当時の光秀は信長の命令で秀吉の毛利家征伐の先導を任され、少なくとも一万数千人の軍勢を率いて領国の丹波から出陣していました。丹波から中国地方に向かおうとすれば、その途中で京都を通過したとしても決しておかしくはありません。
しかし、一万を超える軍勢が京都に入れば、信長もすぐに気付いて警戒を強めたと考えたほうが自然ですが、現実にはそうはなりませんでした。その理由として「二つ目の偶然」があるのです。
本能寺の変が起きたのは天正10(1582)年旧暦6月1日から2日にかけての深夜ですが、当日は「新月」でした。この日の月(つき)は太陽と同じ方向にあり、地球に暗い半面を向けるので、全く見えません。要するに当日は「闇夜」であったことから、夜陰(やいん)に乗じて光秀が本能寺の近くまで兵を動かすことが可能だったのです。
ですが、信長も歴戦の強者(つわもの)です。不意を突かれても光秀相手に堂々と戦い、打ち破っても決しておかしくないはずが、それが不可能だった理由が「三つ目の偶然」でした。
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かくして信長を討ち取り、天下取りに名を挙げた光秀でしたが、その後の展望については現代でも不明のままです。わずか10日余りで死んでしまったゆえの事情もありますが、それ以上に、彼にとっては「身内」ともいえる武将の裏切りが大きく響きました。
光秀には先述の細川藤孝という親友がいました。藤孝の息子である細川忠興(ほそかわただおき)は、光秀の娘である珠(たま、別名を「ガラシャ」)を嫁に迎えており、光秀は藤孝が当然自分の味方をしてくれるものと信じていました。
しかし、光秀の期待に反して藤孝・忠興父子は光秀の誘いを断り、藤孝は髪を切って出家し、忠興は珠を領国内に閉じ込めてしまったのです。驚いた光秀は自筆の書状で説得しましたが、受けいれられませんでした。
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細川藤孝・忠興父子にせよ、筒井順慶にせよ、彼らが動かなかったのには大きな理由がありました。それは、本能寺の変が「光秀自身によって単独で行われた」からです。
本能寺の変については、昔からいわゆる「黒幕」の存在が有力視されてきました。前述の羽柴秀吉や徳川家康(とくがわいえやす)、前将軍の足利義昭や朝廷、中にはカトリックのイエズス会の存在を挙げる人もいますが、私はこれらの「黒幕」がいたとは考えてはおりません。
もし黒幕の存在があれば、例えば光秀が細川藤孝・忠興父子に送った書状の中でその名前を書くことによって、細川父子に味方につくように説得できたかもしれませんし、また前述の毛利家に対しても、黒幕の存在を事前にほのめかして秀吉軍を釘付けにできるように依頼できたはずです。もしこれらが実現していれば、光秀がわずか10日余りで討たれてしまうようなこともなかったでしょう。
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信忠には京都を脱出して岐阜や大坂に向かい、父親の仇を討てるチャンスが実はあったのです。しかし、父親の救援などに時間をとられているうちに光秀軍に攻められてしまい、最期には逃げ切れずに自害しました。
信忠を生かしておいては、せっかく信長を倒しても光秀の天下取りに支障が出るのは必至ですし、何よりも黒幕が存在していれば、信忠の寝所を囲まないという大失態を光秀にさせるはずがありません。この点からも、本能寺の変は「光秀の単独犯行」と断定できるのです。
さらには、仮に黒幕がいたとして、事前に信長の暗殺が計画されたとすれば、おそらく本能寺の変は実現しなかったと考えられます。なぜなら、信長という人物は稀代(きだい)の「逃げ上手」だからです。
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通常であれば、それまでの軍功を惜しんで立ち往生するところを、自分の生命のほうが大事と冷静に判断した信長の的確な判断でした。後に天下を取った豊臣秀吉が、信長を評して「兵5,000人のうち4,900人が戦死しても、残りの100人の中に信長公はきっとおられる」と語っています。
「逃げ上手」であるうえに、諜報(ちょうほう)、いわゆるスパイの能力も抜きん出ていた信長ですから、自己の暗殺計画が立てられていれば、必ず事前に察知して逃げおおせた可能性が極めて高いと考えられます。
だからこそ、光秀が信長の暗殺を事前に計画していなかったうえに、いくつもの偶然が重なったことで単独で行動したことによって、光秀は信長に気付かれず、また逃げられることもなく討ち果たすことが初めて可能となったのです。
かくして、まさに「魔が差した」ゆえの「単独行動」で本能寺の変を起こした光秀でしたが、そんな彼にはもう一つの「致命的な欠陥」がありました。それは、光秀は信長のような「天下統一に向けての明確なビジョン」を持ち得なかったということです。
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