この言葉を知っている人は、歴史ファンに限らず非常に多いのではないでしょうか。天正(てんしょう)10(1582)年に起きた「本能寺(ほんのうじ)の変」。この大事件によって、我が国の歴史は間違いなく激変しました。
その「主役」の一人は、もちろん討たれた織田信長(おだのぶなが)ですが、信長を討った明智光秀(あけちみつひで)も、本能寺の変によって我が国の歴史に永遠にその名を残しており、令和2(2020)年にはNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で主人公となりました。
しかし、これだけの大事件にもかかわらず、本能寺の変において「光秀がなぜ信長を討とうとしたのか」という動機が現代に至るまで解明されておらず、日本史、いや世界の歴史全体からしても最大のミステリーのひとつとされています。
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また、光秀が信長を討って天下取りに事実上名乗りを挙げたにもかかわらず、わずか10日余り後に羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉=とよとみひでよし)率いる軍勢に大敗し、逃げる途中で落武者狩りの竹槍(たけやり)に致命傷を負わされて自害したとされています。
いわゆる光秀の「三日天下」と伝えられていますが、勝負は時の運とはいえ、なぜこれほどまでに呆気(あっけ)なく倒されてしまったのでしょうか。
今回の講座では「本能寺の変」前後の光秀の行動をたどりながら、信長を倒すまでに至った経緯や、その後の展開を探ってみたいと思います。
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小説や映画、テレビドラマなどで昔から様々に描かれておりますが、実はこれらは江戸時代以降の講談などをもとにつくられており、信用できるものではありません。
また、光秀が本能寺の変の直前に信長から毛利家(もうりけ)征伐のための出陣を命じられた際に、領国である丹波(たんば、現在の京都府中部および兵庫県東部など)を没収されたという説もあります。新たな領地は毛利家を倒して自力で奪え、という信長の激励(?)であったとされていますが、これも変な話です。
光秀は信長の家臣でありながら、この頃は既に国持大名でもありました。いくら主君とはいえ、これから攻めようとする光秀に対して、何の落ち度もないのにいきなり領国を没収するということが果たして可能なのでしょうか。まして「領国を没収=路頭に迷わす」という厳しい条件の下で戦わせようという滅茶苦茶な作戦を、あの信長が採用するとは考えられません。
それでは、なぜこのような怨恨説がまことしやかに囁(ささや)かれ続けてきたのでしょうか。
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詳しくは後述しますが、信長と光秀との主従関係を冷静に見れば、光秀が信長に弓を引くなど考えられません。にもかかわらず、その考えられないことが実際に起こってしまいました。だとすれば、信長が今まで受けた恩を仇で返すほどの恥辱(ちじょく)を光秀に与えたと考えがちではないでしょうか。
すなわち、事件後に加害者の気持ちになって「逆算」したうえで「恨みがあったからこんな事件が起こったんだ」と自己満足して終わり、としてしまうことがよくあるのです。光秀の怨恨説も、こうした「逆算の論理」によって後世に考えられたものが大半であると推定されます。
しかし、光秀に諸説のような怨恨がなかったとしても、光秀が信長に対して「このままではついていけない」と考えてもおかしくない「流れ」があったことは私にも想像できます。この「流れ」をたどるために、彼の半生を振り返ってみましょう。
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やがて越前(えちぜん、現在の福井県東北部)の大名であった朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕えて、後に室町幕府15代将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)が朝倉氏を頼ると、光秀は義昭の側近であった細川藤孝(ほそかわふじたか)と親しくなりました。この二人が厚い友情で結ばれていたことは、後に大きな歴史の流れにつながります。
