こうした流れは庶民(しょみん)の生活にまで及び、いわゆる文明開化が花開いたほか、条約改正のために鹿鳴館(ろくめいかん)を建設して、連日のように舞踏会を開くなどの欧化主義にも走るようにもなりました。
しかし、こういった古来の我が国の伝統を軽視する風潮は明治20(1887)年前後になると治まり、自国の歴史や文化に目を向けるようになりました。例えば、徳富蘇峰(とくとみそほう)は民友社(みんゆうしゃ)を設立して「国民新聞」や雑誌「国民之友(こくみんのとも)」を発刊し、政府による欧化主義を貴族的欧化主義であると批判して、平民による近代化と産業社会の建設を目指した平民主義を主張しました。
その後、三国干渉に大きな衝撃を受けるとともに国際社会の現実を知った蘇峰は、以後は国家主義へと転じ、生涯を費やした代表作である「近世日本国民史」を著しました。
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また、陸羯南(くがかつなん)は新聞「日本」を発行し、政府による安易な欧化主義や外国人判事の任用など、欧米に妥協的な条約改正の交渉を批判しましたが、これらの考えは、対外的には欧米列強に対する我が国の独立を、対内的には国民的自由の確立を主張したものであり、国民主義と呼ばれました。
ちなみに、歴史教科書によっては徳富蘇峰らを平民的欧化主義、三宅雪嶺・志賀重昂・杉浦重剛・陸羯南らを近代的民族主義と定義しています。
この他、高山樗牛(たかやまちょぎゅう)は雑誌「太陽」で日本主義を唱え、我が国古来の伝統・文化・精神を重視して、国家の繁栄を目指すべきであると主張しましたが、こうしたナショナリズムは明治中期における思想界の主流となりました。
なお、杉浦重剛は皇太子時代の昭和天皇に倫理のご進講を行ったことでも知られています。また、陸羯南は正岡子規(まさおかしき)を育てたことで有名です。
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仏教界では、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐による大きな打撃から次第に立ち直りつつありました。浄土真宗の僧侶(そうりょ)であった島地黙雷(しまじもくらい)は、政府の大教宣布(たいきょうせんぷ)の政策に反対し、信教の自由の立場から仏教の復興を目指しました。
キリスト教は、札幌農学校を創設したクラークなどの来日した外国人教師による熱心な布教によって青年知識人を中心に広がりを見せ、内村鑑三(うちむらかんぞう)・海老名弾正(えびなだんじょう)・新渡戸稲造(にとべいなぞう)らのキリスト教思想家が活躍するようになりました。
内村らは信教の自由や人格の尊厳、あるいは神の前の平等などを唱えましたが、これらの考えは我が国における個人主義や社会主義などの近代思想や文学の発達に多大な影響を与えました。
なお、キリスト教会はその布教のかたわらに、人道主義の立場から教育・福祉活動や廃娼(はいしょう)運動にも力を入れています。
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