清盛が活躍する以前から各地で武士が誕生し、その武力を高めることによって地方を中心に武士が世の中を支えるようになりましたが、そんな彼らには大きな悩みがありました。
平安時代の頃までには、それまでの公地公民の原則が完全に崩壊して、荘園制度が全盛期を迎えていましたが、この制度には大きな欠陥がありました。それは、荘園の所有が上流貴族や寺社のみに認められていたということです。
実際に田畑を耕(たがや)しているのは他ならぬ武士たちなのですが、朝廷は彼らの所有を認めようとしませんでした。困った武士たちは、仕方なく摂関家などの有力者に土地の名義を移し、自らは「管理人」の立場となりましたが、これほど不安定な制度はありません。
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そんな折に、清盛率いる平氏が政治の実権を握ることに成功したことで、自分たちと同じ武士である平氏であれば、必ずや「武士のための政治」を実現してくれるに違いない、と全国の武士たちが期待したのです。
ところが、祖父の平正盛(たいらのまさもり)の代から皇室や貴族と接することの多かった清盛には「武士のための政治」がどのようなものであるかが理解できませんでした。明確なビジョンを持っていなかったゆえに、清盛は摂関家と同じやり方で政治を行う以外に手段がなかったのですが、結果的にこれが大失敗でした。
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なぜなら、平氏が摂関家の真似をしただけでは、武士たちの立場に全く変化がなかったからです。人間というものは期待が大きければ大きいほど、裏切られた場合の怒りが大きくなるものですが、この頃の武士たちも例外ではなく、平氏への期待が大きかっただけに「同じ武士なのに、なぜ俺たちの思いが分からないのか」と余計に不満を持つようになりました。
武士として初めて政治の実権を握った平氏は、当時の国民の代表たる武士たちの共感を得ることができませんでした。いくら武力など強引な手段で世の中を統治したところで、国民の理解が得られなければ、その支配は絶対に長続きできないのです。
平氏の場合も決して例外ではなく、やがて「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現れたことで、全盛期には「平家に非(あら)ずんば人に非(あら)ず」とまでいわれた平氏の天下が、あっという間に崩れ去ってしまいました。
では「武士のための政治」とは一体どのようなものなのでしょうか。そして、平氏にかわって政治の実権を握った勢力には、なぜ「武士のための政治」が理解できたのでしょうか。
そのカギを握る人物こそが、かつて清盛が生命を助けた源頼朝(みなもとのよりとも)なのです。
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それまでの御曹司の立場から、いきなり「流人(るにん)」の扱いを受けた頼朝の暮らしは決して楽ではありませんでしたが、伊豆で様々な体験を積み重ねることによって、頼朝は武士たちの日常の生活やその願いなどがよく分かるようになっていました。
要するに、頼朝は若い頃に武士としての「実地訓練」を積んでいたのです。やがて頼朝が平氏打倒に立ち上がると、当初は苦戦したものの次第に武士たちの同意を得ることができました。
なぜなら、平氏に一度「裏切られた」かたちとなった武士たちが、自分と同じ経験をした頼朝であれば、今度こそ期待に応えてくれるに違いないと判断したからです。
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清盛と頼朝の例からわかるように、当時の多くの国民の願いをかなえるといった「明確なビジョン」を持ってこそ、初めて天下取りへの道が開けるのですが、信長と光秀の場合はどうだったでしょうか。
本能寺の変が起きる10年以上も前に、信長は美濃を攻略した段階で自身の印判に「天下布武(てんかふぶ)」と記していました。天下布武とは「天下に武を布(し)く」、すなわち「武力によって天下を支配する」という意味が込められており、自分の最終目的が天下統一であることを高らかに宣言したのです。
その他にも早くから兵農分離を行ったり、徹底した城下町の建設や、いわゆる「楽市楽座」の政策を行ったりするなど、天下取りに向けての「明確なビジョン」を描き、力強く我が道を歩んだ信長のような行動に対して、光秀の半生を振り返った際に、彼が「信長の後継者」として同じような政策を実行できたとは到底思えません。
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光秀は信長を討つことができたものの、何のビジョンも持たず、魔が差したかのようにいきなり単独で行動に及んだゆえに、彼に味方をしようとする武将はついに現れませんでした。そのうえ、中国地方から常識で考えられないスピードで「大返(おおがえ)し」してきた秀吉軍と、京都の山崎(やまざき)で戦うことになりました。
旧暦6月12日、光秀軍を兵力で上回る秀吉軍は、京都と大坂を結ぶ要衝(ようしょう)である天王山(てんのうざん)を抑えると、翌13日には光秀軍を攻め立てました。光秀もよく戦いましたが、結局は兵力の差が最後まで響いて大敗し、本拠地の坂本へ向かって敗走しました。
なお、天王山を抑えたことで秀吉軍が有利になったことから、勝負を決する大事な場面のことや、勝負の分岐点のことを「天王山」と表現するようになりました。
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いずれにせよ、山崎の戦いによって、戦国武将としての明智光秀は滅びました。信長によって引き立てられ、大名にまで出世した光秀は、その大恩ある信長を討ち取ったことで「謀反人」という汚名をかぶることになってしまいました。
「三日天下」「洞ヶ峠」「天王山」など現代でも使用される言葉とともに、光秀の名前は我が国の歴史に永遠に残ることになったのです。
ところで、我が国における数々の歴史を振り返れば、まるで何かにとりつかれたかのように一つのことを成し遂げ、それが果たされた暁(あかつき)には、遠からず自らの生涯に幕を閉じてしまうという人物が存在します。
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また、鎌倉幕府8代執権の北条時宗(ほうじょうときむね)は、執権の就任とほぼ時を同じくして元(げん)との外交関係に悩まされ、二度にわたる元寇(げんこう)を勝ち抜いたものの、その後に重い病となり、34歳の若さで死亡しました。
義経は「平氏を滅ぼすため」に、時宗は「元寇を勝ち抜くため」に生まれ、そして死んでいったとも言えそうですが、彼らの活躍があったからこそ、我が国の歴史は大きく変化し、現代につながっていることは間違いありません。
私には、明智光秀という男が「織田信長が我が国の新たな歴史を形づくるのを助けるとともに、信長自身が我が国にとって不要となった際に始末をつける」ために、八百万(やおよろず)の神々がこの世にもたらしたとしか思えないのです。
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さらに、晩年の信長は先述のとおり猜疑心(さいぎしん)の塊(かたまり)となっており、周囲に様々な問題をもたらしていました。
我が国の歴史を大きく変革した功績を持つ信長ではありましたが、一つ間違えればとんでもない方向へと暴走しかねなかった彼の人生に突然幕を下ろしたのが明智光秀であり、そして役割を終えた光秀自身もこの世から「退場」したのです。
明智光秀というひとりの人間のとった行為が、我が国の、いや世界の歴史にどれほど影響を与えたのか、計り知れないものがあります。それだけに、謎に包まれたままの彼の行動は、いつまでも私たちの胸の中に永遠に残ることでしょう。
(※第78回歴史講座の内容はこれで終了です。次回からは、リニューアルした通史の明治時代の更新の続編を開始します)
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