義昭は義景に対して自らを上洛(じょうらく、京都へ向かうこと)させるよう希望しましたが、義景がいつまで経っても越前を動かないため、やがて義昭は織田信長を頼るようになりました。信長は美濃(みの、現在の岐阜県南部)を統一した後に上洛し、義昭を将軍に立てることに成功しましたが、この頃までに光秀は信長の家臣になったと考えられています。
光秀には、和歌や茶の湯をよくするという教養人の一面がありました。和歌が詠(よ)めた光秀を前面に立てることで、武勇ばかりで教養面に欠けるところが多かった織田家が、朝廷や公家(くげ)とのコミュニケーションを取ることが可能となったのです。
このため、信長は光秀に朝廷との交渉を任せるなど次第に重用しましたが、こうした流れが信長の「大ピンチ」を救うとともに、光秀の「大出世」をもたらしたことを皆さんはご存知でしょうか。
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ここで信長の立場で考えてみましょう。管領や副将軍を引き受けるということは、信長が室町幕府の組織の一員に、もっといえば義昭の家来になるということを意味します。信長の最終的な目標は「自身による天下統一」ですから、いずれは義昭を見限るつもりでしたし、現実にそうなりました。しかし、その際にもし彼が管領や副将軍であったとすれば、主君に対する裏切りという重罪を犯してしまうことになります。
いくら戦国の世とはいえ、主(あるじ)に対する謀反(むほん)というのはダメージが大きく、後の天下取りにも影響を及ぼすのは避けられません。だからこそ、信長は義昭の誘いを断り、その代わりに我が国最大の貿易港の一つであった堺をおさえるために、和泉の支配を義昭に認めさせたのでした。堺を我が手にしたことによって、信長はこの後、貿易などの経済面において他の戦国大名よりも大きく優位に立つことになります。
さて、義昭が将軍になったばかりの頃の二人の関係は良好でしたが、信長は次第に義昭を圧迫するようになっていきました。やがて信長の本意を悟った義昭は激怒して、信長を倒すべく様々な作戦を練り始めました。
後の世に「信長包囲網(ほういもう)」と名付けられた、信長にとって人生最大のピンチが訪れようとしていました。
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ところが、まさに好事魔多(こうじまおお)し。信長の義理の弟で最も信頼を寄せていた武将であった浅井長政(あざいながまさ)が、信長を裏切って北近江(きたおうみ、近江は現在の滋賀県)から攻め寄せるという驚くべき情報がもたらされたのです。
予想もしなかった事態に、さすがの信長も気が動転しました。越前と北近江から挟(はさ)み撃(う)ちにあってしまえば、いくら信長でも勝てるわけがありません。しかもその危機は確実に訪れようとしており、もう時間が残されていませんでした。
考えた末に「逃げる」ことを選択した信長は、わずかな手勢とともに金ヶ崎を脱出すると、駆けに駆けて一目散に京を目指しました。朝倉氏と浅井氏による包囲網から辛くも逃れた信長は、数日のうちに京に戻ることができましたが、その供はわずか10人ばかりであったと伝えられています。
後の世に「金ヶ崎の戦い」と呼ばれたこの戦(いくさ)において、光秀は羽柴秀吉らとともに困難な殿(しんがり)を無事に務め上げ、名声を高めることに成功しました。
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息を吹き返した浅井・朝倉の軍勢は京を目指しましたが、信長に阻(はば)まれると比叡山(ひえいざん)に立てこもって反撃の機会を待ちました。浅井・朝倉軍を匿(かくま)ったということは、比叡山の延暦寺(えんりゃくじ)が信長を敵とみなしたことを意味しており、信長はここでも衝撃を受けました。
さらに信長を悩ませたのが、いわゆる「三好(みよし)三人衆」といわれた三好氏の勢力が摂津(せっつ、ここでは現在の大阪市付近のこと)で挙兵すると、本願寺(ほんがんじ)が三人衆に味方したという事実でした。つまり、信長は戦国大名の他に、延暦寺や本願寺といった強大な宗教勢力をも敵に回して戦わなければならなくなったのです。
浅井・朝倉軍は比叡山に登ったまま動こうとはしませんでしたが、もし信長が京から離れればすぐにでも占領できる距離にいたために、信長自身も京から動くことができず、そうこうしている間に本願寺が率いる伊勢長島(いせながしま、現在の三重県桑名市付近)の一向一揆(いっこういっき)の動きが活発となり、伊勢の長島城や尾張の小木江城(こきえじょう)を次々と落としました。
このうち、尾張の小木江城は信長の弟が守っていたのですが、最後には自害に追い込まれました。京を動けぬ信長は、可愛がっていた弟が一向一揆によって滅ぼされていくのを、それこそ指をくわえて黙って見ていることしかできなかったのです。
