やがて越前(えちぜん、現在の福井県東北部)の大名であった朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕えて、後に室町幕府15代将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)が朝倉氏を頼ると、光秀は義昭の側近であった細川藤孝(ほそかわふじたか)と親しくなりました。この二人が厚い友情で結ばれていたことは、後に大きな歴史の流れにつながります。
義昭は義景に対して自らを上洛(じょうらく、京都へ向かうこと)させるよう希望しましたが、義景がいつまで経っても越前を動かないため、やがて義昭は織田信長を頼るようになりました。信長は美濃(みの、現在の岐阜県南部)を統一した後に上洛し、義昭を将軍に立てることに成功しましたが、この頃までに光秀は信長の家臣になったと考えられています。
光秀には、和歌や茶の湯をよくするという教養人の一面がありました。和歌が詠(よ)めた光秀を前面に立てることで、武勇ばかりで教養面に欠けるところが多かった織田家が、朝廷や公家(くげ)とのコミュニケーションを取ることが可能となったのです。
このため、信長は光秀に朝廷との交渉を任せるなど次第に重用しましたが、こうした流れが信長の「大ピンチ」を救うとともに、光秀の「大出世」をもたらしたことを皆さんはご存知でしょうか。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ここで信長の立場で考えてみましょう。管領や副将軍を引き受けるということは、信長が室町幕府の組織の一員に、もっといえば義昭の家来になるということを意味します。信長の最終的な目標は「自身による天下統一」ですから、いずれは義昭を見限るつもりでしたし、現実にそうなりました。しかし、その際にもし彼が管領や副将軍であったとすれば、主君に対する裏切りという重罪を犯してしまうことになります。
いくら戦国の世とはいえ、主(あるじ)に対する謀反(むほん)というのはダメージが大きく、後の天下取りにも影響を及ぼすのは避けられません。だからこそ、信長は義昭の誘いを断り、その代わりに我が国最大の貿易港の一つであった堺をおさえるために、和泉の支配を義昭に認めさせたのでした。堺を我が手にしたことによって、信長はこの後、貿易などの経済面において他の戦国大名よりも大きく優位に立つことになります。
さて、義昭が将軍になったばかりの頃の二人の関係は良好でしたが、信長は次第に義昭を圧迫するようになっていきました。やがて信長の本意を悟った義昭は激怒して、信長を倒すべく様々な作戦を練り始めました。
後の世に「信長包囲網(ほういもう)」と名付けられた、信長にとって人生最大のピンチが訪れようとしていました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
ところが、まさに好事魔多(こうじまおお)し。信長の義理の弟で最も信頼を寄せていた武将であった浅井長政(あざいながまさ)が、信長を裏切って北近江(きたおうみ、近江は現在の滋賀県)から攻め寄せるという驚くべき情報がもたらされたのです。
予想もしなかった事態に、さすがの信長も気が動転しました。越前と北近江から挟(はさ)み撃(う)ちにあってしまえば、いくら信長でも勝てるわけがありません。しかもその危機は確実に訪れようとしており、もう時間が残されていませんでした。
考えた末に「逃げる」ことを選択した信長は、わずかな手勢とともに金ヶ崎を脱出すると、駆けに駆けて一目散に京を目指しました。朝倉氏と浅井氏による包囲網から辛くも逃れた信長は、数日のうちに京に戻ることができましたが、その供はわずか10人ばかりであったと伝えられています。
後の世に「金ヶ崎の戦い」と呼ばれたこの戦(いくさ)において、光秀は羽柴秀吉らとともに困難な殿(しんがり)を無事に務め上げ、名声を高めることに成功しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
息を吹き返した浅井・朝倉の軍勢は京を目指しましたが、信長に阻(はば)まれると比叡山(ひえいざん)に立てこもって反撃の機会を待ちました。浅井・朝倉軍を匿(かくま)ったということは、比叡山の延暦寺(えんりゃくじ)が信長を敵とみなしたことを意味しており、信長はここでも衝撃を受けました。
さらに信長を悩ませたのが、いわゆる「三好(みよし)三人衆」といわれた三好氏の勢力が摂津(せっつ、ここでは現在の大阪市付近のこと)で挙兵すると、本願寺(ほんがんじ)が三人衆に味方したという事実でした。つまり、信長は戦国大名の他に、延暦寺や本願寺といった強大な宗教勢力をも敵に回して戦わなければならなくなったのです。
浅井・朝倉軍は比叡山に登ったまま動こうとはしませんでしたが、もし信長が京から離れればすぐにでも占領できる距離にいたために、信長自身も京から動くことができず、そうこうしている間に本願寺が率いる伊勢長島(いせながしま、現在の三重県桑名市付近)の一向一揆(いっこういっき)の動きが活発となり、伊勢の長島城や尾張の小木江城(こきえじょう)を次々と落としました。
このうち、尾張の小木江城は信長の弟が守っていたのですが、最後には自害に追い込まれました。京を動けぬ信長は、可愛がっていた弟が一向一揆によって滅ぼされていくのを、それこそ指をくわえて黙って見ていることしかできなかったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
それにしても、信長が最大の窮地(きゅうち)に陥(おちい)っていた際に、なぜ都合良く「和睦」が成立したのでしょうか。
まず考えられるのは、兵農分離していない朝倉軍の都合でした。雪深い越前は真冬になると身動きが取れなくなるので、来春の農作業を確実に行わせるためにも帰国を急いでいたからです。一方の信長軍は早くから兵農分離を達成しており、いつでも兵を動かすことができるという大きなメリットがありました。
しかし、それだけの理由で和睦が成立するとは考えられません。ここはやはり、普段から朝廷や公家と太いパイプを持っている光秀が裏で工作していたと考えるほうが自然ではないでしょうか。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
包囲網が連携(れんけい)することを防いだ信長は、同年旧暦9月12日に信長に抵抗を続けた比叡山の焼き討ちを敢行しました。長い歴史を誇った延暦寺は業火(ごうか)に焼かれ、逃げまどう多くの僧侶(そうりょ)のみならず、女人禁制のはずなのになぜか存在した女性やあるいは子供までもが容赦なく首をはねられました。
そして、この焼討ちにおいても戦功を挙げた光秀に対し、信長は近江の一部を彼に与え、坂本城(さかもとじょう)を築かせて京都や比叡山の抑えとしました。
信長の多くの家臣団の中で、浪人から新規に取り立てられてわずか数年しか経っていないにもかかわらず、光秀は早くも「一国一城の主」になったのです。しかも同じように浪人から採用された秀吉よりも出世が早かった(秀吉が同じ立場になるのは2年後です)わけですから、信長の光秀に対する厚遇ぶりと、光秀の信長に対する感謝の思いがよく分かります。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
その後も光秀は各地を転戦して武功を挙げ、前述の丹波も領地に加えました。地図を見れば分かりますが、丹波は京都のある山城(やましろ、現在の京都府南部)の真上にあります。つまり、信長は全国統一に向けて戦略上重要な位置にある国を光秀に一任しているのです。
また、信長は自分の家臣をいくつかの軍団に分け、それぞれに地方の攻略を命じていましたが(例えば羽柴秀吉は中国地方を担当)、光秀は「遊軍(ゆうぐん、待機している軍勢のこと)」として常に自分の手元においていました。
手持ち無沙汰(ぶさた)のようにも見える遊軍ですが、有事の際には各武将の援護のために真っ先に駆けつけるわけですから、攻撃力も防御力も同時に備えていなければなりません。そのような難しい軍団を、信長は光秀を信頼して任せていたのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」が始まりました。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※平成28年4月13日(水)創刊!無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。



いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。