しますが、幕府はカトリックの禁止を確実なものとするために、寛文4(1664)年に「寺請(てらうけ)制度」を設けました。
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この制度によって、国民は必ず周辺のどこかの寺院の檀家(だんか)にならねばならず、寺院への参詣(さんけい)や父祖(ふそ)の法要、あるいは付け届けを義務付けられ、これらに応じなければキリシタンとみなされるようになってしまいました。
檀家として登録された国民は原則として離脱を許されず、また婚姻や転居の際には所属する檀那寺(だんなでら)の証明書である寺請証文(てらうけしょうもん)が必要とされました。このように、すべての国民が信仰する宗教を幕府が把握(はあく)することで、カトリックの禁止を徹底させたのです。なお、寺請制度は別名を「檀家制度」あるいは「寺檀(じだん)制度」とも呼ばれています。
ところで、この頃までにカトリック以外にも幕府によって禁止とされた宗教があることを皆さんはご存知でしょうか。それは日蓮宗(にちれんしゅう)の不受不施派(ふじゅふせは)です。
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