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それにしても、信長が最大の窮地(きゅうち)に陥(おちい)っていた際に、なぜ都合良く「和睦」が成立したのでしょうか。
まず考えられるのは、兵農分離していない朝倉軍の都合でした。雪深い越前は真冬になると身動きが取れなくなるので、来春の農作業を確実に行わせるためにも帰国を急いでいたからです。一方の信長軍は早くから兵農分離を達成しており、いつでも兵を動かすことができるという大きなメリットがありました。
しかし、それだけの理由で和睦が成立するとは考えられません。ここはやはり、普段から朝廷や公家と太いパイプを持っている光秀が裏で工作していたと考えるほうが自然ではないでしょうか。
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包囲網が連携(れんけい)することを防いだ信長は、同年旧暦9月12日に信長に抵抗を続けた比叡山の焼き討ちを敢行しました。長い歴史を誇った延暦寺は業火(ごうか)に焼かれ、逃げまどう多くの僧侶(そうりょ)のみならず、女人禁制のはずなのになぜか存在した女性やあるいは子供までもが容赦なく首をはねられました。
そして、この焼討ちにおいても戦功を挙げた光秀に対し、信長は近江の一部を彼に与え、坂本城(さかもとじょう)を築かせて京都や比叡山の抑えとしました。
信長の多くの家臣団の中で、浪人から新規に取り立てられてわずか数年しか経っていないにもかかわらず、光秀は早くも「一国一城の主」になったのです。しかも同じように浪人から採用された秀吉よりも出世が早かった(秀吉が同じ立場になるのは2年後です)わけですから、信長の光秀に対する厚遇ぶりと、光秀の信長に対する感謝の思いがよく分かります。
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その後も光秀は各地を転戦して武功を挙げ、前述の丹波も領地に加えました。地図を見れば分かりますが、丹波は京都のある山城(やましろ、現在の京都府南部)の真上にあります。つまり、信長は全国統一に向けて戦略上重要な位置にある国を光秀に一任しているのです。
また、信長は自分の家臣をいくつかの軍団に分け、それぞれに地方の攻略を命じていましたが(例えば羽柴秀吉は中国地方を担当)、光秀は「遊軍(ゆうぐん、待機している軍勢のこと)」として常に自分の手元においていました。
手持ち無沙汰(ぶさた)のようにも見える遊軍ですが、有事の際には各武将の援護のために真っ先に駆けつけるわけですから、攻撃力も防御力も同時に備えていなければなりません。そのような難しい軍団を、信長は光秀を信頼して任せていたのです。
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しかし、人間というものは、いくら物量や恩で満足していても、気持ちの中で何がしかの不信感を持ってしまうことがよくあるものです。それは光秀とて例外ではなく、信長の見せた行動の中から「このままでは信長様についていけない」と思わせる「何か」が芽生えた可能性が高いのです。
では、光秀に不信感を与えた信長の行動とは何だったのでしょうか。
ところで、皆さんは若い頃の信長が「非常に甘い」武将であったことをご存知でしょうか。何度も裏切ろうとした実弟の織田信行(おだのぶゆき)を殺害したことを除いては、一時は信長に逆らった武将であっても助命しているからです。例えば、信行側についた柴田勝家(しばたかついえ)らも許していますし、美濃の斎藤氏を滅ぼした際も、当主の斎藤龍興(さいとうたつおき)は追放されただけでした。
しかし、妹の婿(むこ)であり、絶対的な信頼を寄せていたはずの浅井長政の裏切りにあってからは、信長の人格が大きく変化していったと考えられるのです。例えば、浅井長政を滅ぼした後に、父の浅井久政(あざいひさまさ)や朝倉義景とともに、そのドクロを漆塗(うるしぬ)りにして金粉をまぶした薄濃(はくだみ)にして、それらを肴(さかな)に酒を飲んだ、という記録が残っています。
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こうした信長の姿勢は、天下統一が近づいて自分に正面切って敵対する人間が少なくなった1570年代の後半からより顕著に、そしてよりエスカレートしていきました。古今東西の絶対的な権力者の誰しもが陥りがちな「独裁者の罠(わな)」に、信長も嵌(はま)ってしまったのです。
