しかし、人間というものは、いくら物量や恩で満足していても、気持ちの中で何がしかの不信感を持ってしまうことがよくあるものです。それは光秀とて例外ではなく、信長の見せた行動の中から「このままでは信長様についていけない」と思わせる「何か」が芽生えた可能性が高いのです。
では、光秀に不信感を与えた信長の行動とは何だったのでしょうか。
ところで、皆さんは若い頃の信長が「非常に甘い」武将であったことをご存知でしょうか。何度も裏切ろうとした実弟の織田信行(おだのぶゆき)を殺害したことを除いては、一時は信長に逆らった武将であっても助命しているからです。例えば、信行側についた柴田勝家(しばたかついえ)らも許していますし、美濃の斎藤氏を滅ぼした際も、当主の斎藤龍興(さいとうたつおき)は追放されただけでした。
しかし、妹の婿(むこ)であり、絶対的な信頼を寄せていたはずの浅井長政の裏切りにあってからは、信長の人格が大きく変化していったと考えられるのです。例えば、浅井長政を滅ぼした後に、父の浅井久政(あざいひさまさ)や朝倉義景とともに、そのドクロを漆塗(うるしぬ)りにして金粉をまぶした薄濃(はくだみ)にして、それらを肴(さかな)に酒を飲んだ、という記録が残っています。
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こうした信長の姿勢は、天下統一が近づいて自分に正面切って敵対する人間が少なくなった1570年代の後半からより顕著に、そしてよりエスカレートしていきました。古今東西の絶対的な権力者の誰しもが陥りがちな「独裁者の罠(わな)」に、信長も嵌(はま)ってしまったのです。
例えば天正8(1580)年、信長は古来の重臣であった佐久間信盛(さくまのぶもり)や林通勝(はやしみちかつ)を、過去の不行跡(ふぎょうせき)を理由に突然追放しており、天正10(1582)年旧暦4月には、自分が安土城を留守にしている間に無断で外出した侍女たちを残らず殺害するという事件も起こしています。
信長による猜疑心(さいぎしん)に満ちた行動に対して、家臣たちは「明日は我が身か」とおびえるとともに、信長の手法についていけないという考えを持つようになりましたが、その中のひとりに光秀がいたのです。
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正親町天皇は信長に信頼と期待を寄せておられたとされ、天正5(1577)年には信長に右大臣を宣下(せんげ、天皇の命令を伝える公文書を公布すること)されました。
一方、信長は天正9(1581)年に京都において天皇ご臨席のもとで、一種の軍事パレードともいうべき「馬揃(うまぞろ)え」を行っており、これは信長が自分の力を周囲に誇示するためだったというのが通説とされていますが、その一方で「朝廷に対する圧力」もあったとされています。
光秀は早くから朝廷や公家と通じ、交渉役として奔走(ほんそう)してきましたが、信長の朝廷に対する数々の姿勢は、そんな自分の今までの血のにじむような努力を無にしてしまいかねない、とんでもないものに見えました。
光秀に朝廷に対する尊敬の思いがあったかどうか定かではないですが、少なくとも自己の努力を否定しかねない信長の行動に対しては「ついていけない」と不信感を抱くようになったと考えられます。
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しかし、これらの「ついていけない」思いだけで、光秀が信長への謀反を決意したのみならず、実際に行動したとは断定できそうもありません。不信感は確かに募(つの)っていったでしょうが、それが確実に主君への裏切りを決意させ、さらに行動に移した「何か」があったとは考えられないでしょうか。
ところで、一つの事件が起きた後に実行犯を捜索(そうさく)する際の名言に「事件後に一番得をした者を疑え」というものがあります。この格言を「本能寺の変」に当てはめれば、誰が一番得をしたといえるでしょうか。
羽柴秀吉の名前が真っ先に浮かびそうですが、彼はむしろ「被害者」になりかけています。光秀の毛利家に対する使者が秀吉側に捕まったことによって、秀吉は信長が暗殺されたことを初めて知りました。その後、急いで毛利家と講和して引き返しましたが、もし毛利家が信長暗殺を先に知っていれば、彼は中国地方に釘付けになっていたことでしょう。そんなリスクの高いことを秀吉が行うとは考えられません。
本能寺の変によって一番得をしたのは、実は四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)でした。信長はそれまで講和を結んでいた長宗我部元親を征伐する決意を固め、三男の織田信孝(おだのぶたか)や家臣の丹羽長秀(にわながひで)らに攻めさせる準備をしていました。しかし、その直前に本能寺の変が起こったため、元親は滅亡を免れたのです。
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こうした長年の苦労で磐石(ばんじゃく)になったはずの同盟関係を反古(ほご)にされたばかりでなく、家臣の縁戚とその子を討たれる立場になった光秀は激しく動揺しました。
「信長様の考えにはもはやついていけない」。従来の秩序こそが正しいと考え、信長の行動が理解できなかった光秀の中に芽生えた不信感がついに頂点に達し、主君への裏切りを決意させました。しかし、相手は何と言ってもあの「信長」であり、容易に勝てる相手ではありません。
しかし、光秀は実際に「本能寺の変」を起こし、敗れた信長を自害させました。なぜ彼は困難が予想された裏切りを成功させたのでしょうか。
その背景を探ることで、私たちは光秀という人物に課せられた「運命」を知ることになるのです。
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