例えば天正8(1580)年、信長は古来の重臣であった佐久間信盛(さくまのぶもり)や林通勝(はやしみちかつ)を、過去の不行跡(ふぎょうせき)を理由に突然追放しており、天正10(1582)年旧暦4月には、自分が安土城を留守にしている間に無断で外出した侍女たちを残らず殺害するという事件も起こしています。
信長による猜疑心(さいぎしん)に満ちた行動に対して、家臣たちは「明日は我が身か」とおびえるとともに、信長の手法についていけないという考えを持つようになりましたが、その中のひとりに光秀がいたのです。
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正親町天皇は信長に信頼と期待を寄せておられたとされ、天正5(1577)年には信長に右大臣を宣下(せんげ、天皇の命令を伝える公文書を公布すること)されました。
一方、信長は天正9(1581)年に京都において天皇ご臨席のもとで、一種の軍事パレードともいうべき「馬揃(うまぞろ)え」を行っており、これは信長が自分の力を周囲に誇示するためだったというのが通説とされていますが、その一方で「朝廷に対する圧力」もあったとされています。
光秀は早くから朝廷や公家と通じ、交渉役として奔走(ほんそう)してきましたが、信長の朝廷に対する数々の姿勢は、そんな自分の今までの血のにじむような努力を無にしてしまいかねない、とんでもないものに見えました。
光秀に朝廷に対する尊敬の思いがあったかどうか定かではないですが、少なくとも自己の努力を否定しかねない信長の行動に対しては「ついていけない」と不信感を抱くようになったと考えられます。
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しかし、これらの「ついていけない」思いだけで、光秀が信長への謀反を決意したのみならず、実際に行動したとは断定できそうもありません。不信感は確かに募(つの)っていったでしょうが、それが確実に主君への裏切りを決意させ、さらに行動に移した「何か」があったとは考えられないでしょうか。
ところで、一つの事件が起きた後に実行犯を捜索(そうさく)する際の名言に「事件後に一番得をした者を疑え」というものがあります。この格言を「本能寺の変」に当てはめれば、誰が一番得をしたといえるでしょうか。
羽柴秀吉の名前が真っ先に浮かびそうですが、彼はむしろ「被害者」になりかけています。光秀の毛利家に対する使者が秀吉側に捕まったことによって、秀吉は信長が暗殺されたことを初めて知りました。その後、急いで毛利家と講和して引き返しましたが、もし毛利家が信長暗殺を先に知っていれば、彼は中国地方に釘付けになっていたことでしょう。そんなリスクの高いことを秀吉が行うとは考えられません。
本能寺の変によって一番得をしたのは、実は四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)でした。信長はそれまで講和を結んでいた長宗我部元親を征伐する決意を固め、三男の織田信孝(おだのぶたか)や家臣の丹羽長秀(にわながひで)らに攻めさせる準備をしていました。しかし、その直前に本能寺の変が起こったため、元親は滅亡を免れたのです。
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こうした長年の苦労で磐石(ばんじゃく)になったはずの同盟関係を反古(ほご)にされたばかりでなく、家臣の縁戚とその子を討たれる立場になった光秀は激しく動揺しました。
「信長様の考えにはもはやついていけない」。従来の秩序こそが正しいと考え、信長の行動が理解できなかった光秀の中に芽生えた不信感がついに頂点に達し、主君への裏切りを決意させました。しかし、相手は何と言ってもあの「信長」であり、容易に勝てる相手ではありません。
しかし、光秀は実際に「本能寺の変」を起こし、敗れた信長を自害させました。なぜ彼は困難が予想された裏切りを成功させたのでしょうか。
その背景を探ることで、私たちは光秀という人物に課せられた「運命」を知ることになるのです。
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当時の光秀は信長の命令で秀吉の毛利家征伐の先導を任され、少なくとも一万数千人の軍勢を率いて領国の丹波から出陣していました。丹波から中国地方に向かおうとすれば、その途中で京都を通過したとしても決しておかしくはありません。
しかし、一万を超える軍勢が京都に入れば、信長もすぐに気付いて警戒を強めたと考えたほうが自然ですが、現実にはそうはなりませんでした。その理由として「二つ目の偶然」があるのです。
本能寺の変が起きたのは天正10(1582)年旧暦6月1日から2日にかけての深夜ですが、当日は「新月」でした。この日の月(つき)は太陽と同じ方向にあり、地球に暗い半面を向けるので、全く見えません。要するに当日は「闇夜」であったことから、夜陰(やいん)に乗じて光秀が本能寺の近くまで兵を動かすことが可能だったのです。
ですが、信長も歴戦の強者(つわもの)です。不意を突かれても光秀相手に堂々と戦い、打ち破っても決しておかしくないはずが、それが不可能だった理由が「三つ目の偶然」でした。
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かくして信長を討ち取り、天下取りに名を挙げた光秀でしたが、その後の展望については現代でも不明のままです。わずか10日余りで死んでしまったゆえの事情もありますが、それ以上に、彼にとっては「身内」ともいえる武将の裏切りが大きく響きました。
光秀には先述の細川藤孝という親友がいました。藤孝の息子である細川忠興(ほそかわただおき)は、光秀の娘である珠(たま、別名を「ガラシャ」)を嫁に迎えており、光秀は藤孝が当然自分の味方をしてくれるものと信じていました。
しかし、光秀の期待に反して藤孝・忠興父子は光秀の誘いを断り、藤孝は髪を切って出家し、忠興は珠を領国内に閉じ込めてしまったのです。驚いた光秀は自筆の書状で説得しましたが、受けいれられませんでした。
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細川藤孝・忠興父子にせよ、筒井順慶にせよ、彼らが動かなかったのには大きな理由がありました。それは、本能寺の変が「光秀自身によって単独で行われた」からです。
本能寺の変については、昔からいわゆる「黒幕」の存在が有力視されてきました。前述の羽柴秀吉や徳川家康(とくがわいえやす)、前将軍の足利義昭や朝廷、中にはカトリックのイエズス会の存在を挙げる人もいますが、私はこれらの「黒幕」がいたとは考えてはおりません。
もし黒幕の存在があれば、例えば光秀が細川藤孝・忠興父子に送った書状の中でその名前を書くことによって、細川父子に味方につくように説得できたかもしれませんし、また前述の毛利家に対しても、黒幕の存在を事前にほのめかして秀吉軍を釘付けにできるように依頼できたはずです。もしこれらが実現していれば、光秀がわずか10日余りで討たれてしまうようなこともなかったでしょう。
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信忠には京都を脱出して岐阜や大坂に向かい、父親の仇を討てるチャンスが実はあったのです。しかし、父親の救援などに時間をとられているうちに光秀軍に攻められてしまい、最期には逃げ切れずに自害しました。
信忠を生かしておいては、せっかく信長を倒しても光秀の天下取りに支障が出るのは必至ですし、何よりも黒幕が存在していれば、信忠の寝所を囲まないという大失態を光秀にさせるはずがありません。この点からも、本能寺の変は「光秀の単独犯行」と断定できるのです。
さらには、仮に黒幕がいたとして、事前に信長の暗殺が計画されたとすれば、おそらく本能寺の変は実現しなかったと考えられます。なぜなら、信長という人物は稀代(きだい)の「逃げ上手」だからです。
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通常であれば、それまでの軍功を惜しんで立ち往生するところを、自分の生命のほうが大事と冷静に判断した信長の的確な判断でした。後に天下を取った豊臣秀吉が、信長を評して「兵5,000人のうち4,900人が戦死しても、残りの100人の中に信長公はきっとおられる」と語っています。
「逃げ上手」であるうえに、諜報(ちょうほう)、いわゆるスパイの能力も抜きん出ていた信長ですから、自己の暗殺計画が立てられていれば、必ず事前に察知して逃げおおせた可能性が極めて高いと考えられます。
だからこそ、光秀が信長の暗殺を事前に計画していなかったうえに、いくつもの偶然が重なったことで単独で行動したことによって、光秀は信長に気付かれず、また逃げられることもなく討ち果たすことが初めて可能となったのです。
かくして、まさに「魔が差した」ゆえの「単独行動」で本能寺の変を起こした光秀でしたが、そんな彼にはもう一つの「致命的な欠陥」がありました。それは、光秀は信長のような「天下統一に向けての明確なビジョン」を持ち得なかったということです。
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